第7話 あなたが知らなかった妻
第7話 あなたが知らなかった妻
最終交渉の日、レイモンドはクロフォード家に残っていた中で最も上等な黒い上着を身につけた。襟元には銀糸の刺繍が入り、金色の釦もすべてそろっているが、袖口には小さな染みが残っていた。衣服を手入れする使用人が辞めてしまったため、彼は水でぬらした布を何度も押し当て、それでも消えない部分を手袋で隠すことにした。
朝食は、昨夜の残りの硬いパンと薄い豆のスープだった。厨房の見習いまで屋敷を去り、セシリアが雇った臨時の料理女は、給金を先に受け取れなければ肉料理を作らないと言っている。レイモンドはスープへパンを浸したが、豆には芯が残り、匙の底には焦げた玉葱が黒く沈んでいた。
「こんな朝食を出す家の主だと知られれば、商会に足元を見られる。せめて卵くらい用意できなかったのか」
「卵商への支払いが済んでおりません。今朝も使いの者が玄関へ来ておりました」
臨時の料理女は、太い腕を胸の前で組んだ。茶色いエプロンには小麦粉がつき、頭巾から赤い髪が何本もはみ出している。以前の使用人たちのようにレイモンドの機嫌をうかがう様子はなく、空になった薪籠を顎で示した。
「それから、薪も今日の昼までしか持ちません。代金をいただけなければ、私は夕食を作らずに帰ります」
「商会との契約がまとまれば、金貨二千枚が入る。帰ったら、すべて支払ってやる」
「契約がまとまらなかった場合は、どうなさるのですか」
「伯爵である私が出向くのだ。平民の商会が断れるはずがない」
レイモンドは冷めたスープを残し、席を立った。食堂の窓には夜の結露が残り、外の庭では取り込まれなかった白いシーツが、朝露を吸って重く垂れ下がっている。かつてエルナが座っていた椅子には誰もおらず、背もたれの横へ蜘蛛が細い糸を張っていた。
玄関では、セシリアが淡い黄色の部屋着を着たまま待っていた。髪は自分で結んだのか、金色の巻き髪が片側へ偏り、耳の後ろから何本も短い毛が飛び出している。胸元には赤い宝石の首飾りがあったが、その代金を請求する宝石商から、昨日三通目の督促状が届いていた。
「本当に今日、お金が入るのですわね。仕立屋が、代金を払うまで春のドレスを渡さないと申しておりますの」
「戻る頃には、すべて片づいている。アフェクタ商会は、クロフォード伯爵家と取引できることを光栄に思うだろう」
「それなら、舞踏会も開けますのね。わたくし、招待客へ中止の手紙を書くのは嫌ですわ」
「中止ではない。少し延期しただけだ。金が入れば、王都で一番大きな楽団を呼べばよい」
セシリアはようやく口元を緩めたが、見送りのため外へ出ることはなかった。玄関前には伯爵家の馬車が一台だけ残っていたものの、厩舎番がいないため、御者台には日雇いの老人が座っている。車体には泥が乾いて白い筋を作り、扉に刻まれた紋章の一部も剥がれていた。
アフェクタ商会本店へ到着すると、レイモンドは馬車の中で襟を整えた。三階建ての建物の前には、薬草や魔石を積んだ荷車が次々と止まり、制服姿の従業員が伝票を確認している。店先では職人らしい男が保温板を二枚買い、籠を抱えた女性は傷薬の値段を店員へ尋ねていた。
「伯爵家の融資交渉に来た。商会主へ、クロフォード伯爵が到着したと伝えろ」
受付にいた女性は、レイモンドの名を聞いても驚かず、予約簿を確認した。彼女の紺色の制服には皺一つなく、胸元には銀色の鍵を描いた小さな徽章がついている。客の爵位より先に予約時間を確かめる態度が気に入らず、レイモンドは手袋を外しながら机を指でたたいた。
「聞こえなかったのか。伯爵が来たのだ。いつまで入口へ立たせておく」
「ご予約は午後一時で承っております。ただいま十二時四十三分ですので、応接室でお待ちください」
「商会主が先に待つのが礼儀だろう」
「当商会では、爵位にかかわらず、予約時間に交渉を開始いたします。こちらへどうぞ」
通された応接室には、長机と六脚の椅子が置かれていた。壁際の棚にはアフェクタ商会の商品が並び、傷薬、保存石、保温板、土壌改良剤の使い方を記した冊子も置かれている。暖炉の火は十分に燃え、部屋には乾燥させた林檎と香草茶の匂いが漂っていた。
卓上には胡桃入りの焼き菓子と、湯気の立つ茶が用意されていた。レイモンドは朝食が足りなかったことを思い出し、焼き菓子を一つ取って口へ入れる。表面は軽く焼かれ、中には蜂蜜で煮た林檎が入り、屋敷でセシリアが求めていた朝食の菓子よりも香りがよかった。
「平民向けの商品で、これほど稼いだというのか」
レイモンドは棚の傷薬を手に取り、小さな瓶を光へ透かした。金箔も宝石も使われておらず、容器は簡素である。それでも店の前には客が途切れず、窓の外では商品を積んだ荷車が王都の北門へ向かっていた。
一時の鐘が鳴ると同時に、扉が開いた。最初に入ってきたのは、黒い法務官服を着たセドリックだった。続いてガストンが現れ、焼き菓子の皿を見るなり一個つまんだ。
「お待たせしました、クロフォード伯爵。本日の契約内容を確認いたします」
セドリックは革鞄から書類を取り出し、レイモンドの向かい側へ置いた。ガストンはその隣へ座ろうとしたが、何かを思い出したように椅子を引いたまま立っている。書記も席につかず、全員が入口へ目を向けた。
「商会主はまだ来ないのか。伯爵を待たせるとは、ずいぶん傲慢な人物だな」
「会頭は、すでにこちらへ向かっております」
セドリックが答えた直後、廊下から規則正しい靴音が聞こえた。扉を開けたマルタが一歩脇へ下がり、その後ろから深い青色の商会服をまとった女性が入ってくる。襟元は白く、胸には二本の金色の鍵を交差させた紋章が輝いていた。
レイモンドは、焼き菓子をつまもうとしていた手を止めた。紺色のドレスではなく、動きやすく仕立てられた商会服を着ていたが、見間違えるはずがない。十五年間、同じ食卓へ座り、同じ屋敷で暮らしていたエルナだった。
「なぜ、お前がここにいる」
「本日の交渉を担当するために参りました」
「商会主の秘書になったのか。離縁して二か月で、ずいぶん都合のよい仕事を見つけたものだな」
レイモンドは椅子へ深く座り直し、余裕を見せるように鼻で笑った。しかし、ガストンもセドリックも座らず、エルナが会頭席へ近づくのを待っている。書記まで背筋を伸ばし、胸の前で書類を抱えていた。
「会頭、こちらが本日の契約書です。クロフォード領の調査資料も、最後の頁へ添えてあります」
セドリックがエルナへ書類を差し出した。ガストンは口に入っていた焼き菓子を飲み込み、椅子を引く。エルナが会頭席へ座って初めて、ほかの者たちも一斉に着席した。
「お前が、この商会の主人だというのか」
レイモンドの声は、先ほどより低くなっていた。彼はエルナの胸元にある金色の紋章と、棚に並ぶ商品の印を何度も見比べる。二本の鍵を交差させた形は、店の看板にも荷車にも刻まれており、単なる秘書が身につけられるものではなかった。
「正確には、ガストン先生と職人たち、取引先と共に育てた商会です。私は創設者であり、現在の会頭です」
「いつからだ。離縁してから作った商会ではないのか」
「アフェクタ商会を創業したのは、十二年前です。最初の三年間は、私自身の名前で傷薬を販売しておりました」
「十二年前だと」
レイモンドは卓へ両手をつき、立ち上がった。その拍子に茶のカップが揺れ、受け皿へ褐色の雫がこぼれる。彼は布で拭こうともせず、エルナの顔を見た。
「では、あの屋敷にいた頃から、私を欺いていたのか。私の妻でありながら、陰で商売をしていたというのか」
「生活費として渡された銀貨の使い道まで監視され、持参した宝石をすべて売られたあと、自分の暮らしを守るために始めました」
「伯爵夫人が金を稼ぐ必要などなかった。私がお前を養っていた」
「生活費を止められれば、便箋一枚も買えませんでした。母から贈られた首飾りを残してほしいと頼んでも、あなたは伯爵家の物だと言って売りました。私は、明日履く靴を直すための銅貨さえ、自分で決めて使えなかったのです」
「夫婦の財産を、夫が管理するのは当然だ」
「ですから、夫婦の財産ではないものを作りました。私が学んだ技術、私が作った製品、その売上を積み上げて築いた商会です」
エルナが手を上げると、マルタが黒革の帳簿を運んできた。一冊目の表紙は擦れ、角が丸くなり、薬草の緑色の染みが残っている。二冊目、三冊目と重ねられ、最後には十五年分の記録が、レイモンドの前へ小さな壁のように積み上がった。
「最初の売上は、傷薬三瓶分でした。銀貨三枚と銅貨六枚です」
エルナは一冊目を開き、最初の頁をレイモンドへ向けた。そこには小さな字で、薬草の購入費、空き瓶の代金、マルタへ支払った販売手数料が記されている。頁の隅には林檎の蜜が落ちた茶色い染みがあり、紙は何度も開かれたため柔らかくなっていた。
「この程度の金で、今の商会を作ったというのか」
「銀貨二枚を預け、残りを次の材料費へ回しました。傷薬を十本作り、その利益で保温石の材料を買いました。売れることを確認してから少しずつ製造量を増やし、失敗した記録もすべて残しました」
「伯爵家の地下室と道具を使ったはずだ。ならば、その利益も伯爵家のものだ」
「最初に見つけた古い道具は、先代伯爵が廃棄を決めた物です。修理費と追加した材料は、私個人の生活費から支払いました。離縁状でも、結婚前からの所有物と錬金道具、技術によって作られた製品は、私個人の財産と認められています」
レイモンドは帳簿を乱暴にめくった。年を追うごとに売上は増え、傷薬だけだった商品には、保温石、保存石、土壌改良剤が加わっている。工房も一か所から三か所、八か所、二十か所以上へ増え、最新の頁には、伯爵家の一年分の収入を超える数字が一か月分として記されていた。
「あり得ない。このような数字は、いくらでも書き換えられる」
「商業監査院の印をご確認ください。各年の帳簿は監査を受け、納税も済んでおります」
セドリックが別の書類を差し出した。王国の商業監査官による署名と印章があり、アフェクタ商会が十二年間、一度も納税を遅らせていないことが証明されている。レイモンドは印章を指でこすったが、正式な浮き彫りは消えなかった。
「お前に、そのような能力があるはずがない。屋敷では、古いカーテンを繕い、食費を削っていただけではないか」
「捨てられる物の使い道を探し、必要な支出と不要な支出を分け、同じ品質を繰り返し作る。それが私の仕事の基礎になりました」
「では、なぜ私に商会のことを話さなかった」
「私は何度も、領地へ新しい産業を導入してほしいと申し上げました。薬草農園を作ること、空いている倉庫を工房へ貸すこと、廃棄される小麦の殻を土壌改良剤へ使うことも提案しました」
「そんな話は聞いていない」
「結婚七年目の春、領地会議のあとで薬草農園の計画書をお渡ししました。あなたは封も切らず、暖炉へ投げ込みました」
エルナは二冊目の帳簿から、煤で端が黒くなった紙を取り出した。燃え残った計画書を拾い、地下室で書き直した際、証拠として保管していたものである。黒い指の跡の横には、クロフォード領で栽培できる薬草と、予想される収益が細かく記されていた。
「結婚十年目には、空いていた南倉庫を工房へ貸す提案をしました。あなたは、職人の出入りで屋敷の格が下がるとおっしゃいました」
「伯爵家へ平民の職人を入れるなど、認められるわけがない」
「結婚十三年目には、水車の改良と製粉後に残る小麦の殻の再利用を提案しました。そのとき、あなたは何とおっしゃったか覚えていますか」
「昔の会話など覚えているものか」
「女は金の話をするな、とおっしゃいました」
広い応接室に、暖炉の薪がはぜる音が響いた。窓の外では雪解けの水が軒から落ち、一定の間隔で石畳をたたいている。レイモンドの前に置かれた焼き菓子は手をつけられないまま、蜂蜜が冷えて表面の艶を失っていた。
「私は話そうとしました。けれど、あなたは私が数字を口にするたびに、妻の役目を忘れるなと言いました。ですから、あなたの許可を必要としない範囲で、自分の仕事を続けました」
「それでも、お前は私の妻だった。妻の財産なら、夫である私にも権利があるはずだ」
レイモンドは椅子へ座り直し、今度はセドリックへ向き直った。自分に都合のよい法律を示すよう求める目だったが、セドリックは表情を変えず、革鞄から離縁状の原本と認証済みの写しを取り出した。羊皮紙を広げ、レイモンド自身の署名がある三つの修正条項を指し示す。
「離縁時に、あなたはエルナ・ルーカス会頭が所有する技術、製品、錬金道具、契約書、預金証書を、伯爵家の財産に含めないと承認しています」
「私は、古い道具と手紙の話だと思っていた」
「内容を確認せずに署名したことは、契約を無効にする理由にはなりません。エルナ会頭は条項を読み上げ、あなたは使用人たちの前で了承しました」
「商会を持っていると知っていたら、署名などしなかった」
「相手の財産を知っていれば離縁せず、価値がないと思ったから離縁したという事情も、法律上は考慮されません」
セドリックは離縁状の最後に押された二つの印章を示した。一つはクロフォード伯爵家の印、もう一つはエルナが実家から持ってきたルーカス家の小さな印である。レイモンドが今朝、自分で磨いた金色の釦よりも、その小さな印のほうが、エルナの財産を確実に守っていた。
「では、私には何の権利もないというのか。十五年間、屋敷で暮らさせ、食事も衣服も与えたのだぞ」
「その十五年間、エルナ会頭は伯爵家の家計と領地経営を無償で担いました。夫婦として互いに生活を支えた期間を、一方的な貸しとして扱うことはできません」
「私は伯爵だ。妻を養うのは当然だろう」
「そうお考えなら、養ったことを理由に、相手が離縁後に所有する財産まで要求することはできません」
レイモンドは何度か口を開いたが、言葉が出なかった。黒い手袋を外し、額へ浮いた汗を拭おうとすると、袖口に隠していた染みが見えた。エルナはそれに気づいたが、かつてのように洗濯係へ染み抜きを命じることも、替えの上着を用意することもなかった。
マルタが新しい茶を運び、エルナの前へ置いた。林檎と香草の匂いが立ち、冷えていた部屋の空気へ広がる。レイモンドのカップも交換しようとしたが、彼は手で払い、残っていた茶を卓へこぼした。
「茶などいらん。それより、融資の話をしろ。商会がお前のものなら、金貨二千枚くらい簡単に出せるだろう」
「融資はできません。調査の結果、クロフォード伯爵家には返済能力がないと判断しました」
「元夫が困っているのだぞ。これだけの金を持ちながら、見捨てるつもりか」
「商会のお金は、私一人の財布ではありません。職人の給金、取引先へ支払う代金、火災や不作へ備える資金です。返済の見込みがない相手へ、私情で貸すことはできません」
「私情で断っているのだろう。十五年間の仕返しをするつもりか」
「仕返しをするなら、返済できないと知りながら融資し、担保として屋敷と土地を奪うでしょう。私は、そのような契約を提示しておりません」
エルナは、前回送った再建事業の提案書を机へ置いた。水車の修理、種麦の供給、使用人への未払い給金の清算について、必要な金額と順序が記されている。資金はレイモンドへ渡さず、職人、農村組合、元使用人へ直接支払う内容だった。
「融資の代わりに、クロフォード領の再建事業へ資金を出します。ただし、領地経営権を独立した管理委員会へ移し、帳簿を全面公開していただきます」
「領地経営権を手放せだと。それでは、私が伯爵である意味がない」
「伯爵の称号は残ります。失われるのは、領民の収入を社交費へ使う自由です」
「私の金を、どう使おうと私の勝手だ」
「領地から得る金は、水車を使う農民、小麦を運ぶ者、道を直す職人が働いて生まれます。あなた一人が作った金ではありません」
その言葉は、二か月前にレイモンドがエルナへ投げつけたものと反対だった。あの日、彼は「私が稼いだ金をどう使おうと、私の自由だ」と言い、領民の水車よりセシリアの首飾りを選んだ。今、その首飾り代を支払うために借りた金の返済が、伯爵家の首を絞めている。
「条件は変えられないのか。帳簿の公開だけなら受けてもよい」
「三つの条件すべてを受けていただきます。領地経営権の移管、帳簿の全面公開、領地収入を社交費へ使わないこと。このうち一つでも拒否されるなら、再建事業は行いません」
「私に命令するつもりか」
「いいえ。選んでいただいています。受けるか、断るかを決めるのは、あなたです」
レイモンドは提案書を手に取ったが、署名欄へ目を向けることはできなかった。領地経営権を渡せば、自分が十五年間ほとんど何も管理していなかったことを認めることになる。しかし拒めば、水車は止まったままになり、金融商会への返済期限も過ぎる。
「返事は、いつまで待つ」
「五日間です。それを過ぎれば、アフェクタ商会はクロフォード家との交渉を終了します」
「たった五日だと」
「水車が止まってから、すでに二か月近くたっています。農民は春にまく種を待っています。これ以上、あなたの決断だけを待たせることはできません」
交渉が終わり、レイモンドは椅子から立ち上がった。十五年分の帳簿が並ぶ机を見下ろし、一番古い一冊へ手を伸ばしかける。だが、マルタがすぐに帳簿を引き寄せ、両腕で抱えた。
「それはアフェクタ商会の財産です。お持ち帰りいただくことはできません」
「私は、この女の夫だった」
「今は違います。それに、夫であった頃も、奥様の帳簿を床へ投げることはあっても、お読みにはなりませんでした」
マルタの灰色の髪紐が、肩の横で小さく揺れた。十五年前、傷薬三瓶を市場へ運んだ彼女は、今では商会の紋章をつけた侍女頭として、エルナの帳簿を守っている。レイモンドは彼女をにらんだが、以前のように下がれと命じても、従わせる権利はなかった。
廊下へ出ると、本店の一階から客たちの声が聞こえた。魚屋が保存石を買い、鍛冶職人が傷薬を注文し、農村組合の者が土壌改良剤の使い方を店員へ尋ねている。一人一人が支払う額は、伯爵家の夜会で使う金に比べれば小さかったが、それが毎日、王国各地からアフェクタ商会へ集まっていた。
レイモンドは階段の踊り場で足を止め、窓から裏庭を見た。荷車には地方工房へ送る原料が積まれ、従業員たちが声を掛け合いながら縄を結んでいる。誰もエルナの機嫌だけをうかがって動いておらず、それぞれが仕事の内容を理解し、自分の手で商会を動かしていた。
「エルナ」
呼ばれても、エルナはすぐには振り返らなかった。マルタへ帳簿を会頭室へ戻すよう頼み、セドリックとは契約書の修正箇所を確認している。話が終わってから廊下へ出ると、レイモンドは窓際で、手入れのされていない袖口を握っていた。
「もし私が、あのとき薬草農園を認めていたら、商会はクロフォード家のものになっていたのか」
「一緒に領地を育てることはできたでしょう。農民にも、冬のあいだ働ける場所を作れたと思います」
「それなら、なぜもっと強く言わなかった」
「計画書を暖炉へ投げられ、女は金の話をするなと言われたあと、何度言えば十分だったのでしょう」
レイモンドは答えなかった。商会の厨房から、焼きたてのパンと玉葱のスープの匂いが漂ってくる。昼食の時間になった従業員たちが食堂へ向かい、廊下ですれ違うたびにエルナへ頭を下げた。
「私は、お前を何も生み出さない女だと思っていた」
「はい。ですから、離縁状へ署名なさったのでしょう」
「商会を持っていると知っていれば、離縁しなかった」
「それは、私を妻として必要としたのではありません。商会の利益を必要としただけです」
エルナは深い青色の袖を整え、胸元の金色の紋章へ触れた。レイモンドが与えた宝石ではなく、職人と取引先の信用によって身につけることを許された印だった。彼女はもう、夫の顔色を見て声の大きさを変える必要も、許可を得るために計画書を書き直す必要もなかった。
「五日以内に、お返事をお待ちしております。どうぞお気をつけてお帰りください」
レイモンドが本店を出ると、日雇いの御者が馬車の横で硬い黒パンを食べていた。主人が戻ったことに気づき、残りを慌てて布へ包む。レイモンドはいつもなら叱っただろうが、目の前の黒パンと、先ほど食べた蜂蜜入りの焼き菓子を見比べただけで、何も言わず馬車へ乗り込んだ。
帰りの馬車では、車輪が石畳のくぼみへ入るたび、座席が大きく揺れた。膝の上には融資の拒絶通知と、領地経営権を手放すよう求める提案書が載っている。金貨二千枚を借りるつもりで出てきたはずが、手元へ残ったのは、五日以内に自分の無能を認めるか、すべてを失うかを選ぶ書類だけだった。
一方、アフェクタ商会の会頭室では、エルナが古い売上台帳を棚へ戻していた。最初の一冊を開くと、銀貨三枚と銅貨六枚から始まった数字が残り、頁の隅には林檎の蜜の染みがある。そこへマルタが玉葱のスープと焼きたてのパンを運び、机の書類を食事の邪魔にならない場所へ移した。
「エルナ様、今度こそ温かいうちに召し上がってください。今日は、何枚読むまで食事を待たせるおつもりですか」
「一枚も読みません。レイモンドとの話で、数字は十分に見ました」
「それなら、パンにはバターもつけてください。会頭が倒れても、商会は動く仕組みになりましたけれど、私たちは困ります」
エルナはパンを二つに割り、片方へバターを厚く塗った。湯気の立つスープには柔らかく煮えた玉葱と豆が入り、匙を入れると香草の匂いが広がる。十五年間、自分の力を知らなかった夫に真実を見せた日も、商会では荷車が動き、職人が働き、いつもと同じ温かい昼食が用意されていた。




