廊下
病室を出た瞬間、九条律希はようやく息ができなくなった。
さっきまで、何とか立っていられた。
透真の前では、親友でいようと思っていたからだ。
最後まで、いつもの調子でいようと決めていたからだ。
でも、もう無理だった。
ドアが閉まる。
白い廊下に出る。
それだけで、さっきまで必死に押し込めていたものが一気に溢れそうになる。
壁に手をつく。
冷たい。
やけに硬い。
その感触だけが妙に現実的で、逆に腹が立った。
「……ふざけんな」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
透真か。
医者か。
この状況そのものか。
多分、全部だった。
「ふざけんなよ」
声が掠れる。
喉が熱い。
視界がぼやける。
律希はぎゅっと拳を握った。
なんでだよ。
なんで先にいなくなるんだよ。
なんで最後まで、こっちに何も言わねぇんだよ。
病室の中では怒れなかった。
透真が苦しそうな顔をするたびに、怒りより怖さが勝ったからだ。
でも今なら怒れる。
本人に届かない場所でなら、いくらでも怒れた。
「なんでだよ……」
壁を殴る。
鈍い音が響いた。
痛い。
でも足りない。
こんな痛みじゃ全然足りない。
「約束しただろ……」
もう一度、壁に額を押しつける。
「学校行くって」
「駄菓子屋行くって」
「澄玲のこと、支えろとか……」
そこで声が詰まる。
それを言うな。
それはお前の役目だろ。
なんで、自分が残される前提で話してるんだ。
なんで、そんなに当たり前みたいに先のことを託してくるんだ。
律希はその場にしゃがみこんだ。
膝に肘をつき、顔を覆う。
涙が止まらなかった。
親友が死ぬなんて、そんなもの現実にあるのかとずっと思っていた。
ドラマとか映画とか、そういう遠い話の中だけにあるものだと勝手に思っていた。
大学二年の春。
これからいくらでも時間があるはずで、来年も再来年も、きっと三人で馬鹿みたいな話をして笑っているはずだった。
なのに、それが今日終わった。
あまりにもあっさり。
あまりにも理不尽に。
涙でぐちゃぐちゃになった視界の中で、廊下の床だけが妙に白かった。
その時、病室のドアが静かに開いた。
榊原澄玲だった。
泣いているのかと思った。
でも違った。
目は真っ赤だったけれど、澄玲はまだ泣いていなかった。
というより、泣けていなかったのだろう。
全部が現実になりすぎて、涙に変える余裕すらなかったみたいに見えた。
律希は慌てて顔を背けた。
こんなところ見られたくなかった。
いや、別に澄玲になら見られてもいいはずなのに、その時はどうしても無理だった。
「……ごめん」
出てきた言葉がそれだったのは、自分でも意味が分からない。
何に対して謝っているのか。
先に病室を出てしまったことか。
何もできなかったことか。
透真を守れなかったことか。
多分、全部だった。
澄玲はしばらく何も言わなかった。
ただ、立ち止まって律希を見ていた。
やがて、静かな声で言う。
「……泣いていい」
その一言に、律希は思わず顔を上げた。
澄玲の声は震えていなかった。
なのに、その奥にはちゃんと壊れそうなものがあった。
「……私も」
少しだけ間を置く。
「……あとで、泣く」
律希は何も返せなかった。
強い、と思った。
いや、本当は強いんじゃない。
強くしていないと立っていられないだけだ。
透真がいなくなった瞬間、きっと一番壊れるのは澄玲だと分かっていた。
十年以上好きで、最後まで手を離さなくて、返事がどうであれ隣にいると決めていた人だ。
そんなの、平気でいられるわけがない。
それでも澄玲は立っていた。
透真の手紙を受け取って、泣きそうな顔のまま、ちゃんと受け止めようとしていた。
透真。
お前、見てるか。
律希は心の中で呟く。
お前の幼馴染、強すぎるだろ。
いや、強いふりが上手すぎるだろ。
「……なあ」
掠れた声で、律希はようやく言う。
「俺さ」
「……」
「無理かもしれん」
何が、とは言わなかった。
言わなくても通じると思った。
透真のいない明日を迎えること。
今まで通り講義に出て、飯を食って、笑って、普通に生きること。
全部まとめて「無理」だった。
澄玲は数秒だけ黙って、それから小さく頷いた。
「……私も」
その二文字に、少しだけ救われる。
自分だけじゃない。
自分だけが弱いわけじゃない。
透真は最後に「澄玲を支えてやれ」と言った。
正直、そんなの無茶だと思った。
自分だって支えられたい側なのに、人を支える余裕なんてあるのか分からない。
でも今、この廊下で思う。
支えるというより、一緒に倒れないようにするくらいなら、できるかもしれない。
片方が完全に崩れたら、もう片方が引っ張る。
また入れ替わる。
そうやって、何とか前に進いていくしかない。
それが透真の望みなら。
あいつがそこまでして残した「約束」なら。
「……支えるわ」
律希がぽつりと言うと、澄玲は少しだけこちらを見た。
「……うん」
「でも、お前も頼れよ」
「……」
「強いふりしすぎ」
「……律希も」
ほんの少しだけ、いつもみたいなやり取りだった。
そのことに二人とも救われる。
廊下の向こうで看護師が静かに行き来している。
病院は、誰かの人生の終わりがあっても変わらず動き続ける。
それが残酷で、でもありがたくもあった。
世界は止まらない。
なら自分たちも、どこかでまた歩き出さなければいけないのだろう。
まだ今日ではない。
今は無理だ。
今はただ、ここで泣いていていい。
律希は壁にもたれたまま、目を閉じる。
透真。
お前さ、と心の中で呼ぶ。
最後まで勝手だったな。
勝手にいなくなって、勝手に手紙残して、勝手に未来のこと託して。
でも、多分それでよかったんだろうなとも思う。
あいつはそういうやつだった。
自分がいなくなった後のことまで考えてしまうくらい、どうしようもなく優しかった。
その優しさが、今はたまらなく痛い。
澄玲が隣の壁に背中を預ける。
肩が少しだけ触れた。
律希は何も言わない。
澄玲も何も言わない。
それでも、その沈黙は一人きりのものではなかった。
透真がいなくなった世界で、初めて共有する静けさだった。
やがて、澄玲がぽつりと言う。
「……ねぇ」
「ん?」
「……透真」
「……」
「……見てるかな」
律希は天井の白さを見上げる。
「見てたらムカつくな」
「……なんで」
「泣いてるの絶対笑うだろ、あいつ」
「……」
「『え、そんな泣く?』とか言う」
澄玲の口元が少しだけ動いた。
笑ったのか、泣きそうになったのか、律希には分からなかった。
「……言う」
「だろ」
二人は少しだけ息を吐く。
泣きながら、透真の言いそうなことを想像してしまう。
そのことがまた悲しくて、でも少しだけあたたかかった。
廊下の窓から見える空は、信じられないくらい青かった。
こんな日に。
こんなにも綺麗に晴れてしまうなんて。
でも、透真ならそういう日にいなくなる気がした。
最後まで湿っぽくなくて、周りだけ泣かせて、自分は空の向こうで困ったように笑っている。
「……ばか」
律希が小さく呟くと、澄玲もほとんど同じタイミングで同じ言葉を落とした。
それが少し可笑しくて、二人はまた少しだけ笑った。
泣きながら笑うなんて、ひどくみっともないと思った。
でも多分、それでいいのだろう。
透真が残したものは、悲しみだけじゃない。
三人でいた時間も、どうしようもなくくだらない記憶も、全部ここに残っている。
それを抱えて、この先も生きていく。
廊下の白い光の中で、律希はようやく少しだけ呼吸を整えた。
まだ前なんて向けない。
でも、約束だけは忘れないでいようと思った。




