捌 牙偉門、決意を固める
――待てよ。
ということは、自分の背の高さはどんな機密よりも秘中の秘であるという確信が、牙偉門にはあるということになる。何とも呑気な話だと思わずにやけそうになる表情を引き締めて、迷うことなく一番背の低い男を除いて、他の男には退場を願った。
そこで欧練も一緒に退場して、流李は残された男と二人きりになる。
男は机の上に座り込んでいて、下からねめ上げるようにして流李を睨んでいた。
「……翠燕はどうした?」
前置きなしで切り出されたその声は、まるですねた子供のよう。
身につけている鎧は確かに高級将校用の綺麗なものだったが、寝入りばなを起こされたせいなのか、日頃からそうなのかどうにも身につけ方が雑だ。
あちこちが飛び跳ねた、収まりの悪そうな髪を後ろで適当にまとめてあるようなところを見ると、普段からこういう着こなしなのかも知れない。
日に焼けた浅黒い顔には目立った傷はないが、その鋭すぎる眼光も手伝って明らか凶相の持ち主だ。しかも今は人を睨みつけている真っ最中。
ただ、どうしても背が足りない。餓鬼大将がそのまま大きくなったような、と言うよりは、そのまま大きくならなかった、と言うべきなのかも知れない。
「それも含めて、お渡ししたいものがあります――よろしいですか?」
流李は懐に右手を入れる仕草をしながら、目の前の男――偉門に確認を取る。偉門は軽く頷き、流李は翠燕から預かった布を引っ張り出した。
その途端――
偉門の表情が一変する。机から飛び降りると、易々と流李の懐に入り込み流李の手から布をひったくる。
「翠燕が、これをお前に渡したのか!?」
「は、はぁ……」
「これを最初に見せれば、こんなに遠回りしなくても良かったんだよ。翠燕がこれを他人に渡すことがあるとは思わなかった」
そんなに大事な物なのかと、改めて自分が持ってきた布を見つめた。あの時は暗がりでよくわからなかったが、布の色は赤。いや、深紅と言ってもいい。そこに何か白抜きで描かれている。字だろうか?
とするとただの布ではなくて、旗……か?
そこまでの考えに至ったとき、流李の脳裏に思い描かれたのは、父の形見、そして事態がこうなったそもそもの原因『臨江林旗図』。
「おい、呂流李とか言ったな。あの城で何があったか説明しろ」
旗に気を取られている間に、偉門は旗にくるまれていた例の書面を読み終えたらしい。
元より、あの短さでは読むのに時間もかかるまい。流李は頷いて説明しようとする。最初は上手く要点をまとめようとしたが、うまくいかずに黙り込んでしまう。
そんな空白に苛つくように、偉門は流李を睨みつける。そこで流李は観念して、そもそも翠燕と同行していた理由から、最初から順番に説明する。
偉門に睨みつけられたままで実にやりにくいが、とりあえずは黙って聞いていてくれた。
そうやって説明している内に、流李は事態を再確認してしまった。話している先から、背中に冷たい物が流れてゆく。
――これは本当にまずい。
天華が班等魏礪の鉄騎に蹂躙されていく光景が、目の前に浮かんでくる。
この自分の想いが相手に伝わっているのかどうか。説明しながら何度も偉門の様子を伺うが、相変わらず自分を睨みつけているだけで、表情が動くことはない。
わかっているのだろうか?
今、この場の判断によっては天華の命運が決まってしまうと言うことに。
逆に偉門を睨み返すようにして、流李は説明を終えた。
すると偉門は、背もたれのない椅子を流李の元へと蹴って寄越し、
「座れ」
とまずは命令。流李は思わず言い返しそうになるが、
「その足じゃ、立ってるのも辛いはずだ。今は他のことに気を取られて気付いてねぇだろうけどな」
と言われると、その言葉も飲み込むしかない。
「腹は減ってないか? 薬師は多分、敦が手配していると思うが……」
さらに掛けられる親切な言葉に、流李の気が抜けそうになるが、天華は今それどころではない。この危機が正確に伝わっていないのではないかと流李は再び声を出しかけるが、今度は何か熱心に書き物をしている偉門の姿に再び思いとどまる。
「おい! 誰でもいいからここに敦呼んでくれ! それから飯の用意……あと、酒だ!」
酒? 絶対に伝わってない。
流李は腰を下ろそうとしていた姿勢から立ち上がりかけるが、またもや邪魔が入った。
「はいはい、ここにいますよ。お呼びがかかると思って控えてました」
間髪入れずに、品のある方が幕舎の中に入ってきたのだ。
「自慢話はいいから、まずこれを読め。翠燕からの報せだ」
「はい」
と言いながら、机の上に置かれた旗に気付いて、先ほどの偉門と同じように目を丸くする。そして次の瞬間には翠燕からの報せを読んで目を細める。
「隼王府に行ってくれ。さっきこの流李から詳細を聞いた。まとめたのがこれだ。一緒に持って行け」
「私がですか?」
この裴敦という男は副将らしいから、使いに出すのは確かに異例だ。
「お前が行けば、めんどくさい手続きを取らなくても済むだろう。時間を食うわけにはいかないんだ。馬は駿馬を選んで、五頭ぐらい潰してもいい」
「将軍の馬も?」
「いい。あいつら相手に馬で競っても仕方がない。何日かかる?」
「戻ってくるまでに、兵力を揃えて六日はかかるでしょう」
「じゃあ、一日千人すり潰してもいい計算か」
一瞬、偉門が何を言っているのか流李は理解できなかった。が、すぐに翠燕の報せを思い出す。班等魏礪が高景城にやってくるまで三日。隼王が救援の軍を送ってくるまで六日。
その差、三日。
その三日間を、偉門は今ここにいる兵を全滅させてでも守りきる覚悟なのだ。
そこまでの覚悟を固めていると言うことは、今の危機的状況は十分に理解していると言うことになる。では、先ほどの酒の要求は何だったのか?
「おいっす、兄貴。飯はまだかかるけど酒なら持って来たから大声を……」
今度は先ほどの欧練だった。知った顔ばかりやってくるが、つまりは当直で、起きているのが彼らだけなのだろう。その欧練も翠燕の旗を見て、緊張を全身に漲らせた。
「おお、欧練。こっちの娘は俺の昔馴染みでな。久しぶりに尋ねてきてくれたんだ……ということにしておくから、話を合わせろ」
後半を囁き声に変えながら、偉門は欧練を手招きする。
「退屈なのはわかりますけど、兵士の手前加減はしてくださいよ……何事です?」
咄嗟の芝居とは思えないほど自然に答えながら、欧練は旗と流李とを交互に見やる。そして表情が引き締まっていった。空気の重さを感じ、事態の深刻さを察知したらしい。
「今説明する。けど、絶対に大声を上げるな。今兵達に感づかれれば、逃亡者が出る。それも大量に」
偉門のその言葉に、流李は今夜の一連の流れに納得が行った。翠燕が必ず偉門に直接伝えるように念を押したこと、偉門が事態を認識していいないかのように、酒を頼んだこと。
今、この瞬間の最悪は絶望的なこの状況が漏れて、兵士達が離散してしまうこと。高景城を取り囲む兵力が踏ん張らなければ、天華の大地は一瀉千里の草刈り場となってしまう。
翠燕と偉門。
この二人は危機の本質を正確に把握した上で、自分のようにただ冷や汗を流すだけでなく、その先を見据えて行動していた。
この二人はどこか似ているような気がする。
自分にも何かできることはないか、と流李は自分の手から離れそうになっている今の事態を見極めるべく、集中力を高めた。
偉門は欧練に何が起きているのかを説明している。だとすれば、あの男もそこそこの地位にあるというわけか。裴敦はどうか? と見てみると翠燕の報せと偉門の文を慎重に革袋に入れているところだった。このまま隼王府に赴くつもりだろう。
しかし、何か忘れているのではないだろうか?
「あの……裴敦様?」
「すいません、薬師は呼んではいるのですが、何しろこの時間なので」
「いえ、そうではなく双園に使いは出さないのでしょうか?」
翠燕は確かに伯声殿――皇帝へも知らせるといっていた。それに翠燕の言葉を出すまでもなく、この緊急事態に中央に報告しないなどという選択肢はあり得ないように思う。
しかし、それはこの場にいる男三人の意表を突いたようで、全員が一斉に流李を見つめた。
「……そりゃそうか。出すだけは出さねぇとまずいな」
「知らせても、間に合いそうもありませんが、それが筋ですね」
この場に翠燕がいれば「軍閥化の始まりだわ」と言いそうな事態ではあるが、もちろん流李にはわからない。逆に双園からここまでの道のりを思い出して、確かに間に合いそうにないと、納得してしまっていた。
そんな流李にもはっきりと間違いだとわかる言葉が、残る欧練から発せられた。
「それだ兄貴。双園に行くふりして逃げちまおう」
今度は欧練に全員の視線が集まる。しかし欧練はそれを平然と受け止め、
「俺たちが、夷共を防ぐ義理なんかねぇじゃねぇか。さっさと逃げ出して何処かに隠れてりゃいい。あいつ等が来たんじゃ、どうせ世の中大騒ぎだ。いくらでも世に出るきっかけもあるよ」
「な……!」
あまりの言葉に流李は立ち上がるが、右足の痛みが全身を貫いて、そのまま声も出せずに再び座り込んでしまう。そのまま痛くなるほどの沈黙が幕舎の中に満ちるが、やがて偉門が口を開いた。
「……義理はある」
「どんな? 俺たちゃ燦の残党をあまり追い詰めないようにして降伏させろとは聞いたが、夷の相手をしろとは言われてねぇぞ」
なおも言いつのる欧練に、偉門は表情を動かすことなく、
「お前の考え方は、きょ、きょ……」
「局地的……ですか?」
裴敦から救いの手がさしのべられる。
「そう、それ。局地的過ぎるだろう。確かに言われたことはそうだが、それよりずっと前から、俺たちゃ天華を統一するって目的で戦ってきたはずだ」
「だから……」
「そりゃつまり、天華の乱世を終わらせるって事だろ。今ここで夷から逃げ出すって事は、自分で自分を台無しにしちまうじゃねぇか。俺はそんな事しねぇ。男が廃る」
あっさりと偉門は言うが、三千の兵で三万の足止めをしようというのだ。
もしかすると常識的なのは欧練の方で、おかしいのはもしかしたらここに留まって戦おうとしている方なのではないか――自分も含めて。
「第一だ、これは好機だぞ」
「は? なんの?」
「あの翠燕がだ、俺に貸しを作ることを承知でこうやって頼み事をしてきたんだ。これで生き残ったあとは、あいつの乳は揉み放題だ!」
そう言う偉門の目は血走っている。
これを前向きととらえるべきかどうか。おまけに実に下品だ。
けれど、邪仙の、
「こんな女相手にする男などいようはずもない」
などという言葉に比べれば、むしろ好意を覚えてしまう。
「俺は俺の野望のために、預けられた兵力を使い切る。今まで俺より偉くならなかった奴らは運がないと諦めて貰う。欧練、お前はその点は運がいい」
偉門は下から睨め上げるようにして、欧練を見やる。
「お前を双園への使いにしてやってもいいぞ。どうする」
「ここに残りますよ」
欧練は即答した。




