「凱旋の騎士達と殺戮修道女」
熱風が吹き荒れる夏の暑さと日差しを耐えれば、季節は揺るやかで人に自然の恵みを与えてくれる秋に変わりつつある。
そうした季節の機微を黒船の中では些か感じ得ないが、藤宗次郎は段々と肌寒くなってきた気温で季節を敏感に感じながら、金盥に溜めた温水に手拭いを浸して絞っていた。
船内には風呂が取り付いていないから、こうして桶や金盥に溜めた水を沸騰・洗浄させた温水で体を拭き、清潔を保つ。
日本を出た何度か港へ下りては補給を繰り返していても海の上での水は貴重で体を洗う水の配分は少なく、週に二、三度位しか体の汚れを取れない。
雨が降った時に雨水を利用して服を全部脱ぎ全身を洗ったりする船員が居るが、性別を男性だと偽っている宗次郎はそうはいかない。
好んで常に着用している和服を脱いで全裸になり体を入念に手拭いで清める。
どこぞの髭老人の様に風邪をひかぬよう手早く丁寧に体を拭いていく。
汚れと一緒に心に溜まった"しこり"が取れる様だった。
そうしている間も宗次郎は自分に割り振られいる個室の扉と周辺に気をかける。
誰かが部屋に突然現れたら性別を偽っているのが公になってしまうのは拙い。船旅の間に何度か秘密が知れ渡りそうになったが持前の気配察知能力と機転で誤魔化し続けている。
自分を慕ってくれるベアトリスには大変申し訳無いが宗次郎にはこればかり退けない事情が有るから。
東堂作次郎という歴史に名を残すであろう武芸者が自身の利き腕と引き換えに与えてくれた夢を叶える為の希望だから隠し通す事でしか恩を返せないのだ。
自分の体を漸く拭き終えると手拭いを金盥に浸して、先に下帯を付けてから晒を丁寧に巻いていく。
女を主張する胸部の脂肪を無理矢理に薄く押し込める。
多少痛みを感じるが晒を巻いていないと和服が不自然に盛り上がってしまうので我慢するしかない。
お気に入りの田舎臭い浅葱色の和服を纏い、青紫に染まった袴と絹の足袋を穿いて、身嗜みを整える。
最後に寝床の上へ安置されている白鞘の愛刀を腰元にすっと帯びる。
それだけで宗次郎は身が引き締まる思いになった。
だけれど、まだ緊張感が欠けている。一介の武芸者としてこれではいけない。
身支度の仕上げに宗次郎は両腕をだらりと下げ、体の力を抜き、棒立ちとなる。
一見、何も構えて居ない様に視得るがこれが宗次郎独特の構えであった。
戦場では誰も自分が構えるまで待ってはくれない。
故に無形となって即座に対応出来る様に宗次郎は敢えて自分の構えを作らない。
これは宗次郎が体よりも心を構える事に重要視するからだ。
敵を斬る覚悟。誰かに殺される覚悟。その誰かを返り討ちにする覚悟。戦場で生き抜くべき時に必要な覚悟を心に刻み付けておかなければ刹那の躊躇の間に自らの命を散らす破目になるのだから。
一呼吸置いた後に誰も居ない眼前の空間に宗次郎だけが視得る敵を想像する。相手は宗次郎よりも背が高く、既に鞘から刀を抜き正眼に構えている。
過去に殺し合った武芸者の姿、そのままだ。
存在しない相手を睨み付けながら、気を沈め、全ての歯車がかち合った時。漸く構えは経過に繋がり、結果を生み出す。
腰間から滑り出た愛刀が一筋の光芒を放ち、相手に挙動を感じさせない程の早業で目の前に想像だけで作り上げた仮定の敵を切り裂く。
その奇妙なまでに忠実な再現を成された想像を切り裂いたのに確かな手応えを感じた。悪くない、そう思った。
白鞘に刀を収めていると宗次郎は今日の予定を思い返す。
今日の昼頃にソマリア王国の港に着くと昨日セロから告げられている。
それと同時にセロは宗次郎に一つ誘いを掛けて来た。
『我等の食客となって共に迷宮攻略の栄を頂かないか。英雄に成れる好機だぞ』
その言葉に宗次郎の心は揺れる。
セロは短い付き合い中で藤宗次郎と言う一人の人間を見事に掴んでいた。
少ない感情の機微の中に英雄という言葉に反応する事を知り、その瞳に微かな憧れの光を灯しているのを見出していた。
宗次郎の心の急所を正確に突いた一言をぶつけたのである。
そうでなくてもセロから以前に聞いていた話から英雄になる道筋として最短のものであり、良い条件だと密かに考えていた。
断る理由も無い。
宗次郎はクリフ家の食客になる事を即刻承諾した。
その後に宗次郎はセロから予定としてソマリア王国に着いたらクリフ家当主に会う事を約束させられている。
念入りに身支度を整えていたのはその為だ。
英雄に会うのならそれ相応の覚悟と意思を持たなくてはならない。
幼き時から英雄と呼ばれている父親の背中を見て生きて来た宗次郎が得た教訓の一つである。
一呼吸整えてから後ろにある寝具に振り返る。その上に眠っていた小刀を和服の中へと忍ばせてから、自室を出た。
■
甲板に出て、少し先の景色を覗きけば目の前は異世界だった。
色鮮やかな衣装を纏った異国の人間が其処ら中に溢れかえり凱旋に対する喜びの声をあげて、縦長に聳え立つ建物が無数に立ち並んび騎士達を迎えるに相応しい飾りを施している。
自分の知る日ノ本の風景が味気無く思える位に鮮烈な町並みだ。
国元から離れた経験が皆無の宗次郎にはソマリアの港町は物珍しい華やかさに不覚にも心を奪われる。
「どうだ。我が祖国の景色は?」
女性独特の高い声。
軽く後ろを振り返ると金髪碧眼の麗人が立っていた。
「素晴らしいものですね、べス。些か呆気に取られてしまいました」
「ふふんっ。存分に眺めるがいい。我が祖国の美しさをな」
故郷を褒められて喜ばない人間はいない。
満足いく答えを聞いて嬉しそうに鼻を鳴らした。
そのまま暫く二人立ち並んで歓迎に包まれた港町の賑やかさを楽しむ。
もう直ぐ帰港する、という辺りで、ふと、ベアトリスが零した。
「……昨夜、爺から聞いた」
「そうですか」
クリフ家の食客になる件。
返事をしてからベアトリスに間を置かずセロが報告したのだろう。
「本当に宜しいのか。信じるぞ」
宗次郎の耳にやっと届く位の弱々しい声。
気高き獅子の如く凛とした雰囲気を常に漂わせている彼女ではない彼女。隠された素の自分を曝け出している。
貴族の娘が知り合って間もない他人に弱気を吐き出すなど絶対に在り得ない。ソマリアの貴族社会は実の家族にも弱みは掴ませるなという言葉が存在しているのをセロから聞いている。
しかし、宗次郎は自分に寄せられている微かな信頼を感じた。
それを心内で狡いと零す。
武芸者とは武士道を突き進む者達であり、その信条に信頼には信頼でしか返せないとの考えがある。
ベアトリスは図らずも弱みに付け込んでしまったのだ。
なれど彼女に報うしか選択肢にない。
ならば自分に出来得る最善の選択は――
「貴女の信じる私で間違いはない」
返事が返って来るまで暫しの時間が必要だった。
ベアトリス・クリフが異国の剣士である藤宗次郎を完全に信頼出来る人だと思える時間が。
幸い船が帰港しても下船するには時間が掛かる。彼女が心を決めれるだけの。
無言のまま二人は連れ立って港の風景を眺める。
やがて船から下りる準備が終わると
「では、行こうか」
先陣を切って行く。
その声には先程までの弱さは無い。
隣を横切る彼女の横顔を見れば翡翠色の眼差しが強く輝き、潮風に靡かせられ蜂蜜色の金糸が後ろに揺らしている。
一瞬だが、その強く在る有様に宗次郎は自身が知る英雄の姿を重ねた。
(……真に信頼出来る者を得た時が最も人を強くする瞬間である、か)
昔に読み聞いた名高い武将が残した書物の一説にある言葉が唐突に頭に浮かんだ。
ベアトリスが宗次郎をその境地まで信頼を置いたのかなど本人にしか分かりはしないが、今は彼女が一皮剥けたと知った。
それだけで自分の選択は決して悪い物では無かったのだと宗次郎は感じる。
きっとこの先に渇望して止まない希望があるのだと心に刻み込んで、主人に続く三騎士の背を追い掛けた。
■
暗い暗い闇の中。
窓掛けから射された日差しが微かに漏れている。
其処に蠢く者が居る。三日月型に口が裂けた笑いを模られた仮面を顔の部分に着け、闇色の外衣を纏った人型が三体。
身を寄せ集まってひそひそと何事かを囁き合っている。
「英雄の小娘が予定と違い、異国から一人だけ客人を連れて来たそうだぞ。どうするのだ?」
面倒臭そうな嗄れ声の疑問が投げ掛けられる。
「どうするも、こうするもない。既に定員は満員なのだ!」
子供の様な幼い声が叱り付ける様に応えた。
「なれば、なればやる事は一つでは?」
甲高い女性の声が穏便に便乗する。
「闇に消えてもらう、か」
いよいよ物騒な言葉が出てきた。
一寸。
各々が思考に時間を割き、暗い部屋に不気味な静寂が齎される。
その静けさは三体のくすくすと笑い合う声に掻き消された。
どうやら答えは導き出されたようだ。
「なら出番だ。アッサシン」
老人の様な嗄れ声に呼ばれると奥の隅から三体と同じ仮面を身に着けた女が歩み寄る。
「待て! 同志"隠者"よ!」
幼い声が"隠者"と呼んだ男に待ったを掛けた。
「何だ? 同志"皇帝"。なんぞ問題でもあるのか?」
「我等はその暗殺者の話は聞いていないぞ!」
「私も聞いていない!」
二つの非難する声が一室に響く。
「あぁ、そうだったな。済まない。同志"皇帝"、同志"魔術師"。これは私が贔屓にしている暗殺教団の人間だ。一応、念を入れて護衛の為に密かに着いて来させたのだ」
「……此度の我等の計画は絶対に漏らす訳にはいかないのだぞ。大丈夫なのか?」
「こやつ等の教団はな。幼き頃に殺しを仕込み、神への信仰の為ならどんな事でもする様に洗脳されている。故に信用だけは出来る。それも此度は念入りに御布施と称し、大金を叩いて特別に熱心な信者を派遣してさせた。教主の命令なら喜んで死を選ぶ人間だそうだ」
"皇帝"と"魔術師"は不安そうな雰囲気を醸しながら、恐る恐る目の前に突っ立っている女を見る。
見聞した程度では不気味さしか感じ取れなかったが、ずっと同じ部屋に居たのに存在を悟らせなかった実力だけは確かだった。
「貴様の事だから聞いていたな? 葬って欲しい人間がいるのだ」
「今日来られた異国の方だとか」
何故知っている、と一寸ばかり不信に思ったが、暗殺者にとって情報とは命綱になるので自分の領域に侵入して来る人間を逐一把握しているのも可笑しくはない。
疑念を振りさってそのまま続ける。
「そいつよ。名は……」
「フジ・ソウジロウ様ですね?」
間髪居れずに名前をまだ知らない筈の女が先に挙げた。しかも様付けをして。
仮面の下で驚く"隠者"。
次の瞬間。
彼は仮面事顔面を吹き飛ばされて陰惨な姿へと成り果てた。
残る二人は多少警戒していたのだが唖然となる。
目線だけ"隠者"の行方を追い、角隅で勢いを止め物言わぬ亡骸を確認し、そして事態を頭で理解して飲み込むと不様な悲鳴を上げて逃げ出そうとする。
既にその段階での逃走は遅過ぎた。
伸ばされた指先が"魔術師"の胸を貫いた。
素早い動きで右手を引き抜くと体を基点にして後方に動く力を利用し、左手を"皇帝"に向け放つ。
仮面の下部分の反対側、つまり首部分にぶち当てる。
骨を圧し折った感触を掴む。
何とも言えない嫌な音が響き渡る。
糸の切れた人形の様に膝から崩れ落ちる二つの亡骸。
即死。
両者とも確認するまでもない。
軽く十字を切る。
「――使命を終えました」
窓際に近付き、窓掛けを開く。
その際に深紅に染まった修道服が露わになる。
目の前には青い空と海。其処に浮かぶ一隻の黒い船が見えた。
騎士達を迎えていた雰囲気も既に止んでいて何時もの町並みとなっていた。
女は空へと祈り捧げる。
「既に神託は下っております。あぁ、いと高きあの方に感謝の祈りを」




