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剡旗伝  作者: 司弐紘
第三回 遺言屋の過去
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伍 邪仙、濁業を重ねる

「くひひひ、これはこれは」


 今度は人間離れした笑い声を上げて、甚任じんにんは丁寧に画を行李こうりの中にしまい込んだ。


「これは困ったことになったな、遺言屋。確かお前は“文化の擁護者”を気取っていたのではなかったかな? いかんなぁ、安全な場所に収めず自分の物にしてしまっては」

「く……」


 この口上にはさすがの翠燕すいえん咄嗟とっさには反論できない。代わりに縛り付けられたままの流李りゅうりが言い返した。


「だからといって、こんな無法が許されるか! 言いたいことがあるなら回りくどい方法をとらずに堂々と翠燕に言えばいい!」

「忘れて貰っては困る。俺は死んでいるんだ」


 甚任の赤い瞳が光る。


「死んだ人間が生きた人間に文句を言うとなると、色々と手続き面倒でな。それに色々としがらみが増える」


 おかげで城の人間のほとんどを使い果たしてしまった、と後悔の欠片もない口調で甚任は言ってのける。人を使い果たす、というその物言いがすでに甚任がこの世の理から大きく逸脱していることを証明していた。


 流李の背筋に冷たい物が流れる。

 甚任が人でないことを今更ながらに恐れたのではない。

 この部屋に充ち満ちている冷気――積み重なった死の気配に気付いたのだ。


「……だ、だが女性の服をむやみに脱がすなど、己の正しさを主張する者が……」

「そんなに心配せずとも、今更俺に男性的欲望など欠片も残っていないよ。遺言屋も“傷のある虎にしか肌は見せない”などと、何やらまじないのようなことを口にしていたが、いやいや」


 甚任は首を振った。


「こんな傷だらけの女に、欲情する男などいるはずもないのに」

「……傷……?」


 翠燕が侮辱されたという事実よりも、その言葉に流李は反応してしまった。そして暗がりの中、改めて翠燕の姿を見つめる。


 すると、むき出しの足には無数の傷があることがわかる。家に出入りしていた若衆の身体にも同じような傷があった。切り傷、突き傷、そして……火傷の……跡?


「背中にも似たようなのがあるぞ。もっと数は多いがな」


 無遠慮な甚任の声。翠燕はなおも無言だった。そして二人の視線をまっすぐに受け止めるどころか、逆に睨み返してくる。


「ふむ、つまらんな」


 そんな翠燕の反応を見て、甚任は落胆したように肩を落とす。


「結局は我が師の言った通りだな。詰まるところ、お前への復讐とはつまりこうするしかないということか」


 そして再び甚任の表情に浮かぶのは、人外の笑み。


「な、何を言ってる……?」


 流李が、そのあまりの不気味さに思わず尋ねてしまう。甚任はその問いかけに応えるように部屋の中央の水瓶へと近づいていく。

 そして、口の中で何事かを呟いた。


口訣こうけつ……?」


 翠燕がそう口にした途端、水瓶の中から大量の水が宙に持ち上がった。それはまるで目が覚めて半身を起こした、大きな生き物のようにも思えた。


「この水瓶は宝貝パオペイだ。おおっと、知識が致命的に欠けているんだったな。つまりはそうだな……仙人が使う、便利な道具と思ってくれればいい」


 やけに親切に甚任が解説してくれる。


「邪……仙なのだろう?」

「俺もその辺は詳しくはないのだがな。端で見ている分には大して代わりはないぞ。要は清徳せいとくを積むか、濁業だくごうを重ねるかという違いでしかないらしい」


「……何?」

「簡単に言うと、良いことをするか悪いことをするか、という違いだ。そして我が師はとんでもなく悪いことを企んでいる。濁業を重ねるためにな。俺も死を超越した代償にその手伝いをしなければならなくてな」


 甚任がそこまで説明したとき、水瓶の上に浮かんでいた水が光を放ち始める。その鮮やかな光は暗がりになれた二人の目には、ただ白い光にしか見えなかった。


 だがやがて目が慣れると、そこにに現れたのは青い空、緑の草原。風を裂いて翻る無数の旗。

 ――そして、土煙を上げて疾駆する数え切れないほどの騎馬兵。


「…………斑等魏礪フラギレ


 呪詛のように、翠燕が呟く。


「そ、そんなものを見せて、だから何だというのだ!」

「知っているか? 彼らは天華の文化というものを全く解さない。それどころか、そのようなものを見下し馬鹿にしている」


 甚任の表情が引きつっていく。肩が不規則に跳ね上がる。


「そんな班等魏礪フラギレ達を天華に導いたら、どうなると思う?」

「馬鹿な!!」


 翠燕が叫ぶ。その表情は今まで見せたどんな表情よりも緊張と危機感に満ちていた。猫のような目は大きく見開かれ、とがった顎の先からはぽたりぽたりと汗が滴り落ちる。


「あなたは南部出だから知らないでしょうけど、あいつらは無茶苦茶なのよ。文化の破壊どころの話じゃないわ! 天華そのものが破壊されるわよ……待って」


 翠燕の表情に希望が灯る。


「ああ、その心配は無用だ。さんの王はまだ生きていてな。困ったことに彼らに救援を求めたのだ。元の燦の領土全部を引き替えにな」

「な、何てことしたの!!」


 今度は流李にも何が起こっているのか理解できた。


「おのれ貴様! 天華を売り渡したのか!!」


 身体を縛る縄を引きちぎりそうな勢いで、流李が吠える。


 騎馬民族は一つの場所に留まるということはしない。それは自分たちの縄張りの中であってもそうだし、特にこの天華の地では財を浚い、人を掠い、命を攫った跡に留まるということをしなかった。


 それは習性というよりも彼らなりの規則に従ったもので、天華の地はあくまで天華の民のものだという妙に律儀な部分があったからだ。


 しかし、その土地を天華の民自らが差し出すとなれば話は別だろう。騎馬民族は必ずこの天華に侵入し、そして留まるようになる。被害はさらに深刻なものとなるだろう。

 それを甚任がわからぬはずもない。だが……


「勘違いするな。売り渡そうとしているのはあくまで燦の王だ。それに俺が売り渡そうとして、そこに何の非がある?」


 甚任は傲然と胸を反らした。


「我が望みは遺言屋への復讐。そのために天華の文化を破壊する。そして我が師、無寿宝むじゅほう様の望みは天華そのものの混乱。我ら師弟は胸を張って悪を成す。濁業を重ねることが我らが宿願なのだからな!」

「く……」


 流李は絶望というものを理解した。この相手には絶対的に話が通じない。死を意味のないものとした、というだけのことではない。この相手は確実にこの世の理から外れている。


「流李! 死んで!」


 突然、翠燕が叫んだ。


「あなたの命と天華の命運なら、私は天華の命運を選ぶ。今からここを脱出して、偉門いもん伯声はくせい殿に伝えに行くわ」


 その言葉で流李も事情を察した。ならば迷うことはない。


「ああ、私に構わず行ってくれ」


 ここで自分のためにもたもたされて、天華が滅ぶようなことになれば死ぬよりも辛い。


「ところが、そうはいかない」


 本当に嬉しそうに甚任は、二人のやりとりを遮った。そして、再び口の中で何事かを呟いた。口訣……翠燕は確かそう言っていた。

 あれを唱えられると、何か理に外れたことが起こる。


 そう思って身を堅くした流李だったが、起こった変化はこの世でも普通にあり得る事だった。どこからか音が――音楽が聞こえてきたのだ。


 琵琶の音。琴の音。笛の音。鼓の音。それぞれが音律を奏で、その全てが複雑に絡まり合い、たえなる調べが流李の耳朶を打つ。


「な、何……?」


 わけがわからなかったが、一つだけわかることがあった。こんな音では足止めにもならないということだ。


「翠燕、こいつが遊んでいる内に早く……!!」


 しかし流李の言葉は、届く相手がいなかった。決意を込めて自分を見捨てると言い切った、あの強い翠燕の姿がそこにはなかったからだ。


 自分を拘束するはずの縄に力なくぶら下がり、しかも涙をぽろぽろとこぼす翠燕の姿には一欠片の強さも感じられなかった。


「な、何が……」


 あまりの翠燕の変化に、流李は自分の変化に気付くのが遅れた。身体が再び闇の中に吸い込まれていくような感覚。そうと気付いたときには、


(しまった……)


 と声を出すことすらままならなくなっていた。


 耳の奥には、げらげらと人外の笑い声を奏でる邪仙の勝利宣言。そしてさらにその向こう側で鳴り響く、その調べは――


 ――なぜか、邪仙の笑い声よりも理の外れた音楽に聞こえた。


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