番外編「剣客孫十郎 下巻」
暗闇に目を閉じてみれば畳の微かな匂いが鼻に香る。
すっかり暗くなった部屋に寝転んで大の字になり孫十郎は思い悩んでいた。
正善と出会ってから数日経過している。
あの晩に誓った言葉通り孫十郎は真っ当に生きようと自分の人生を見直し、自らの腐り切った心内を鍛えようと足掻いていた。
しかし、その試みは始まってすらいない。
彼がこの数日で積極的に行動していたのは女を見つけて巧みに誑かし宿代わりに利用し、今後の金を無心するだけ。
これまでと何も変わりない生活だった。
故に孫十郎は益々自分に嫌気が差し、何としてでも自分を変えてしまいたいと誓いを固くするも腐り切った彼には何も出来ない悪循環が回りまわっていた。
徐に立ち上がると腰元に大小の刀を差し、世話になった女に何も言わずに家を出る。
また女も孫十郎に何も言わず彼が黙って出て行くのを薄く笑い影ながら見送った。駄目な男が好ましい駄目な女だった。
■
孫十郎はあの日と同じ様に一人で夜の町を当てもなく歩き回っていた。
その行動に意味は無いが、心の底でこうしていれば正善にまた出会えると何故か信じていた。
歩き始めて一刻が過ぎると赤い提灯を店先に下げた居酒屋を見付ける。
女に余裕がなく少しばかりしか無心出来なかった孫十郎は一寸ばかり迷ったが、店に入れば正善が一人で飲んでいる様な気がして迷いを振り切り中へ入った。
孫十郎は段々と無性にあの快活な気持ちの良い男に会いたくなっていた。
店の中に入り、店内を見回すと正善の姿はない。気持ちが少し沈んだ。
入ったばかりで踵を返すのもなんだからあの日に隣り合って座った席が空席だったので黙って座ると店主が遅れて注文を聞きに来た。
「酒を一つ」
頼んだ酒が持って来られてからも孫十郎は黙って一人孤独に御猪口に注がれた酒を口元に運ぶ。
期待が外れて荒んだ心を慰めるのには丁度良い様だった。
酔えもせず、ちびちびと酒を飲んでいると孫十郎の耳に会いたかった男の名前が呼ばれたのを確かに聞き取った。
その名前を言ったのは真後ろに座る二人組みの町人だ。
孫十郎は振り返りもせず、黙して話の続きに耳を傾ける。
あわよくば正善が現在何処に居るのか分かるかもしれない。
それ程に孫十郎は正善に会いたくて仕方なかった。彼に会えば自分が変われる気がするのだ。
「それで昨日の話なんだけどな。破落戸の間で"月斬り正善"と呼ばれてる浪人風の大男がよう。俺が偶々通った人気の無い道すがら急に肩ぶつけ合った男に難癖つけてだしてな」
「正善てぇ確か……大太刀持った男だったか。それで?」
孫十郎のは悪い予感がした。
あの快活で道理を弁えている男が肩をぶつけられただけで難癖をつけるとはどうしても思えない。
何かしらの理由がある筈だ。
「言い掛かりつけられた相手も目付きの悪い男でな。終始何も言い返さず黙って睨み付けてたんだわ」
目付きの悪い男。
そいつは正善が以前に語った敵の特徴に合っている。
もしや……と考えていると孫十郎の考えが最悪な形で肯定される。
「どうなるんだって林の中で気配を殺しながら隠れてたんだが、次第に険悪な雰囲気に変わってきて大男が背中に背負った馬鹿長い刀を見事に引き抜いて斬り付けたんだけどよ。倒れたのは大男の方だったんだぜ。驚いたね。斬った方も気が付いたら二振りの刀をゆっくり納めてたし――」
陶器が割れる乾いた音が響いた。
「………のか?」
御猪口が罅割れて血と酒が混じりあう。
「えっ?」
孫十郎は保ち続けていた沈黙を背中を向けたまま自ら破る。
「その男。"月斬り正善"なる男は死んだのか?」
「オイ、アンタ! 人の話に聞き耳立てるとは如何いう――」
聞き役に徹していた男が激昂し、孫十郎を攻め立てる言葉の途中で孫十郎は後ろを振り返り、男の片頬を軽く撫でた。
「俺は死んだのかと聞いている」
「ひぃ」
殺気混じりの視線と撫でた跡に付いた孫十郎の血痕が町人に対して剣呑な雰囲気を十分に理解させてしまった。
視線を降下させた際に見た腰元の物と相俟って町人は正直に話す。
「……死んでた。二刀流の男が去った後に茂みから飛び出して確認したが……既に息が無かった。即死だったんじゃねぇか…」
無言で町人を睨み付ける孫十郎と感じる殺意と恐怖に固まる町人二人。
蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が似合う状況が続いた。
やがて孫十郎は眼を硬く瞑ると直ぐに開き
「そうか。失礼した」
二人に謝罪して、懐から有り金全部取り出すと机に置く。長方形の銀色に光る物が二つ。
「勘定だ。釣りは要らぬ」
店中の視線を集めたまま静かにその場を後にした。
■
孫十郎は飲み屋を出ると直ぐに駆け出した。
只管に全力で町を駆け抜ける。行き先など決まっていない。
一時の衝動的なものだった。
途中から絶叫も上げる。
意味も無く、言葉にならない悲鳴染みた叫び声を。
鈍った体が悲鳴を上げ軋み、喉が痛み出した頃。
孫十郎は脚を突然に止めて体を地面に投げ出し盛大にその身を転がす。
ぜえぜえ、と息を切らして体中に痣を作り傷だらけになったが、それでも彼の衝動を尽きないし心の中で暴れ続ける。
一夜の付き合いであるが友と呼べる者を失った悲しみ、その友を奪った輩への怒り、何より何時かはそうなるであろう事を理解しながら手を拱いていた自分への失望感。
その全てが掻き乱し、溢れかえる。
嘗て味わった挫折以上の苦しみが孫十郎の心を支配していた。
答えなく、終わりのない中で一つの心理を見出す。
――後悔しても時既に遅し。
孫十郎はそんな簡単な事を生まれて初めて悟った。
いや、悟らずにはいられなかったのだ。
呻く声を止め、孫十郎は静かに立ち上がる。
乱れた着衣を軽く正すと来た道を戻ってゆく。
その腐った瞳には微かに光が宿っていた。
■
空が白み、東の空から日が昇ってくる時間帯。
東堂桜は日課である門前の掃き掃除を始めようと草履を履いて縁側から下りる。
本来なら東堂家に仕えている奉公人か東堂道場に通う門下生がするべき仕事なのだが、彼女は昔から一貫として他人に譲らず掃き掃除を行っていた。
桜曰く、主家の者が清めてこそ意味がある、らしい。
閂を取り外し、門を開く。
桜は門の外に広がる光景に軽く目を見開き、無表情以外の顔を晒した。
「……如何しましたか。兄上」
其処には泥だらけの着物を纏い、地に額をつけ、土下座をする孫十郎の姿があった。
「ぜひ御願いしたい由がある」
その言葉を聞いた瞬間に桜は視線を地面へと切り替え、竹箒を手に風に飛ばされてきたであろう木の葉を掃く。
孫十郎はそんな実妹の態度に構わず続けて言葉を紡ぐ。
「まこと身勝手に家を出、今更この様に願うのも厚かましいでしょう。――それでも、恥を忍んでも聞き入れて頂きたいのです。聞き入れて下さるのなら、安い命ですが喜んで差し出しましょう」
対する桜の反応はない。
無情にも地面を擦る音だけが延々と響く。
竹箒の動きが止まり、桜が踵を返す。
それでも孫十郎は土下座の姿勢を崩さなかった。
「……本気、ですか?」
桜が孫十郎に問う。
「兄上。貴方は言いました。命を差し出すと。その言葉に偽りはありませんね?」
威圧感を伴い吐き出される。
その言葉は能弁な問いだった。
空白期間があるとは言え、共に育った実妹の性格を孫十郎はよく知っている。
先に生まれてきた兄として、その豊かな才能に嫉妬する者として、同じ両親を持つ家族として桜を見続けてきた孫十郎だからこそ理解出来る言葉。
『私は貴方に何があったかは知らない。大して興味もなく知りたくもない。しかし、過去に此処から逃げ出した貴方が自らの命を賭けるなどと大きな言葉を吐いて舞い戻って来たのだから覚悟はあるのでしょうな?』
そう、問われたのであった。
孫十郎は情け無い事に全身を微かに震えながらも何とか答える。
「無論の事に御座いまするっ!」
回答を待つ孫十郎に対して、桜は孫十郎を吟味するかの様にだんまりしていた。
そんな二人の間へ此処に居ない筈の第三者が介入する。
「ならばよし。その覚悟、確かに聞き届けた」
渋く掠れた声を孫十郎は知っている。
勢いよく頭を上げて仰ぎ見れば、目の前に男が立っていた。
水戸藩剣術指南役にして藤堂派一刀流・東堂作次郎、その人である。
「孫十郎。お前が俺等に何を願うのかは知らねぇが、まずは家に戻って来い。話はそれからだ」
作次郎には珍しく孫十郎に温かい言葉が投げ掛けられた。
孫十郎は久方振りの家族を感じさせる言葉に感動し、への字に口を歪ませて再び地面へ頭を擦り付けると立ち上がる。
「はいっ! 父上っ!!」
親子は向かい合い家族の絆を感じ合う。
その様子を門の向こう側で桜は静かに眺めていた。
■
孫十郎は幾つもの御願いを作次郎に伝えたが、彼の願いは一つの事に向けられていた。
作次郎は願いの意図する行動に対して眉間を皺で歪ませる。
孫十郎の願いによって叶えられる行動は褒められるべきものであったが、肯定するには些か足りないものであった。
要は友人の敵討ちなのであるが、認められるかと言えばそうでない。
まず第一に御上に定められた法律に反する事。
これは孫十郎が討手となる理由となった人物である正善が領主を通じて正式に幕府へと届け出て実妹と親友の敵討ちを成そうと敵と果たし合った為であった。 この場合、相手は法律上で殺人罪に問われず、敵討ちが適応されないのだ。
第二に正善に親類縁者がいるのかを知らないという事。
仮に敵討ちが適応されても討手は殺された人物の血縁が濃い人物となる。とても孫十郎の出る幕ではない。
その他にも理由はあり、到底孫十郎が敵討ちをするには至らないのだ。
作次郎は何とか敵を討たせてやりたいと眉間に深い皺を寄せて頭を悩ませるも良案は出ず。
幕府に仕える門下生の一人に相談を重ねる事となった。
その間に孫十郎は己を鍛え直して勘を取り戻そうと道場で只管に門下生や桜と組太刀をする。
孫十郎は相手に何度も打たれて度々床に倒れ伏したが、その度に立ち上がり稽古に戻った。以前の腐った眼は既に輝きに満ち溢れ、徐々に勘を取り戻していった。
正に執念。
心腹の友に成り得たであろう人物を失った深い後悔。
それが孫十郎を劇的に変貌させたのであった。
桜はそんな兄を見直して進んで組み合うようになり、作次郎は精一杯に励む息子の姿に深い感慨を得る。
時間が巻き戻るように東堂家は嘗ての姿を取り戻していった。
■
そして一つの季節が過ぎ去り、外の景色はすっかり秋めいていた。
敵討ちを果たそうと爪を研いでいた孫十郎に思わぬ機会が訪れる。
「御免っ!」
東堂家の道場に一人の客人が現れた。
着崩した格好に大小の物を差し、無精髭が生やし放題にして獣の様な風貌をしている。
明らかに浪人崩れであった。
そうとなれば狙いは分り易い。評判を少しでも落とす為に他道場が送り込んで来た使い捨ての刺客であった。
その男は鋭い眼光を道場内に向け、獲物を見定める様にゆっくりと門下生達を見回す。
傲慢そうに鼻を鳴らすと
「大した事はないな」
そう、挑発した。
門下生達は突然の言葉に呆気に取られたが、その言葉の理解に及ぶと激昂し男へ仕掛けようとしたが、それを制する者が居た。
「若先生……」
東堂孫十郎である。
男の挑発により噴き上がった激流の様な感情を制し、激流を制する水の様に静かなる心を保っている。
それを見て男は
「ほう……」
と、感心して野獣の様な視線を向けた。
「貴様……確か以前に会うた事があるな」
孫十郎も男に見覚えがあった。
囲われ女のおきん。
そのおきんの屋敷奥に居た浪人崩れの男。正にその人物である。
「如何でもいいか。早速、一手御教授願おうか」
その傲慢そのものである挑発に首肯し
「受けた」
男は禍々しく笑うと腰元から大小の物を抜き取り、近くに居た門下生に渡す。
「二刀流故に大太刀と小太刀の木太刀を借りたい」
密かに相手をとある男だと疑っていた孫十郎は密かに納得し、門下生を促して注文通り貸し与えた。
自分も大太刀の木刀を受け取ると道場の中央に寄る。
二人は向かい合う。
「天下無双流、静内籐兵」
先に挑戦者である男が天下無双流なる二刀流の流派と名前を名乗り、二刀流独特の構えを取る。
利き手らしい右手に大太刀。左手に小太刀。
二刀を上段に掲げ、流派の名の通り天を突く様に構える。
それは静内藤兵の性格と似て傲慢に相手を威圧する構えだった。
如何やら技の早さを重視しているらしい。
同じく上段に構えを取り、決して乱れぬ水面の如く心を崩さないまま、孫十郎は静内藤兵に名乗る。
「東堂派一刀流、赤羽重三郎」
敢えて静内藤兵に名乗ったのは嘗て正善に名乗った偽名に違いない。
それは孫十郎が正善の友として義理を果すという意思表示であった。
道場に緊張が満ちる。
獲物を前にした肉食獣の様に激情を露わにして本能のままに斬ろうとする静内藤兵。
対して孫十郎は激しく飛ばされる眼光を受け流して相手を誘う孫十郎。
先に仕掛けるのならどちらか、誰が見ても明らかであったがそれは裏切られる。
動いたのは孫十郎であった。
床を擦る様に大股で距離を詰めて近寄る。大胆不敵な動き。
瞬きをする間に孫十郎は静内藤兵に近付き、大太刀の木刀を振り下ろす。
この時、静内藤兵は既に孫十郎の動きに反応していた。
孫十郎の一撃を小太刀の木刀で受け流す様に構え、残った大太刀で上段の構えの所為でがら空きであった孫十郎の腹を撃とうと振る。
明らかに孫十郎の動きより俊敏且つ達者であった。
内心、静内藤兵は己の勝利を確信し、信じて疑わない。
故に彼はその勝利に酔ったままこの世を去る破目となった。
孫十郎の上段から放たれた一撃は静内藤兵の小太刀に遮られるも構わず守りを崩し、小太刀の木刀を圧し折る。
静内藤兵の大太刀による一撃が届く前に彼の脳天を打ち抜いた。
派手に人間が倒れ伏す音が道場に反響する。
孫十郎は大息を吐き出し、残心を解いて、静かに目を瞑って黙祷する。
打ち据えた手応えに相手の即死を確信した故であった。
遅れて門下生の孫十郎を讃える歓声が道場に木霊したのであった。
■
静内藤兵は狂犬である。
彼の男は以前に田舎藩の六十石の祐筆を務める武家であった。
性格は穏やかで気配りある男と同僚からの評判も良かったらしい。
藤兵は俸禄だけでは食っていけないので日夜内職をして慌しい日々を過していた。
そんな藤兵を変えたのは一振りの大太刀が原因である。
神社に奉納されたいたその刀を藤兵は仕事で見る機会があった。
その時である。
藤兵は整備の為に抜かれた刀身に魅入られ、変貌したらしい。
同僚達は藤兵の変化に気付いていたが聞くべき事かと悩み声を掛けられずにいた。
それから数日後。
藤兵は事件を起こす。
神社の刀を奪う為に深夜、草木も寝静まる頃に忍び込み刀を盗み出そうとしたが、行事の都合上で神社に泊まっていた者達に見付かり、派手な斬り合いへと発展した。
藤兵は数人ばかり斬り殺してその場から逃亡したが、途中で肝心の刀を紛失した。
その刀を探す為に身を隠しつつ浪人崩れに身を落としてしまったのだ。
藤兵の刀を収集する癖がそこから始まったらしい。
道場の片隅で孫十郎は漸く調べて貰った静内藤兵についての情報を纏めた書類を眺めていた。
穏やかな春の日差しが窓から入り、気持ちの良い風が吹いている。
既に件の道場破り紛いから大分時間が経過していた。
桜が孫十郎の代わりに家を出て道場破りを繰り返し、それを止める為か果し合いをした作次郎が利き腕を失った。その後に後継者として孫十郎が道場を譲り渡されている。
桜は何故か藤宗次郎なる男と偽り、海の向かうへと渡るらしい。
餞別に孫十郎は正善作の脇差を渡した。
これは彼の遺作を孫十郎が探し出した物であった。
孫十郎は実妹の気持ちが分らない気もしなかったのである。
思わず溜息を吐く。
色々な出来事がここ数年に凝縮されて起こり、孫十郎の人生において激動なるものを終えた。
今になって漸く、漸くと孫十郎は全てにけりが付いた気がしたのだ。
思えばあの時。
孫十郎が静内藤兵と試合をした時。孫十郎は東堂派一刀流の師範代としてではなく、赤羽重三郎なる一人の剣客として立ち合った。
それが結果的に孫十郎が一介の剣客で居られる最後だったが、不満などある筈が無い。
あるはずもないが孫十郎は一人の剣客として生きてみたいと考えていた時代があった。
桜の才能に嫉妬していた時機の事だ。
妹が道場の後継者となり、自分は願わくば自由な剣客として江戸の町をぶらぶらと歩き回り生きていきたいと考えていた。
妙に感傷的な気分になるのはその所為かもしれない。
孫十郎は静内藤兵の書類を再度流し読んで今が最良であったと確信する。
静内藤兵と腐った頃の孫十郎に違いなどなかったからだ。あのまま生きていれば何れ第二の静内藤兵となっていただろう。
正善に出会えたのは奇跡だったのかもしれない。
孫十郎は自分を変える切欠をくれた友に感謝と黙祷を捧げた。
剣客孫十郎 完




