弐 流李、班等魏礪に戦く
斥候が帰ってきたのは、その日の正午前だった。
宣言通り眠っていた偉門を起こし、流李はさらに欧練を呼びに行く。
偉門の本陣は今では高景城の正門前に移動していた。土を掘り起こしたので、砂塵が舞い、すっかりと薄汚れている。流李は欧練の後に続いて幕舎に入った。
あの夜の一件以来、欧練とはほとんど口をきいていない。不思議なことに流李には欧練への悪感情がほとんど無かった。普通ならこの局面で「逃げよう」などと言った相手を評価できるはずもないのだが、結局あれ以来、欧練は逃げようとは言い出さないし、仕事も真面目にこなしている。
あれはもしかしたら、偉門を試したものなのかも知れない、と流李は考えるようになっていた。
斥候が持ち帰った情報は、あの時水鏡に映った光景と翠燕の推測の正しさを証明していた。泰正規軍の情報将校と同じ力を持つ翠燕の知識に、流李は改めて舌を巻く。
「これで用意が無駄にならずに済みそうだ」
報告を聞き終えた偉門は本当に満足そうに頷いた。この剛胆さには呆れかえるばかりだ。
「しかし閣下。この築いた陣を連中が無視したらどうします?」
斥候がいるので、欧練がそれなりに言葉遣いに気を遣って偉門に質問する。
「そうしてくれればかなり有り難い。俺たちは奴らの後ろからやってくる輜重隊を蹂躙して、仕事は終わりだ。あとはふらふらになった連中を隼王の兵なり、皇帝の兵なりが叩けばいい。馬は飯がたくさんいるからなぁ」
「じゃあ、どうしてもここにやってくると?」
「来るだろう。元々は燦の救援が天華に乗り込んでくる奴らの口実だしな。そこをきっちりしておかないと、それ以上先には進まない……と思う」
最後がいささか頼りないが、その見解には欧練も流李も異論はない。
「相手が班等魏礪だと時間の猶予はあまりないな。欧練全軍戦闘配備。携帯している飯も食わせておけ、あと……」
と、そこまで偉門が指示を出したところで、じゃんじゃんと半鐘の音が響き渡る。続いて、物見の兵達から、
「敵襲! 敵襲~~~~~!!」
という、ある意味待ち望んだ言葉が発せられる。
「来たか! さすがに速度が違う!!」
嬉しそうに笑みを浮かべて、幕舎を飛び出す偉門。その後に続く欧練の表情にも笑みがあった。流李は周囲の空気が変わっていくのを感じた。
――そうだ、これからここは戦場になるのだ。
流李が一歩幕舎から足を踏み出すと、すでに怒号が飛び交っていた。
そう、怒鳴り合わなければすでに意思の疎通もままならない状態だ。幾重にも重なった蹄の音が、世界を圧倒している。いや、それどころか世界を揺らしている。
「流李! こっちに来い!」
そんな中、かろうじて偉門の声が聞き取れた。声のした方向を探すと、防壁陣の最深部に設置された物見櫓の上だった。例の丘の上にあったものをここに移築してきたものだ。
右往左往する兵士達をかき分けて、言われるままに櫓を登る。半ばまで登ると偉門自らが出迎えてくれた。
「お前にはあとで翠燕に、この戦いの様子を説明して貰うんだからな。あいつめ、俺の話は半分も信じやがらねぇ」
翠燕への執念と同時に、自分が生き残ることを全く疑っていないその図太さに感心する。そのまま導かれるようにして櫓の最上階へと登ると、何かの力が翠燕に襲いかかってきた。
恐らく、それは音の塊だったのだろう。櫓の下でも聞いた蹄の音。だがそれだけではない。風、と言えば風なのだろう。空気が押し寄せてくる感覚は、風に良く似たものだった。
けれど、天華を駆け巡る雄大な風ではない。人と獣がその風を引き裂いているのだ。
そしてそんな風の悲鳴が流李の耳朶を打つ。打ちのめしている。
「見ろよ流李。敵とはいえ大した眺めだぜ」
偉門に言われるまでもない。流李の目はすでに魅入られたように、何かが襲いかかってきた方向、つまり騎馬軍団がやってくる方向を見つめていた。
空を曇らせるほどの、もうもうたる砂塵。槍の穂先や剣の閃きが、その砂塵を切り裂いて周囲に殺意をまき散らす。
そして翻る色とりどりの旗。それが示すものは圧倒的な力。
人と馬の区別はここからでは付かない。それほどの密集状態でまっすぐにこちらに向けて突撃してくる。背筋が寒くなるほどの暴力を示しながらも、その動きには心を引きつけられる。
「これが……三万の班等魏礪……」
「いや、三万じゃこんなもんじゃ済まない。これは先発隊の三千というところだろう」
偉門が冷静に指摘する。
「これで十分の一ですか!」
「十分の一って言っても、人と馬だからな。まずこいつ等全滅させるぞ!」
一瞬、その言葉を疑いかけた流李だったが、そもそもそういう意気込みでもなければ生き残る事すらできないのだと言うことに、今更ながらに気付いた。
「はっはーーー! 見ろ! 穴に落ちたぞ! これで衝突力が少しは鈍るな!」
言われて、遠くに目をやると一体になっていた騎馬集団の一部にへこみが見える。が、そんな乱れも一瞬にして修正されていく。いや、それより驚くべきはあんな遠くに穴を掘っていた偉門の手際だろう。
「昨日、欧練と小さくて深い穴をたくさん掘ってきた。上手く馬の足が入り込んだら、絶対にこける。大惨事だ」
何という腰の軽さ。が、いい手ではある。そうこうしている内に、本格的に掘った穴の中に、先頭集団が落ちていく。今度はさすがに一瞬へこむぐらいでは済まなかった。
陣形を保っていた騎馬集団の速度にばらつきが出て、でこぼこになっていく。
が、突進力は衰えを見せない。遮二無二突っ込んでくる。距離が近づいた分、馬の嘶きや人の雄叫びが耳に飛び込んでくる。敵の声を生で聞いてしまったことで、流李の身が竦む。
しかし、その声が突然悲鳴に変わった。再び敵が穴に落ちたのだ。そして疑似城壁にそのまま突進を掛けたのか宙に舞い上がる人や馬の姿も見える。あれではこちらにさしたる被害もないのではないか。
「……何だか、随分もろく……感じられるんですけど」
「かもしれない。何しろ奴らが来るのがわかっていたのは今回が初めてだろうからな」
なるほど、つまり備えることができたのが初めてなら、向こうにしてみれば備えられるのも初めて、というわけか。
その時、偉門が大きく手を振る。すると、あらかじめ打ち合わせしてあったのだろう、あちらこちらで旗が振られて、自陣の中から騎馬隊が出撃してゆく。
隊長は欧練のようだ。どうにも便利使いされている。
「仲大殿、あれは?」
「全滅させるって言わなかったか?」
あれは意気込みではなかったのか。全滅にこだわるのは……
そうか、班等魏礪の本隊にこの陣の存在を知られたくないのだ。知られなければ、またこの死への突進のような、馬鹿な攻撃を繰り返してくれるかも知れない。
……いや、そこまで甘い見通しは立てないだろう。
が、先発部隊から連絡がなければ、本隊は立ち止まる。つまり時間が稼げる。
今何をすべきかを、偉門は全く見失っていない。
流李はこの戦いに光明を見いだした気がした。
が、この戦闘での泰軍の死傷者の数は三百。さらには全滅とはいかず、幾ばくかの逃亡者を出してしまった。しかし、敵先行部隊はほぼ壊滅。
――疑似城壁は血で塗装され、落とし穴は屍体で埋め尽くされた。




