恩師のお宅にて①「神の手の外科医って・・」
ドクトルが医者になって、まだ数年の頃、恩師の1人である、楠本先生のお宅にお邪魔をしたことがある.
お招きに預かったのである.
「君、独身だろ、ご飯とか、どうしてるの?」と仕事の合間に聞かれたことがあったが、話は一旦それで終了で続きはしばらくなかったのだが.
忘れた頃、仕事終わりに、医局でぶらぶらしていると、先生が自分のところに来られて、
「先生、ご飯まだだよね、時間あるようならうちに来ないかね?」という感じだったと思う.
大先生のお招きである.断る理由はない.
「は、は・・・・」と先生の言われるままに、白衣を通勤の普段着に着替えて、お供をした.
ズボンのポケットの脇に穴があいていた.さらに、セーターにも小さな穴が空いている.
「しまった・・・・」あらかじめ予定を聞いていたら、穴のあいてない服で、通勤したのに・・・・・
「先生とそのご家族の、抜き打ちテスト・・・・か」
でも、まあ、例えばの話、恩師は娘さんがいて、その結婚相手をそれとなく探して・・・ということであれば、面接で既に不合格だから、それはそれで面倒がなくていいか・・・
偉い先生の婿になる自信は、その当時のドクトルにはなかったが、思考はなぜか先走る.
「歩いて行くけどいいかい?結構遠いかもしれないよ.」
病院から先生の家まで、歩いて、30分くらい.しかし驚いたのは、お家の門を通ってからだ.庭の中、ゆけどもゆけども、家屋がない.10分くらい歩いてようやく、玄関が見えた.
「先生、広大はお屋敷ですね、病院から御門までと同じくらい、歩きましたか?」それは大袈裟な例えかもしれない.しかし、100里の道をゆくのに、99里をもって半ばとする超数学的な思考がドクトルに働いた、と理解しよう.
「まあそうかもね、朝遅刻しそうな時、大変だよ.だからなるべく時間の余裕を持つようにしているがね・・・」
先生は早寝、早起きを心がけておられるということは常々伺っていたが、その理由が、この広大なお屋敷?
玄関には、奥さんと、2人の息子さん、そしてお嬢さんが出迎えてくれた.
皆さんを簡単に紹介されて、まずは先生の書斎に通された.
書庫には膨大な数の本が並んでいた.ドクトルも、蔵書の数についてはちょっと自慢だったのだが、そんなものは足元にも及ばないくらいの蔵書である.
新しい本、新聞やら雑誌で紹介されたような本、本屋の店頭に並んでいる人気の本.全集、脳外科から内科の教科書、大学物理の教科書・・・・・・
棚の上の方に並んでいる本には、表紙が茶色くなって、紙が虫食いで、ボロボロになったもの、竹の皮やら、木や竹の皮に隅で書いたようなものまで置いてあった.
テーブルの脇には段ボールがいくつも置かれて入れ、その中には、封筒をばらしたような紙が、差し込まれている.
「先生、これは・・・」とドクトルが聞くと、先生は、ちょっと恥ずかしそうに笑って、
「あ、それね、ほら、これだよ.」
先生が差し出したのは、高校数学の参考書である.「チャート式数学・・・」
「私らみたいな老人も、若い人には負けてられない、という気概を示そうとしてだけど、全然進まないね・・・」
封筒をばらした紙には、日付と、問題の番号が記入されていて、計算が手がきで書かれている.大体は黒のボールペン、そして、インクの切れたボールペンが乱雑にお菓子の空き箱に突っ込まれていた.
「お父さん、ご飯の支度できました.」
お嬢さんが、部屋まで迎えに来てくれた.
「それでは、食堂に参りましょうか・・・」
先生に促されて、ドクトルは、長い廊下を食堂に向かう.
ドクトルが普段食べ慣れている、家庭料理・・・・
中華だとか、フレンチだとか、トルコとか、馴染みのない料理でなはい.
いつもコンビニに行けば、手に入るようなもの・・・・
「これね、お母さんとはるなが作ったの.ねえねえ、ドクトル先生、お母さんより、はるなの方が料理上手なんだよ.」
「もお、この子ったら、ドクトル先生に恥ずかしいから、やめておくれ、お母さん、料理できないみたいじゃない.」
どの料理も美味しい.そして懐かしい味がする.何よりも温かい.
(昔はこんな夕ご飯、あったっけなあ・・・)
「先生は、お酒は?」楠本先生に聞かれた
「あ、あの残念ながら・・・体質的に、ちょっと・・・」ドクトルは答えた.
「あ、そうか、じゃ、私は遠慮なく1人で飲みますけど、ごめんなさい・・」
なんでも、先生の友達は、日本で最初にお酒を作り、温泉リゾートを整備したのだとか.
「これ、日本酒はね、私の友が、作り方を考案して、広めたんだよ、もう、何千年になるか・・・」
「あなた、そんな話、してもドクトル先生がお困りでしょ・・・」
楠本先生は、奥さんにたしなめられている.
1人でお酒を召し上がる.普段はあまり喋らない先生は、お酒が入ると途端におしゃべりになるようだった.
そしてやや挑発的な議論をふっかけてくる.
「ドクトルくん、君は、神の手のドクターが存在すると、思うかね、そんなものはないと思うかね・・・・」
「いや、どうでしょう・・・今まで、そういった先生に会ったことはないですが・・・」とドクトルがややいい加減な返事をすると
「人間が、神を越えるなど、おこがましい!そお思わんかね.」
酔った勢いの先生の喋りの勢いはかなりのものである.
「私の親友にギリシャの神様がいる.なんでも、彼は、巨大な怪物と戦った、らしい.そして戦の末に、破れて、囚われの身になったらしい」
「はいはい、お父さんの神話の始まり始まり」お嬢さんのはるなさんも、面白半分に聞いている.いつものように始まる話なのだろう.
「いや、はるなも、事代も、建御も、会ったことあるだろ、はるなは子供の時に彼に抱っこしてもらったんだから.」
「はい、はい・・・」ご家族は皆、先生のお話には、慣れっこらしい.
「それでな、私の親友、がんじがらめに縛られて、その身体中、全ての関節から、靭帯とか、腱とか、全部抜き取られたっていうから驚きだ.怪物のくせに、手先がやけに器用じゃないかね、ドクトルくん、解剖の時、そんなこと瞬時にできたら、良かったと思わないかい?」
「はあ、確かに・・・」
医学部の解剖実習、亡くなった方々のご好意で、「献体」されたご遺体を使わせていただく.
血管とか、神経、靭帯に腱、解剖学アトラスのようには色分けされていないのである.一つ一つ、これはなんの組織だろう?動脈だろうか、静脈だろうか、神経だろうか?そこから始まる地道な作業・・・・
「それでね、その友達、身動きが取れない.縛られた上に、全ての腱と靭帯なくなったんだ、痛かったのだろうか?」
「そおでしょうね、私、アキレス腱、切ったことがありましたが、それなりに痛かったですよね・・・」
「だろ?」先生の饒舌は勢いを増してきた.
「それで、親友、彼も子沢山だ、何を隠そう私自身も、子供は、180人くらいいる、と言われているのだがね・・・」
「あなた、そんな話は・・・」奥さんが荒唐無稽すぎる話には流石に釘をさすが.
「あ、いや、そう、お前には申し訳ないことをしたと思っている、すまない.」
(?)作り話にしては現実的な話?まあ子供さん、180人は現実にはありえないか.かのオットセイ将軍、11代家斉でさえ、子供は50何人かと言われているから.
これも先生の語る「神話」なのだろうか?
「それで、彼の息子の1人、何くんだっけ、ほらお前たちも一緒に遊んだことあるだろ、あの彼、あれ、名前出てこないな、でもね、彼、医者じゃないんだけど、手先と口先がすごく器用な子でね、怪物が隠した、親友の腱とか、靭帯、全部、探し出して、手術してくっつけちゃったっていうんんだ.まさにこれぞ、神の手術!」
若いドクトルは、あっけに取られるように恩師の話を拝聴した.
「でもね、そこまでできるわけじゃないのに、自分の手を、神の手だ、なんてのは、ちょっと、尊大なんじゃないかと、私は思うがね.君はどう思う?」
一息で恩師はそういうと、ドクトルの意見を求めてきた.
「はあ、よくわからないのですが、私も勉強しないとダメだってことですよね.」ドクトルが小声でボソボソいうと、
「その通り!君は偉い.流石に私が見込んだだけはある!」
先生になぜか褒められた.
「あ、先生、ズボンに穴が、はるなが縫ってあげる.」
お嬢さんにズボンを取り上げられて、先生のジャージをかしていただいた.
しばらく談笑したのち、穴の塞がったズボンを履いて、ドクトルは、
「長い時間お邪魔いたしました。そろそろおいとまを申し上げます.ご飯もとても美味しかったです.本当にありがとうございました.ズボンまで縫っていただいて・・・」とはるなの方を向いてお辞儀をした.
「あ、でもこの次は、ちゃんと破れてない服着て参ります」ドクトルはちょっと恥ずかしそうにそう言った.
(あ、しまった!「またきますね」と自分から言ってしまった.招待されてもいないのに・・・)ドクトルは、恥ずかしくて顔が赤くなったと感じた.
それを察したのか、
「またいつでもどうぞ、お待ちしておりますね」奥さんに言われた.
「ドクトル、またきてね!」お嬢さんは、ドクトルが見えなくなるまで玄関先で手を振って見送ってくれた.
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後日先生にその話をしたところ、ご自分の話したこと、何一つ記憶しておられなかったようであった.




