陸 翠燕、過去を語る
次に流李が目覚めたときには、身体が自由になっていた。あの邪仙が情け心を出したわけではないらしいのは、暗がりの中、すぐ目の前に翠燕の顔が浮かんでいるのでわかる。
反射的に夜なのかとも思ったが、暗いのは部屋の蝋燭が残らず消されているからで、考えてみればこの部屋にはそもそも窓一つ無かったのだ。
「あなたの言うとおりだったわ流李。二人いれば不測の事態にも対応できるものね」
流李が目覚めたのを確認すると、すぐに翠燕が話しかけてきた。
今が危急の事態である事に変わりは無い。流李もすぐに応じる。
「翠燕、あの縛めを抜け出せたのか?」
「ごめん、あの程度の縛めはその気になればすぐにでも抜け出せたの。それともう一つごめん」
「何が?」
「あなたを見捨てようとしたでしょ」
「ああ、それは……」
それは本当に良いのだ。あの時の自分の決意が間違っていたとは今から考えても思えない。
それにこうして翠燕にとってあの縛めが意味のないものだったと知った後では、人質にされてしまっていた自分の不甲斐なさに逆に腹が立ってくるほどだ。
「あの男はどうしたんだ?」
「多分、一日中動けはしないのよ。多分生き返って間もないんだろうし……そもそも本当に生き返ってるか疑問があるわ」
「しかし、仙人なんだろ」
「それもどうかしら。体よく無寿宝に操り人形――宝貝扱いされてるような気もするわ」
「無寿宝……本当にいるんだな、そんな邪仙が」
「いるわ。おおよそ最悪の相手と言ってもいいわね」
その口ぶりからすると、どこかで面識があるのかも知れない。だとすると、最悪という評価にも信憑性が出てくる。もはや一刻の猶予もならない。
「ならば早くここを脱出しよう。早くに知らせなければ」
「ええ、それをあなたにお願いしたいの」
その物言いに、流李は引っかかる。
「翠燕、お前はどうするんだ?」
「私はこの城に残る。やらなければならないことがある」
それはまるで鉄の門扉のような言葉だった。いかなる説得も受け付けないと、そんな頑なな意志を誇示するような言葉。流李は説得のために紡ぎ出そうとした言葉の全てを飲み込んだ。
そして、今一度翠燕がこう言い出したわけを考えてみる。
「……あの曲が問題なのか?」
「…………」
「もしかして、あの曲が翠燕が探し求めているものなのか?」
翠燕は表情一つ動かさない。流李もそれ以上は何も言わない。暗がりの中ただじっと翠燕の顔、瞳を見つめている。
「……私は幼い頃、本当に公主だった」
翠燕は唇だけを動かして語り始める。
「父と母の愛に包まれて、何不自由なく育った。けれど、そんな日々は五歳で終わった。国は滅び、私は奴隷として売られた。売られた所は酷いところだった。私の体中の傷はその時のもの」
その言葉は暗がりの中、まるで行き場を求めているかのように、流李には思えた。
「もっと酷いことをされる前に私は逃げ出した。もちろん生き抜く自信なんて無かった。でも、そこで運勢が逆転した。陸透洞主という仙人に拾われたの。私はそこで育てられた。けれど、私はそこにずっといるわけにはいかなかった」
そうか。仙人になるための素質がなかったということだったか。この何でも出来る娘にも、やはりできなことはあるのかと、今更ながらに流李は考え込んでしまう。
「私は師の側を離れたくなかった。生活に満足していたこともあった」
そんな流李の様子には気付かず、翠燕はさらに続ける。
「でも本当の理由は、師の側を離れても何をすればいいのか全くわからなかったから」
この下りには、さすがに流李も驚いた。翠燕もそれにつられたように薄く笑う。
「そこで私は一番一般的なことを目標にすることにしたの。親の跡を継ぐ。つまり天華の文化の庇護者になろうと努めたの」
一体、どんな親だったのか。いや、待て自分は公主だと翠燕が言っていたではないか。では王族なのか?
確かに自分には知識が欠落しているらしい。あるいはそれを見越して、翠燕はこんなにべらべらとしゃべっているのかも知れない。
「そして天華を駆け巡り、書画骨董を集めている内に思い出したの。母が復活させ、父が国全てと引き替えにしても良いと言った『簫醒羽化』という曲があったと言うことを」
「それが……あの曲なのか?」
翠燕は軽く頷いた。
「元は楼の元宗が、その寵姫のために編み出した曲なの。でもその後の大混乱で曲自体が散逸してしまった。何しろ曲は形に残らないしね」
確かに壺や書画と違って、曲は人から人へと技術ごと伝えなければ、すぐに失われてしまう。わずかに文字で曲を書き記す方法も伝えられてはいるが、あまりにも不出来な方法なので、不完全にしか曲が残せない。
「だから私はこの城から出られないの。初めて掴んだ曲の手がかりなの。それを手に入れるまでは私は出ることが出来ない。だけど、班等魏礪の侵攻を知らせないわけにもいかない。だから、お願い流李。偉門の陣に行って」
無理だ。
流李は諦めざるを得なかった。
――いくら言葉を紡いでも、翠燕は絶対にこの城から抜け出すことを承知しないだろう。
「……わかった」
「ありがとう! このお礼は必ずするから」
「しかし、お前がいないとなると事は簡単ではないぞ。まずどうやって陣に入り込むのだ?」
あるいはそれが翠燕の翻意を促すのではないかと流李は期待したが、翠燕は少し考えた後、自分の行李から紙と筆を取り出した。そのまま何かを書き付けようとしたが、周囲のあまりの暗さに気付いて、改めて火口箱を取り出す。
翠燕にしては実に手際が悪い。
そして一本の蝋燭に火を灯し、手元に持ってくると筆を手にした。
何と書くつもりなのかと流李がそれを覗き込むと、
「班等魏礪が北西より侵攻中。あと三日ほどで高景城に辿り着く距離。
兵力はおおよそ三万の騎馬。敵指揮官は可単の弟ダヤンとスルゴンと推察」
とある。
いかにも無味乾燥に過ぎる。
「距離と位置は、あの時見えた山の形から推測できる。兵力の計算は旗の数から。班等魏礪の連中は巻き狩りをするから、旗の数で兵力は推測できる。そして戦闘集団単位で掲げる旗が違うの。その旗の中に班等魏礪の王の弟たちの旗があった」
それに付随する説明も、無味乾燥。
翠燕は書き付けた紙をきれいに畳むと、行李の奥から布を取り出した。そして、その布で紙を丁寧に包み込む。
「私からの連絡だって事は、これで偉門には十分伝わるわ」
翠燕はいつもよりも慎重な手つきで、紙を包んだだけの布を流李へと差しだした。
「でも、いい? これは必ず偉門に直接渡して。他の人には絶対に見せちゃ駄目。約束して」
猫目をすっと細めて、脅すような口調で翠燕は流李に詰め寄った。
「待ってくれ。私は陣に入り込む知識が欠落している。それに牙偉門将軍の顔を知らない」
「陣に入り込むのに必要なのは知識じゃなくて知恵よ。まぁ、それはこれから少し考えてみるわ。それから偉門を見分けるのなんか簡単よ」
「何だ?」
どこかに特徴的な傷があるとか、入れ墨を彫ってあるとか簡単なものを流李は希望した。
「私と同じぐらいの背丈の男がいたらそれが偉門よ」
それは流李が想像していた以上に簡単な見分け方だった。
何しろ翠燕の背丈は、女性の中でも小さい方なのだから




