10年後
十年後の春、その公園にはやわらかな風が吹いていた。
昔と比べれば遊具は少し古くなっていたけれど、あのブランコはまだ残っていた。錆びた鎖がわずかに軋み、誰も乗っていないのに、風に押されてゆっくり揺れている。
榊原澄玲はその光景を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
十年。
口にすれば短いようで、実際は長かった。
すぐに前を向けたわけじゃない。
透真がいなくなった次の朝も、その次の週も、その次の季節も、全部がおかしかった。大学のキャンパスを歩いても、三人で並んだベンチを見ても、コンビニのラムネを見ても、何かひとつ足りない感じがずっと消えなかった。
何年経っても夢に見る日もあった。
病室の白さ。
手の冷たさ。
「幸せになれよ」という声。
それでも人は、生きている限り前に進いてしまう。
卒業して、働いて、忙しさに追われて、泣かない日が少しずつ増えていった。
泣かないことに最初は罪悪感があった。
透真を忘れてしまうみたいで。
でも、あの手紙を読み返すたび、澄玲は思い直した。
忘れなくていい。
ただ、止まらないでほしい。
そう言っていたのは、たぶん透真の方だった。
「……変わらない」
小さく呟くと、隣で九条律希が苦笑する。
「公園な」
「……うん」
「ブランコも」
「……うん」
律希は十年前より少し大人びた顔になっていた。
背は相変わらず高く、けれど学生だった頃の無駄な勢いは少しだけ丸くなったように見える。スーツ姿も板について、声の調子にも落ち着きが出た。
それでも、こうして並んで立っていると昔と変わらない気がするのが不思議だった。
澄玲はブランコを見たまま言う。
「……今日」
「うん」
「……命日」
「だな」
二人の間に沈黙が落ちる。
十年前の今日。
葬式の日も雨だった。
けれど今日は晴れていた。
あの日と同じで、少し腹が立つくらい綺麗な青空だった。
「……覚えてる?」
「何を」
「……五年後の手紙」
「ああ」
律希はポケットに手を入れたまま空を見た。
五年後に医者から渡された、あの追加の手紙。
未来の自分たちに向けて書かれていた文章。
支え合え、と書いてあった。
幸せになれ、とも。
あの時はまだ、その言葉の意味を素直に受け止めきれなかった。
透真に託されるには重すぎて、でも捨てられるほど軽くもなかったからだ。
けれど十年経って、ようやく分かることもある。
透真は、自分がいなくなった先の時間まで見ていた。
少なくとも、そう願おうとしていた。
その優しさは残酷で、でも今は少しだけありがたい。
「……意味」
澄玲が言う。
「……分かった気がする」
「俺も」
律希は短く返した。
公園の入口の方から、小さな足音が聞こえる。
「ママー!」
振り返る。
小さな男の子がこちらに向かって走ってきていた。
澄玲の手が、無意識に少しだけ伸びる。
「走らないで」
「だいじょーぶ!」
元気な声。
その後ろから律希が肩をすくめる。
「大丈夫じゃねぇだろ」
「……ほんと」
「お前が言うと重いな」
「……そう?」
男の子はブランコの前で止まると、目を輝かせて言った。
「これのる!」
「いいけど」
律希が即座に返す。
「靴飛ばすなよ」
「なにそれ!」
「気にすんな」
澄玲はほんの少しだけ口元を緩める。
十年前の公園。
ブランコ。
飛んだ靴。
笑い声。
その記憶が、今もこの場所に残っている気がした。
男の子がブランコに乗る。
小さな足がぶらぶら揺れる。
春の風が吹く。
その瞬間だった。
すぽっ
「あ」
小さな声と同時に、片方の靴が宙を飛んだ。
律希が一拍おいてから空を見上げる。
「……は?」
澄玲は思わず吹き出した。
「……また」
「いや、なんでだよ」
「……似てる」
「そこ似なくていいだろ」
男の子は自分の飛んでいった靴を見てけらけら笑っている。
律希は呆れた顔をしながら靴を拾いに行く。
その背中を見ながら、澄玲は静かに空を仰いだ。
青い空。
薄い雲。
やわらかな光。
「……透真」
風が頬を撫でる。
「……見てる?」
もちろん、返事はない。
でも、ブランコが小さく揺れた。
どこかで、あの困ったような笑い声が聞こえた気がした。
十年経っても、痛みがなくなるわけじゃない。
会いたいと思わなくなるわけでもない。
あの日に戻りたいと願わなくなるわけでもない。
それでも今、澄玲は確かに思う。
ちゃんと生きてきた。
透真がいない時間も、透真を忘れないまま。
約束を裏切らないように、でも約束に縛られすぎないように。
泣いて、立ち止まって、それでもまた歩いてきた。
隣には律希がいる。
前では子どもが笑っている。
風の中で、ブランコが揺れている。
この景色を見せたかったな、とふと思う。
きっと透真なら、「なんか、いい感じじゃん」と少し照れたみたいに笑うだろう。
澄玲はそっと目を閉じた。
――幸せになれよ。
あの言葉が、今も胸の奥にある。
「……見てて」
小さく言う。
「……ちゃんと、生きてるから」
目を開けると、律希が靴を持って戻ってくるところだった。
「ほら」
「……ありがとう」
「なんでお前が礼言うんだよ」
「……なんとなく」
律希は苦笑した。
「相変わらずだな」
「……律希も」
「俺は変わっただろ」
「……少しだけ」
「少しかよ」
二人で笑う。
子どもがまたブランコを漕ぎ出す。
靴は今度こそ飛ばない。
公園には、やわらかな春の光が満ちていた。
そしてその光の中で、透真のいない十年も、透真と一緒にいた時間も、全部が同じひとつの物語として静かに繋がっている気がした。
それでいいのだと、澄玲はようやく思えた。




