手紙
待望の続編?です
人が死ぬと、時間の進み方が変わるのだと九条律希は思った。
正確には、世界は何も変わらないまま進んでいるのに、自分たちだけがその流れから取り残されるような感覚だった。
病室の窓の外では、青空が広がっていた。
さっきまで雨宮透真がそこにいて、くだらない冗談を言って、酸素マスクが嫌いだと笑っていたのに、その全部が急に遠くなる。
モニターの長い音が止んだあと、部屋に落ちた静けさは異様だった。
医者も看護師も、何かを言っていた気がする。
けれど、榊原澄玲にはそのほとんどが聞こえていなかった。
透真の手だけが、やけにはっきりと現実だった。
さっきまで握り返してくれた手。
少し冷たくて、細くて、それでも確かに生きていた手。
それがもう、何の力も返してこない。
「……透真?」
呼んでも返事はない。
澄玲はもう一度、その名前を口にした。
呼び続ければ戻ってくるような気がしたからだ。
でも透真は、眠ったままみたいな穏やかな顔で動かなかった。
律希が病室を出て行った音がした。
きっと耐えられなかったのだろう。澄玲にもその気持ちは分かった。
自分だって、もし今この手を握っていなければ、その場に立っていられなかったと思う。
それでも、離せなかった。
離したら、本当に終わるから。
どれくらいそうしていただろう。
時間の感覚は曖昧だった。
泣いていたのかも、泣いていなかったのかも、もうよく分からない。
ただ透真の手を握っていた。
すると、控えめなノックの音がした。
澄玲は顔を上げる。
医者が立っていた。
さっきまで処置をしていた時とは違う、ひどく静かな顔をしている。
「……」
何を言われるのか分かった気がして、澄玲は無意識に透真の手を強く握った。
医者は少しだけ間を置いて、それからポケットから二つの封筒を取り出した。
「透真くんからです」
その一言に、澄玲は一瞬意味が分からなくなる。
「……?」
「もしもの時、渡してほしいと」
隣に戻ってきていた律希が、そこで初めて顔を上げた。
「……何、それ」
掠れた声だった。
医者は静かに封筒を差し出す。
ひとつには「九条律希へ」、もうひとつには「榊原澄玲へ」と書かれていた。
見慣れた字だった。
整っていて、やさしい字。
透真は昔から字が綺麗だった。テストの名前欄ですら変に丁寧に書くやつだったから、律希に「そこだけ優等生かよ」と笑われていたのを思い出す。
こんな時にそんなことを思い出した自分が、少しだけ嫌だった。
でもそれくらいしか、頭が現実から逃げる方法を知らなかった。
律希が先に封筒を受け取る。
普段なら雑に破って開けそうなやつなのに、その時の手つきは妙に慎重だった。
澄玲も自分の封筒を受け取る。
薄い紙の重さが、やけにずっしりしていた。
◇
最初に手紙を開いたのは律希だった。
中には便箋が一枚。
透真らしい、きれいな字が並んでいる。
律希は最初の数行を読んだだけで、眉を寄せた。
「……ばか」
そう呟いた声は、怒っているようで、泣いているみたいでもあった。
澄玲は黙って見ている。
律希は最後まで読み切ると、紙を握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。
透真が丁寧に書いた字を、自分の手でぐしゃぐしゃにしたくなかったのだろう。
「澄玲」
「……」
「読むか」
「……うん」
澄玲はようやく自分の封筒を開く。
中の紙を取り出した瞬間、指先が震えた。
怖かった。
開いたら、透真の言葉がそこにある。
最後の、本当に最後の言葉が。
もう増えることも減ることもない、たった一度きりの文字が。
それを受け止めきれるのか、自信がなかった。
それでも、読まないわけにはいかなかった。
⸻
澄玲へ
多分、怒ってるよね。
ずっと好きって知ってた。
気づかないふりしてた。
ごめん。
でも、澄玲が幼馴染でよかった。
俺の人生で、一番長く隣にいた人が澄玲だった。
告白してくれてありがとう。
すごく嬉しかった。
付き合えないって言ったのは、
澄玲の時間を俺に使わせたくなかったから。
澄玲はちゃんと幸せになってほしい。
結婚したら写真くらい見せてよ。
空から笑うから。
あと、
夜、病室に来てくれてたの知ってた。
毎日ありがとう。
最後に。
大好きな幼馴染へ。
透真
⸻
最後の一行まで読み終えた瞬間、澄玲の視界が滲んだ。
知ってた。
その一言が、胸の奥に突き刺さる。
知っていたのか。
全部。
夜、こっそり病室に来ていたことも。
十年以上好きだったことも。
きっと、もっと前から。
それなのに、透真は何も言わなかった。
気づかないふりをしていた。
そう書いてある。
澄玲は手紙を持ったまま、下を向いた。
「……ばか」
声が震える。
「……知ってたなら」
喉が詰まる。
「……もっと、甘えてよ」
ずっと好きだった。
ずっと隣にいた。
何もできなかったわけじゃない。
苦しいなら苦しいって言ってくれれば、いくらでもそばにいただろうに。
いや、実際には言われなくてもそばにいたのだけれど。
それでもやっぱり、本人の口から頼ってほしかった。
律希が隣で小さく息を吐く。
「……俺にもさ」
「……」
「頼りにしてた、とか書いてあった」
澄玲は少しだけ顔を上げた。
「……何て」
「澄玲のこと頼む、って」
律希は苦く笑う。
「勝手に託してんじゃねぇよな」
「……うん」
「でも、そういうやつだわ」
その言葉に、澄玲は少しだけ頷いた。
そういうやつだ。
最後の最後まで、自分のことより人のことばかり気にして、残される側の未来ばかり考えている。
優しいというより、勝手だ。
勝手にいなくなって、勝手に幸せになれと言って、勝手に手紙まで残していく。
でもその勝手さごと、好きだった。
澄玲はもう一度手紙に視線を落とす。
大好きな幼馴染へ。
その言葉の意味を、どこまで信じていいのか分からない。
恋愛としての好きではないかもしれない。
ただの、やさしい別れの言葉かもしれない。
それでも、今はその一文が救いだった。
透真の中で、自分はちゃんと「隣にいた人」だった。
ただの同級生でも、ただの昔なじみでもなく、人生の一番長い時間を共有した相手として残っていた。
それだけで十分だと思おうとした。
律希が壁に背中を預ける。
目は赤いのに、無理やりいつもの調子に近い声を作っていた。
「なあ」
「……?」
「これ、反則だろ」
手に持った便箋を軽く振る。
「死んだ後に手紙で好感度稼ぐなよ」
「……」
「ずるすぎる」
澄玲は少しだけ笑った。
変なところで、透真らしい。
本人がここにいたら、きっと「そんなつもりないし」と困った顔をしただろう。
でも本当は分かっている。
これは好感度稼ぎなんかじゃない。
透真なりの、精一杯の整理だったのだ。
言えなかったこと。
言わないままにしたこと。
残していく側の、せめてもの責任。
そう思うと、また涙が溢れそうになった。
病室の中は静かだった。
透真はもう何も言わない。
けれど手紙の中の言葉だけが、まだこの部屋に透真を残している気がした。
澄玲はそっとベッドのそばに近づく。
そして、透真の手の近くに自分の手紙を置いた。
「……約束」
小さく呟く。
「……守る」
幸せになれ。
そう書いてあった。
今はまだ無理だと思った。
今日この日に、そんなことを素直に受け入れられるほど強くはない。
それでも、いつか。
本当にいつか、透真が望んだみたいに笑える日が来るのなら。
その時はちゃんと前を向こうと思う。
透真が、そこまで願ってくれたのなら。
律希もベッドの方を見て、小さく言った。
「……俺も」
その声に、澄玲は少しだけ安心する。
自分だけじゃない。
この先も、透真を覚えている人が隣にいる。
それだけで、少しだけ怖くなくなった。
窓の外は青空だった。
こんな日に。
こんなにも綺麗に晴れるなんて、ひどいと思う。
でも同時に、透真はこういう日にいなくなる気もした。
雨じゃなくて、ちゃんと光のある日に。
最後まで「大丈夫」と笑いながら。
澄玲は深く息を吸って、ゆっくり吐く。
涙はまだ止まらない。
悲しみも消えない。
それでも、手紙に書かれた文字だけは、これから先も消えないのだろうと思った。
この日から先、何度読み返しても、そのたびに痛んで、そのたびに救われる。
透真が残したものは、思ったよりずっと重かった。
そして、思ったよりずっとあたたかかった。
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