壱 翠燕、邪仙と論戦す
翠燕は陽の射さない高景城の中を彷徨っていた。血と肉で出来上がった結界陣は、すでに修復されている。今では城どころか岸壁の中から出ることもできなくなっていた。
が、元より翠燕はこの岸壁から出るつもりなど無かった。
「簫醒羽化」の事はもちろん、燦王のこともある。
要は燦王が班等魏礪に救援を求めているという図式が天華にとって最悪なのだ。燦王を説得――いや、殺してしまえば時間の余裕はできる。
一番の目的は燦王。それは間違いない。二番目に「簫醒羽化」を演奏していた奏手。これは望み薄だ。演奏しているところを見ていたわけではないから、自動的に演奏する楽器が一揃えあればいい方だろう。
最悪、どこか遠くで演奏している「簫醒羽化」を宝貝でこちらに響かせていただけの可能性もある。
燦王、「簫醒羽化」。
どちらにしても鍵を握るのは、邪仙・郭甚任。
翠燕はすでに時間の感覚を喪失しつつあった。流李を送り出してから、ほとんど休み無く岸壁内を捜索しているが、見つからない。挫けそうになる心に喝を入れるために、大きく頭を振る。
師に貰った対仙術用の防護服は初っ端に破かれてしまった。今は貰ったお札を気休めに持っているが、気力を充実させておかねばあっという間に甚任の精神攻撃に飲み込まれる。
そこに思い至ったとき、翠燕は甚任が何処にも居ない謎が解けた。
翠燕は息を整えながら、流李と別れた中央に水瓶のある部屋に戻る。
多分、甚任はこの部屋を移動していない。いや移動できないのだ。最初に出迎えに来たのも多分、幻だったのだろう。だから、この部屋にいないというのもきっと幻なのだ。
そう確信して部屋を見渡す。体内の気を整えて、目に力を入れていくとあろうことか、水瓶に背を預けるようにして腰を下ろしている甚任の姿が浮かび上がっていく。
「よお」
翠燕がようやく術を破ったのに気付いたのか、向こうから声を掛けてきた。
元が死人であるから仕方ないのかもしれないが、顔色が実に悪い。座り込んでいるのは単純に身体を支えるだけの力がないからだろう。そんな中、目だけが紅く煌めいている。
「今にも死にそうね……あ、これ皮肉だから」
虚勢を張って、甚任につけ込む隙を見せない。相手がいかに死にそうであっても、油断する理由はないからだ。
「なになに、一度死んだ者は二度とは死なない。いや、あるいはこういった自然の法則を崩すことも濁業を重ねるということになるのかもしれない」
「命を失うことを“死ぬ”というのよ。命の無いあなたはきっと“壊れる”んでしょうね」
言いながら、目に集中させた気を身体に均等に配分してゆく。言葉で牽制しておいて、その影で必死で気を練る。絶対に油断はしない。
「そんなに気を張らずとも大丈夫だ。俺も本調子ではない。しばらくは何もできんよ」
「結界をあっさりと崩せたのはそういうわけか」
「いや、あれを崩せるとは思わなかった。修復するのに、大変な手間だった」
なるほど全てが、敵の思惑通りに進んでいるわけではないということか。そもそも流李を連れてきたこと事態が“不測の事態”だろう。
「それよりも、俺は今の段階でお前を殺すつもりなど無い。お前には天華の滅ぶ様を見届けて貰わねばならぬからな」
「また、それなの? その割には『簫醒羽化』を復活させるなんて、手間を掛けてるじゃない。あれはよほどの時間と金をかけないと……」
「いや、あれはどちらかというと“こちら側”の代物でな」
「“こちら側”……?」
「さすがに知らないか。俺も師から聞いて驚いたぞ。あの曲は人間を無理矢理、昇仙させること事も可能らしい」
「な!?」
そんなでたらめな話は聞いたことがない。そもそも仙人になるためには素質が最も重要で……
「曲を作ったのが誰かは知っているだろう?」
委細構わずに甚任はさらに質問してくる。
「それは……元宗、徐怜来が作ったんでしょう?」
「そう、その謚が問題だ。そもそも“元”とは何だ?」
「それは徐怜来が楼の中興の祖だからでしょ。そこから元める、といった意味だと……」
「まさか皇帝が道術にはまっていました、とも公表できないからな」
その噂は……翠燕も聞いていた。名君として登場した元宗だったが後半年には寵姫への愛に溺れ、暗君として歴史から退場することになる。その原因が実は寵姫ではなく、仙術――道術への傾倒にあるというのは、少し歴史を学ぶといくらでも聞こえてくる噂である。
つまり謚の意味合いも違ってくる。
元める、ではなくて、道教の最高神、元始天尊からきているということだろうか?
「謚の意味はそれほど重要じゃない」
甚任は水瓶に手を掛けて、這い上がるようにして立ち上がった。紅い瞳はずっと翠燕を捕らえ続けている。
「問題は、そういう曲をお前の両親が復活させたということだろう」
「それは、単純に無くしてはいけない文化……」
「言っただろう。あの曲は人を仙人にするんだ。つまり不老不死、この世の憂いから解き放たれることになる。お前の国が崩壊する前の状態は知っているな?」
もちろん知っている。
流李の知識の欠落ぶりがうらやましく思えてしまう。
「軍備を放棄し、文化で勝つことこそが人の誉れ、そういって国を治めることすらままならなかったあの無能な……国主と名乗っていたんだったか」
「ぐ……」
「挙げ句の果てに、仙人になることを夢見て、民を守るべき国費を浪費し、曲を復活させたのだ。なかなか心温まる話だな」
「民にはそれほど害はでていない!」
「それは結果論だ。戦火の被害が最小限で済んだのは、泰と潮獅訓が方針を転換したからだ。どこにもお前の国が貢献した部分はない」
ざっくりと切って捨てる甚任に、翠燕は反論できない。それが全くの事実だったからだ。
「何という無責任な国主だ。結局、自分の国を見届けることもできなかった」
「違う! 父上達は……」
「何が違うものか。現に娘のお前は人から託された想いを無責任に踏みにじって、のうのうと天華を渡り歩いているではないか! お前の両親の無責任さを証明しているのは他ならぬ、お前自身というわけだ!!」
翠燕の呼吸が乱れる。体内の気脈が不安定になる。
いけない。このままだと甚任の術に飲み込まれる。
「心配することはないといっただろう。お前は当分殺さぬよ。天華に班等魏礪という毒が回りきるその瞬間まで。お前が守ると嘯いた、天華の文化が壊れる瞬間を、目に焼き付けるがいい」
甚任は薄く笑う。
「まずは守るべき大地を捨てて逃げ出した、天華の主を名乗る軍の姿をご覧いただこう」
甚任が口訣を唱える。再び水瓶の中から水が生き物のように持ち上がってくる。
だが、翠燕の意識は再びそこで途切れた。一晩中動き回っていた疲労。それが加えて甚任の言葉を打破できなかったという、自分への負い目によって吹き出したのだ。
そんな翠燕を見て、甚任の顔から表情が消えた。壊れた玩具を見るような冷めた眼差しで崩れ落ちた翠燕を見つめる。その傍らには城外の様子を映す水鏡。
何の気なしにそちらに目を向けた甚任の顔に表情が現れた。
そこには後に天華における、対騎馬民族の基本戦術の萌芽があったのだ。




