葬式
葬式の日は、朝から雨だった。
九条律希は黒い傘を差しながら、これ以上ないくらい最悪な天気だと思った。
雨宮透真がいなくなった日にまで空気を読んだみたいな雨なんて、できすぎていて腹が立つ。どうせなら、あの日みたいに無駄に青空でいてくれた方がまだましだった。
会場の前には、思っていたよりずっとたくさんの人がいた。
大学の知り合い。
高校時代の同級生。
中学の頃の顔見知り。
中には、小学校以来見ていないような懐かしい顔まであった。
みんな黒い服を着て、静かな顔で立っている。
透真には家族がいない。
だから、こんなに人が集まるとは正直思っていなかった。
でも考えてみれば、それも透真らしかった。
あいつは、気づいたら人の中にいた。
自分から強く関わりに行くタイプでもないくせに、困っているやつがいれば放っておけなくて、いつの間にか相手の記憶の中に残る。そういう人間だった。
誰かが小さな声で言った。
「優しいやつだったよな」
「ほんとに」
「なんであいつなんだよ」
その言葉に、律希は返事をしなかった。
返事をしたら、たぶんそれだけで喉が壊れそうだった。
会場の中は、花の匂いがした。
白い花。
静かな読経。
湿った服の感触。
全部が現実感を奪っていく。
それでも、一番現実味がなかったのは棺の中の透真だった。
眠っているみたいだった。
いや、眠っているよりも穏やかだった。
苦しそうな顔ではなかった。
発作のたびに歪んでいた表情も、酸素マスクを嫌がっていた時の面倒くさそうな顔も、もうどこにもなくて、ただ静かだった。
それが妙にむかついた。
なんでそんなに普通の顔してんだよ。
こっちは全然普通じゃないのに。
律希は棺の前で立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
隣には榊原澄玲がいた。
黒い喪服の袖口から見える手が、少しだけ震えている。
それでも澄玲は泣いていなかった。
いや、泣いていないように見えただけかもしれない。
目元は赤いし、瞬きのたびに涙は滲んでいた。けれど、病院の廊下で見た時と同じように、崩れないように必死で立っているように見えた。
律希は小さく息を吐く。
こういう時、本当なら何か言うべきなのかもしれない。
「大丈夫か」とか、「無理するな」とか。
でもそんな言葉が何の意味も持たないことは、自分が一番よく分かっていた。
大丈夫なわけがない。
無理しないでいられる状況でもない。
だから、何も言わなかった。
その代わり、棺の中の透真を見て、ようやく口を開く。
「……おい」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
「起きろよ」
返事はない。
当然だ。
分かっている。
分かっているのに、それでも言わずにいられなかった。
律希は少し笑った。
「……お前、ずるいわ」
喉が詰まる。
うまく息ができない。
「いいとこ全部、持っていきやがって」
周りに人がいることなんて、もうどうでもよかった。
声が少し震えても、誰に見られても構わなかった。
だって、今さら格好をつける相手はもういない。
「安心しろ」
隣に立つ澄玲を見る。
「澄玲は、俺がちゃんと支える」
言葉にした瞬間、自分でその重さに少しだけ驚く。
支える、なんて簡単に言えることじゃない。
自分自身だって、まだ全然立ち直れていない。
講義に出ても上の空で、スマホの連絡先に残った「雨宮透真」の文字を見るだけで指が止まる。コンビニでラムネを見れば、あの日の駄菓子屋を思い出して息が詰まる。
それでも言ったのは、多分透真に聞かせたかったからだ。
お前の約束、忘れてないぞと。
全部守れるかは分からないけど、少なくとも投げ出す気はないぞと。
「俺もちゃんと生きる」
その一言で、涙が落ちた。
悔しい。
嫌だ。
こんなふうに見送る日が来るなんて、今でも納得なんてできない。
でもそれでも、生きるしかない。
透真に「幸せになれ」と言われたからとか、「ちゃんと生きろ」と託されたからとか、そういう理由だけじゃなくて、もう一つ分かっていることがある。
ここで立ち止まったままじゃ、透真がいた意味まで止まってしまう気がした。
あいつがいた時間。
三人で笑った日々。
嘘みたいな病室の一週間。
手紙に残された文字。
それを全部、これから先も生きていく中で抱えていかなければならない。
重いし、痛いし、何度でも泣くと思う。
それでも、それごと持っていくしかない。
「だから」
律希は棺の中の透真を見たまま、最後に言う。
「そっちで見てろ」
それは強がりでもあり、本音でもあった。
見てろよ。
勝手に託したんだから、最後まで見届けろよ。
俺らがちゃんと笑えるようになるまで、逃げるなよ。
その時、不意に隣から小さな声がした。
「……透真」
澄玲だった。
律希は少しだけ視線を横に向ける。
澄玲は棺の中をまっすぐ見ていた。
その目はもう、涙で隠すこともできないくらい赤かった。
「……約束」
小さく、でもはっきりと言う。
「……守る」
何の約束か、説明はいらなかった。
幸せになること。
前を向いて生きること。
透真を忘れないまま、それでもちゃんと歩いていくこと。
全部ひっくるめての約束だ。
澄玲は少しだけ唇を噛んで、それから続けた。
「……でも」
声が震える。
「……時間、かかる」
その正直さに、律希はほんの少しだけ救われた。
すぐに立ち直らなくていい。
すぐに笑えなくていい。
そんな当たり前のことを、今この場でちゃんと言えることが、少しだけ大事に思えた。
律希は小さく頷く。
「……俺も」
それで十分だった。
その後、花を手向ける時間が来た。
白い花びらを棺の中に置く。
透真のそばに花が積もっていく。
その光景は綺麗で、綺麗すぎて、ひどく残酷だった。
まるで本当に終わりみたいだ。
いや、実際終わりなのだろう。
透真の時間はここで閉じる。
けれど、自分たちの時間は閉じない。
それが悲しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
会場の外に出る頃には、雨は少し弱くなっていた。
傘を差しながら、律希は空を見上げる。
灰色の雲の向こうが、少しだけ明るくなっている。
「……」
透真なら、こういうのを見て何と言うだろう。
たぶん「俺、晴れ男かも」とか、意味の分からないことを言って笑う。
そういうやつだった。
律希は鼻で笑って、それから小さく呟く。
「……ばか」
隣で、澄玲もほとんど同じタイミングで同じ言葉を落とした。
二人は顔を見合わせない。
でも、少しだけ息が合ったことに気づく。
透真がいなくなっても、まだ共有できるものはあるのだと、その時だけほんの少し思えた。
やがて、雲の切れ間から光が差し込んだ。
雨粒がわずかにきらめく。
会場の前の濡れた地面が、静かに明るくなる。
律希はまた空を見た。
見てるか。
そう心の中で呼びかける。
お前の言った通り、簡単にはいかねぇよ。
でも、何とかやっていく。
澄玲も、多分ちゃんと歩く。
時間はかかるだろうけど、それでも生きていく。
だから、そっちで勝手に安心するな。
最後までちゃんと見てろ。
風が吹いた。
その瞬間だけ、どこかで透真が笑った気がした。




