肆 邪仙、遺言屋を認めず
男の後ろについて歩きながら、翠燕は流李に説明を始めた。
まず男の名前は郭任甚。字は甲究。元は勒という国の武将で、それも一軍を任されていたほどの男だった。
勒という国は岳林州という、天華でも東南に位置する高い山々が聳え立つ地方で、古代より攻めるに難く守りに易い土地として知られていた。
楼の皇帝も大規模な反乱が起こったときに一時的にこの州に逃げ込んでいる。
そしてその楼が倒れると、この地方の節度使・歴驍が公から王へと自分で階位を進め、国号を勒と称した。
以来、いくつもの国が生まれては消える北方の混乱を尻目に、五十年の間その天嶮の地形にも助けられ、国を保ってきた。
しかし数年前、拡大著しい泰が龍江を遡り、ついに勒へと攻め入った。
長きにわたり安穏をむさぼっていた勒の国軍が、歴戦を重ねてきた泰の軍勢に敵うはずもなかった。一年を待たずに勒王、歴申符は泰に降ることとなる。
甚任がいたという藍封城というのは、勒の国都ではない。
泰に降ることを潔しとしない勒の一部の臣下達が、勒王の遠縁の子供を祭り上げて、立てこもった城が藍封城なのだ。だから状況的にはこの高景城に酷似していると言っても良い。この城にもまた燦王の血筋を引いているだけの形だけの王がいるはずだからだ。
そして囲んでいる軍を指揮しているのもまた隼王配下の兵達ということは一致している。
「外には懐かしい顔が見えるな。かの“虎牙風”が一軍の指揮を任されるとは、目を疑ったぞ」
先を歩く甚任が振り返らずにに話しかけてきた。
「“虎牙風”?」
初めて聞く言葉に、流李が思わず尋ね返す。
「この城を囲む牙偉門のあだ名だ。俺が知っている頃のあの男は、ただ暴れ回るだけしか能がない、不良青年以外の何者でもなかったのだがな。翠燕、お前もあの城で初めてあの男と会ったんだったな。いや、何もかもがあの城で始まったのかも知れん」
流李に問いかけに答える甚任だったが、最後には自己完結してしまった。流李は仕方なく傍らを歩く翠燕に視線で問いかける。
「……藍封城は私が初めて“遺言屋”の仕事をした場所なの。だから偉門ともそこで初めて会うことになるし……」
そこで翠燕の言葉が途切れた。言い終えたのではなく、明らかに何かを言い残していた――いや、言い淀んでいた。
「そして初めての客とも出会ったわけだ。つまり俺のことだな」
甚任が後を引き継ぐように説明を続けた。
「まさにこの高景城は、あの時の藍封城の再現というわけだ。ああ、だが違うところもあるな」
そこで甚任は立ち止まり、上半身ごとぐるりと振り向いて憎しみに満ちた赤い一つだけの瞳を翠燕へと向けた。
「お前が獅音の手先だということを、あの時の俺は知らなかった」
「私は……!」
「何の言い訳をするつもりだ? お前に託した紫微香炉。よもや憎き敵国の僭帝に差し出すとは思いもしなかったぞ」
「私とあなたは納得した上で、取引をしたはずよ。その結果私が手にしたものを、どう扱おうが……」
「商人を気取るなら、最低限の倫理ぐらい持ち合わせればどうだ! 香炉が僭帝の手に渡るのだと知れば、お前に香炉を託したりはしなかった。それを考えもしなかった、などとは言わせんぞ!」
甚任から裂帛の気合い。翠燕はとうとう言葉を返すことも出来なくなった。
そして流李もまた、口を挟むことが出来ない。なぜなら甚任が言っていることは、そのまま流李自身の疑念でもあったからだ。
翠燕のしていることは、宝物を託した人の想いを裏切っているのではないか、という疑念だ。しかし、それは糾弾できない疑念でもあった。
「死人に口なし。そう思ったことがお前は一度もないのか?」
そう。甚任の言葉はまるで流李の心の中をなぞるようだった。
「だが、残念だったな。俺にはこうして口がある。お前を詰ることが出来る口がな。ああ、しかし“死人”であることは覆せなかったがな」
そう言って、甚任はげらげらと笑う。人には到底不可能な声を出して、げらげらげらげらげらげらげらげら……
笑い声の洪水に、意識が押し流されそうになる。流李はほとんど意識しないままに、二、三歩よろめいた。
「いけない! 流李!!」
翠燕の声が飛ぶ。しかし、流李はその声にすがりつくことも出来なかった。
何かの術をかけられたのだ。
――と流李が気付いたのは、意識が闇の中に落ちる寸前だった。
泥の中を泳いでいるような感覚。体中にまとわりついている闇。身動きは出来るが指一本動かすのにも酷く体力を消耗する。
そういう場所にいるのだと、流李が気付いた瞬間いきなり闇は晴れた。
「目覚めたな、呂流李」
闇が晴れた途端に見えたのは、凶星にも似た赤い瞳。
「何の気まぐれか遺言屋がお前を連れてきてくれて、話が早く済んだぞ」
未だ混濁した意識の中、流李は甚任の言葉を理解しようと視線を右と左に彷徨わせる。
するとここはどこかの部屋であることが知れた。窓が無く無数に立てられた燭台が部屋の中を蛍火のように照らしている。そこでここがあの岩の中――高景城のどこかであろう事を、流李は悟ったと言うより思い出した。
かなり大きな部屋で、岩の中をくりぬいて作ったのだとしたら大変な労力が必要であろう事が想像できる。しかも壁はむき出しの岩ではなく、きちんと板張りされており床には敷物が広げてあった。暗さのせいでその色ははっきりしないが、恐らくは緋色なのだろう。
そして部屋のほぼ中央には大きな水瓶。
流李は頭を振る。それによって意識がはっきりしてきた。
「見えるかな、呂流李。お前の連れはあそこにいるぞ」
流李のそんな様子を見て、甚任がさらに声をかけてきた。流李が視線を甚任へと向けると、甚任はそのまま身体を横にずらす。
するとそこには両腕を縛られて、天井から吊された娘の姿があった。衣服は破れその素肌がその破れ目から除いている。特に足はほとんどむき出しのような状態だ。
「翠燕!」
流李は思わず叫んでいた。そして、その自分の声で意識がはっきりとしてきた。
捕らえられた翠燕、先ほどまで意識を無くし、そして柱に縛り付けられている自分の状態。何が起こったのかははっきりしている。
「おのれ、私を質にして翠燕を辱めたな!!」
「ほう、頭は悪くないようだ」
そこにいきなり、翠燕が割り込んだ。
「流李は知識が致命的に欠落しているだけで、元は悪くないのよ。それに、辱められてなんか無い! ちょっと剥かれただけよ!!」
確かに、怒鳴り声を聞く限りはまだまだ元気一杯のようだ。
「何の酔狂で遺言屋が人を連れていたのかは知らないが、お前のおかげで助かった。何しろ遺言屋はこれでも術をわきまえているからな。どうやって捕らえてやろうかと策を練っていたんだが、随分と手間が省けた」
甚任はそう言うとニヤリと微笑んだ。
「娘。お前の心には実に入り込みやすかった。察するにお主も遺言屋にだまされた口か?」
「ええっと……そうだ!」
「違うでしょ!」
吊されたままの翠燕が自己主張。
「私は流李の父親と全うに契約を結んで、画を貰い受けたの。きっちりと遺言も届けたし、誰も騙してなんかいない。そこの流李が納得してないだけよ」
「それでまた、僭帝に渡したのか?」
「渡してない。あの画は流李がまだ持っている。だから私は同行してるんだ」
翠燕が答える前に流李が割り込んだ。
「ほう」
それを聞いた甚任はやけに人間じみた声を出し、何も言わずに翠燕の行李の中を漁った。
そして、問題の「林旗図」を見つけると。それを広げてしげしげと眺めた。




