第8話 伯爵でなくなった男
第8話 伯爵でなくなった男
アフェクタ商会から戻った夜、レイモンドは書斎の暖炉へ再建事業の提案書を投げ込んだ。薪は朝から足されておらず、火は赤い炭になっていたため、紙の端が茶色く縮れただけで燃え上がらない。彼は火ばさみで提案書を押し込み、領地経営権の移管と書かれた箇所が黒くなるまで、何度も炭をかぶせた。
「私に領地を手放せだと。商売で少し成功したくらいで、伯爵へ命令できると思っているのか」
書斎の机には、開封されていない請求書と空の葡萄酒瓶が積まれていた。昼に残したチーズは端が硬くなり、皿の上で油を浮かせている。エルナがいた頃は毎晩交換されていた水差しにも、昨日から同じ水が半分だけ残っていた。
翌朝、レイモンドは王都で高利貸しとして知られるバルド金融商会を訪れた。焦げ茶色の外套は背中に皺が寄り、昨日と同じ黒い上着の袖口には、拭き取れなかった染みがまだ残っている。応接室へ出された茶は薄く、焼き菓子も一つしかなかったが、金を借りる側であることを認めたくない彼は、味が悪いと店員へ文句を言った。
「金貨二千枚が必要だ。クロフォード領の税収を担保にする」
「税収は、すでに別の金融商会への返済担保となっております。重ねて担保へ入れることはできません」
支配人のバルドは、丸い眼鏡を鼻の先へ下ろし、調査書をめくった。黒い服の胸元には銀鎖の時計が下がり、卓上には削った鉛筆が長さ順に並べられている。レイモンドが机を指でたたいても、バルドは顔を上げず、屋敷と残された土地の評価額を一項目ずつ確かめた。
「ならば屋敷を担保にする。家具、銀器、絵画も含めれば、二千枚以上の価値があるはずだ」
「銀器の半分は、すでに宝石商と仕立屋へ差し出されています。絵画も、先代伯爵の肖像画を除けば、それほど高値にはなりません」
「クロフォード家は、百年以上続く伯爵家だぞ。その名に価値がある」
「返済が滞った場合、爵位を売って金貨へ換えることはできません。私どもが評価するのは、売却可能な財産だけでございます」
バルドは最終的に、金貨八百枚までなら貸すと答えた。ただし利息は通常の三倍で、四十日以内に返済できなければ、屋敷と残存する直轄地をすべて取得するという条件だった。レイモンドは細かな文字を最後まで読まず、伯爵家の印章を押した。
借りた金のうち、百二十枚を水車の修理へ、百枚を種麦へ使えば、少なくとも領地の仕事は再開できた。しかしレイモンドが最初に向かったのは、王都で最も高価な宝飾品を扱う店だった。監査を中止させるため、王宮の財務長官へ青い魔石を使った置き時計を贈ろうと考えたのである。
「こちらなら、長官閣下の執務室にもふさわしい。金貨二百枚でございます」
店員が箱を開けると、青い石の中で細い金色の針が動いていた。時を知らせるたび、小さな鳥が蓋の上へ現れて鳴く仕掛けになっている。レイモンドは、エルナが持っていた欠けた小鳥の絵皿を思い出したが、すぐにその記憶を追い払った。
「包んでくれ。クロフォード伯爵からの贈り物だと分かるよう、家紋を入れるのだ」
「代金は、先に頂戴いたします」
「伯爵家の名では足りないのか」
「最近は、お支払いの確認をしてから商品をお渡しする決まりになっております」
レイモンドは唇を引き結び、バルド金融商会から受け取ったばかりの金貨を卓へ置いた。商人は一枚ずつ数え、偽貨が混じっていないことまで確かめた。以前なら後払いで済んだ店でも、クロフォード家の未払いが広まった今は、誰も家名だけを信用しなかった。
財務長官は贈り物を受け取らなかった。監査中の貴族から高価な品を受け取れば、職務上の問題になるとして、その日のうちに箱ごと返送してきた。さらに、贈り物を使って監査へ影響を与えようとした事実まで、国王へ報告された。
監査官がクロフォード領へ入ったのは、その三日後だった。彼らは壊れた水車、空になった製粉所、雪の残る畑、未払いのために閉じた倉庫を一つずつ調べた。農民たちは、隣領まで小麦を運んだ回数と費用を帳面に記し、エルナが修理費を用意したあと、レイモンドがその金を取り戻した経緯も証言した。
「先代様の頃から、製粉所の使用料はきちんと納めてきました。水車が止まってからも、税だけは同じ額を求められました」
農村代表の老人は、黒ずんだ手で領収書の束を差し出した。袖口の擦り切れた厚い上着を着て、腰には昼食用の豆入りパンを布へ包んで下げている。監査官は領収書の日付と伯爵家の帳簿を照らし合わせたが、農民が納めた税の一部は帳簿に記載されていなかった。
「記録されていない分は、どこへ消えたのですか」
「王都の舞踏会や贈り物へ使われたと聞いております。私どもには、詳しいことは分かりません」
「水車が止まったあと、伯爵から説明はありましたか」
「税を早く納めろという手紙だけです。修理の見通しも、種麦の支援もありませんでした」
王都へ戻った監査官は、領地収入の私的流用、帳簿の不備、税収の虚偽報告、監査へ影響を与えようとした贈答について、正式な報告書を提出した。結果が公表された朝、クロフォード家の門には新聞売りの少年たちが集まり、見出しを大声で読み上げた。窓を閉めても声は屋敷の中へ入り、レイモンドは寝室の厚いカーテンを自分の手で引いた。
「クロフォード伯爵、領地放置により王宮財務顧問を解任。国王陛下、爵位の一時停止を命令」
新聞の一面には、レイモンドの名前と領地監査の内容が載っていた。王宮財務顧問の役職は即日解任され、役職給も停止された。さらに領民の生活を立て直すまで、伯爵として議会へ出席する権利と、家名を使って新たな借り入れを行う権利まで凍結された。
「これは誤報だ。国王陛下に直接お会いすれば、すぐに訂正される」
レイモンドは王宮へ向かったが、門を通ることさえできなかった。これまで顔を合わせれば頭を下げた衛兵が、正式な面会許可がなければ入れられないと告げる。彼が財務顧問の身分証を見せると、衛兵はそれを受け取り、解任命令に基づいて返還を求められている品だと説明した。
「これは私の身分を証明する物だ。勝手に取り上げるな」
「現在、クロフォード卿に王宮役職はございません。こちらは国王陛下より貸与された身分証ですので、ご返却いただきます」
「クロフォード卿だと。私は伯爵だぞ」
「爵位についても、一時停止の命令が出ております」
王宮の門前には、雨上がりの水たまりが残っていた。通り過ぎた馬車が泥水をはね、レイモンドの黒い長靴と上着の裾を汚す。以前なら使用人がすぐに拭いたが、今は汚れた布さえ持っておらず、彼は手袋の甲で泥をこすった。
屋敷へ戻ると、セシリアが荷造りをしていた。寝室の床には三つの旅行鞄が開かれ、桃色や水色のドレス、香油の瓶、赤い宝石の首飾りが投げ込まれている。侍女がいないため服はきれいに畳まれず、絹の裾が鞄からはみ出していた。
「どこへ行くつもりだ」
「実家へ戻ります。父が迎えの馬車をよこしてくださいました」
「婚礼の準備中だろう。勝手なことをするな」
「婚礼ですって。あなたは、伯爵であることさえ停止されたのでしょう。屋敷も土地も借金の担保になっていると、父から聞きました」
セシリアは赤い首飾りを箱へ戻し、蓋を強く閉めた。部屋には薔薇の香油がこぼれ、甘い匂いが床へ広がっている。その匂いの中で、レイモンドは財産が十分にあると何度も話したが、セシリアの手は止まらなかった。
「一時的な問題だ。王宮の役職も爵位も、すぐに戻る」
「わたくしには、領地から毎月十分な収入が入り、結婚後は王都で舞踏会を開けるとおっしゃいました。けれど、使用人の給金も払えず、わたくしのドレスさえ仕立屋に取り上げられました」
「お前まで私を見捨てるのか。エルナとは違うと思っていた」
「わたくしは、あなたが約束した暮らしと結婚するつもりでした。最初から存在しなかった物と、どうやって結婚すればよいのですか」
セシリアは婚約指輪を卓上へ置いた。赤い宝石の首飾りも持ち出そうとしたが、宝石商から未払い品として返還を求められていたことを知り、顔をしかめて箱ごと残した。迎えの馬車へ乗り込む前、彼女は厨房から黒パンと林檎を一個ずつ持たせるよう頼み、それだけは自分で布へ包んだ。
「前の奥様は、この屋敷を出るとき、四つの鞄しか持っていかなかったそうですね」
「それがどうした」
「わたくしは三つでも重くて、御者に手伝わせています。あの方は、鞄の中身より大きな物を、外に用意していたのですね」
セシリアの馬車が門を出たあと、屋敷はさらに静かになった。食堂の卓には誰も片づけないカップが残り、廊下には彼女が落とした白い手袋が片方だけ転がっている。レイモンドは拾おうとしたが、返す相手がいないことに気づき、そのまま踏まないよう脇を通った。
高利の借金を返す四十日目が訪れたとき、手元に残っていたのは金貨七枚だった。借りた八百枚のうち、二百枚は返却された置き時計に変わり、残りも過去の借金、衣装代、食費、御者代へ消えている。置き時計を売ろうとしても、家紋を彫り込んだため価値が下がり、買値の半分にもならなかった。
バルド金融商会は契約に従い、屋敷と残存する直轄地の差し押さえを申し立てた。王国裁判所は書類を確認し、競売の日を決める。レイモンドが細かな条件を読んでいなかったと訴えても、契約書には彼の署名と伯爵家の印がそろっていた。
競売の日、王都の広い会館には商人、金融業者、農村組合の代表が集まった。壁際には売却対象となる土地の地図が貼られ、中央の卓には屋敷の調度品の一覧が置かれている。休憩用の卓には薄い茶と乾いたビスケットが並び、参加者たちは地図を見ながらそれを口へ運んだ。
アフェクタ商会は、クロフォード領の農村組合、製粉職人組合、王都の食料商会と共同で農地を落札した。資金の一部は商会が出したが、所有権を独占せず、農民たちが少しずつ持ち分を取得できる契約になっている。水車と製粉所も組合の共同財産とし、使用料は修繕費と非常用資金へ回すことが決められた。
「この土地は、エルナ会頭のものになるのですか」
競売後、農村代表の老人が尋ねた。彼は以前と同じ擦り切れた上着を着ていたが、今日は妻が焼いたという胡桃入りのパンを大きな籠に入れ、参加者へ配っていた。エルナは一切れ受け取り、香ばしい皮を指で割りながら首を振った。
「土地は、組合員の共同所有です。アフェクタ商会は、投じた資金に応じた配当だけを受け取ります」
「会頭がすべて買い取れば、もっと大きな利益を得られたでしょう」
「一人の所有者に生活を握られる危うさをなくすための再建です。持ち主の名前だけをレイモンドから私へ変えても、仕組みは同じままです」
「それでは、俺たちも毎月、帳簿を読まなければなりませんな」
「はい。面倒でも、数字は必ず全員へ公開してください。ガストン先生を講師としてお送りします」
少し離れた場所でパンを四切れも食べていたガストンが、むせて咳き込んだ。農村へ泊まり込んで帳簿を教えると聞かされていなかったらしく、寝床と食事の内容を先に確認したいと言い出す。老人が、豆の煮込みと焼いた川魚なら毎日出せると答えると、ガストンは急に姿勢を正し、一週間でも二週間でも教えると請け負った。
屋敷は、王都で宿泊業を営む商人が落札した。大広間を食堂へ改装し、空いていた客室を旅人へ貸す予定だという。レイモンドの寝室も例外ではなく、家具と衣服を運び出すため、三日以内の退去を命じられた。
調度品は中庭へ並べられ、一点ずつ買い手へ渡された。銀の燭台、長い食卓、狩猟の絵、セシリアが選んだ青い座布団まで値札をつけられている。十五年間エルナが使った執務机は、町の学校が子どもたちの読み書き用に購入した。
レイモンドは、自分の荷物を二つの古い鞄へ詰めた。衣装の多くは仕立屋へ差し押さえられ、銀の髭剃り道具も借金の返済へ回された。最後に食堂へ入ると、卓はすでに運び出され、床には脚があった場所だけ四角く色の違う跡が残っていた。
厨房の棚には、誰かが置き忘れた豆の缶と、硬くなった黒パンが一つあった。レイモンドはパンを布へ包み、豆の缶も鞄へ入れた。以前なら使用人の食事だと言って手をつけなかった物が、今夜の自分の夕食になることを、彼は誰にも言えなかった。
新しい住まいは、王都の外れにある二階建ての借家だった。二階の一室だけを借り、台所と井戸はほかの住人と共同で使う。部屋には寝台、木の机、背もたれのない椅子、小さな暖炉があり、窓の外には隣家の洗濯物が何列も干されていた。
「薪は、どこにある」
レイモンドが大家へ尋ねると、腰へ前掛けを巻いた年配の女性は、階段の下にある薪置き場を指した。そこには短く割った薪が束ねられ、一束ごとに値札がついている。彼は一番大きな束を持ち上げようとしたが、予想以上に重く、すぐに床へ戻した。
「一束、銀貨一枚でございます。前払いです」
「薪だけで銀貨一枚も取るのか。屋敷では、暖炉を一日中燃やしていたぞ」
「屋敷の薪代を、旦那様はお支払いにならなかったのですか」
「使用人が用意していた」
「では、その使用人が薪屋へ代金を払っていたのでしょう。木は勝手に暖炉まで歩いてきませんからね」
レイモンドは小さな束を買い、両腕で抱えて二階へ運んだ。階段の途中で木片が一本落ち、下の部屋の子どもが拾って渡してくれる。礼を言う習慣がなかった彼は黙って受け取ったが、子どもがその場を動かないため、最後には小さな声で礼を言った。
夕食には、屋敷から持ってきた豆を水で煮た。塩の量が分からず、最初は入れすぎてしまい、水を足すと今度は鍋いっぱいに増えた。黒パンを浸して食べたが、豆は硬く、鍋底には焦げた匂いが残った。
翌朝、レイモンドは机へ金を並べた。残っているのは金貨二枚、銀貨十一枚、銅貨十八枚である。家賃、薪、食料、衣服の修理代を引けば何日暮らせるのか計算しようとしたが、羊皮紙一枚の値段さえ知らなかったため、大家から古い紙の裏をもらった。
「パンは一個いくらだ。卵は。石鹸は、どれくらいでなくなる」
彼は市場を歩き、店ごとに値段を尋ねた。古い黒い上着を着ていたが、金色の釦は借金の返済のため取り外され、糸だけが残っている。魚屋の前では焼いた鰊の匂いに足を止めたものの、一尾の値段を聞いて買わずに離れた。
三日後、レイモンドはアフェクタ商会を訪れた。以前のように受付へ伯爵が来たと告げることはできず、名前だけを名乗る。受付の女性は予約がないため待つよう伝え、彼は店の隅にある木の椅子へ座った。
目の前では、料理人が傷薬を二瓶買い、農夫が土壌改良剤の説明を受けていた。子どもを連れた女性は保温板の値段を尋ね、給金日まで取り置きできると聞いて何度も頭を下げている。レイモンドは壁の時計を見ながら待ち、昼の鐘が鳴る頃、ようやく小さな面談室へ通された。
部屋には、四人用の机と簡素な椅子が置かれていた。窓辺には乾かした薬草が吊され、卓上には林檎茶と、二つに切った胡桃パンがある。レイモンドは朝から何も食べていなかったため、エルナが来る前に胡桃パンを半分だけ口へ入れた。
「お待たせしました。今日は、どのようなご用でしょうか」
エルナは深い青色の商会服を着ていた。胸元の金色の紋章は以前と同じだったが、袖には土壌改良剤の粉らしい茶色い汚れが少しついている。会頭室で待たせるのではなく、小さな面談室を選んだことから、今日のレイモンドが商談相手ではないことは明らかだった。
「屋敷を失った。土地も、王宮の役職もない。爵位まで止められた」
「報告を受けています。農地は組合の共同所有となり、水車の修理も始まりました」
「私の土地を、お前が買ったのだろう」
「アフェクタ商会だけで買ったのではありません。農村組合、製粉職人組合、食料商会との共同出資です。私は領主にはなりません」
「では、私には何が残る」
「ご自分でお確かめください。私は、あなたの財産管理をする立場ではありません」
レイモンドは両手を机の下へ隠した。薪を運んだときにできた傷が掌へ残り、爪の脇には鍋の煤が入っている。エルナはその手を見ても、薬を持ってこさせることも、マルタへ湯を用意するよう命じることもしなかった。
「エルナ、やり直さないか」
「何を、でしょう」
「夫婦としてだ。私はお前の力を知らなかった。今なら、お前の仕事を認めることができる」
「商会を持っていると知ったから、認めるのですね」
「人は過ちを犯す。十五年も夫婦だったのだ。お前にも、昔の暮らしへ戻りたい気持ちが少しくらいあるだろう」
「冷めた朝食を食べ、靴を直す銅貨も持てず、母の首飾りを売られた暮らしへですか」
レイモンドは卓上の林檎茶へ手を伸ばした。カップは温かく、乾いた指先へ熱が伝わる。以前なら茶の味が薄いと文句を言っただろうが、借家で飲んでいる井戸水より香りがよく、彼は一口ずつ時間をかけて飲んだ。
「もう、あのような扱いはしない。お前に商会の仕事を続けさせる。私が対外的な交渉を担当し、お前が帳簿を管理すればよい」
「商会はすでに、私と職員たちで運営できています。あなたに担当していただく仕事はありません」
「私は王宮で財務顧問を務めた男だ。役に立たないはずがない」
「それなら、別の商会でも働けるでしょう。ご自分の能力を示して、雇ってもらえばよいのです」
「元伯爵が、平民に頭を下げて仕事を求めろというのか」
「私は伯爵夫人だった頃、誰にも知られない地下室で、傷んだ薬草を一枚ずつ選びました。最初に得たのは、傷薬三瓶分の銀貨です」
レイモンドはカップを置き、視線を窓へ向けた。向かいの建物では、洗濯女が白い布を干している。風にあおられた布の間から、昼食用の鍋を囲む職人たちの姿が見え、窓を閉めていても焼いた玉葱の匂いがかすかに漂ってきた。
「伯爵でなくなった私は、何をして生きればいい」
「それを考える時間を、私はあなたの妻だった頃に使いました」
「私を見捨てるのか」
「私を見捨てたのはあなたです。私は、自分の人生を拾い直しただけです」
「この商会には、眠っていても金が入るのだろう。少しくらい分けても、お前は困らないはずだ」
「その金は、眠っていても何もしなくてよい者のために生まれるのではありません。職人が働き、検査員が品質を守り、商店が商品を届ける仕組みによって生まれています。働こうとしないあなたへ渡すためのお金ではありません」
「元夫が飢えてもよいというのか」
「働けない事情があるなら、王都の救済制度を利用できます。しかしあなたは歩けますし、文字も読めます。帳簿を学び直すことも、荷物を運ぶことも、店で働くこともできます」
エルナは机の引き出しから小さな紙片を一枚取り出した。そこへ王都職業紹介所の住所と、受付時間を書く。さらに、読み書きのできる者を募集している倉庫、製粉所、運送商会の名前を三つ添えた。
「金貨を貸してくれないのか」
「貸しません。返済計画のない相手へ融資しないのは、商会の規則です」
「食事代だけでも」
「面談室の胡桃パンは、お持ち帰りいただいて構いません。それ以上は、ご自分で稼いでください」
エルナは残っていた胡桃パンを清潔な紙へ包み、職業紹介所の住所と一緒に机へ置いた。それは十五年間の代償でも、元夫への手切れ金でもない。今日の昼食一回分と、明日から働く場所を探すための情報にすぎなかった。
「この紙を持っていけば、仕事を紹介してもらえるのか」
「面談を受けることはできます。採用されるかどうかは、あなたの態度と能力次第です」
「私が、倉庫で荷物を運ぶことになるかもしれないのだぞ」
「最初から会頭になれる者はいません。私も、傷んだ薬草を選ぶところから始めました」
レイモンドは紙片を取った。すぐにポケットへ入れず、紹介先の名前と受付時間を何度も読む。指先で紙の端を折りかけたが、離縁状を読まずに署名した日のことを思い出したのか、今度は丁寧に二つ折りにした。
面談室を出ると、廊下には昼食の匂いが漂っていた。今日の献立は、鶏肉と根菜の煮込み、黒パン、林檎の蜜煮だった。従業員たちは食堂へ向かいながら、午後の納品や工房検査について話している。
「エルナ様、お食事の準備ができました。今日は鶏肉を残してはいけませんよ」
マルタが廊下の向こうから声をかけた。エルナは返事をし、レイモンドへもう一度だけ会釈する。夫を見送る妻としてではなく、面談を終えた一人の来客を送り出す商会主としての礼だった。
レイモンドは本店を出ると、紙包みから胡桃パンを半分取り出した。表面は少し冷えていたが、中には林檎と蜂蜜が入り、噛むと炒った胡桃の香りが広がる。残り半分を明日の朝食へ取っておこうと包み直し、外套の内側へ入れた。
その日の夕方、彼は借家へ戻らず、紙に書かれていた職業紹介所の前まで歩いた。入口には仕事を求める者が列を作り、作業着の男、子どもを連れた女性、片腕に古い傷のある元兵士が、順番を待っている。受付終了まで、あと半刻しかなかった。
列の最後へ並ぶか、そのまま帰るかを決めるのはレイモンドだった。エルナはもう、彼の襟を整えることも、書類を用意することも、進む道を選ぶこともしない。職業紹介所の扉は開いていたが、そこへ足を踏み入れるかどうかは、伯爵家の名ではなく、彼自身に委ねられていた。




