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第5話 妻を捨てた屋敷の三十日

第5話 妻を捨てた屋敷の三十日


エルナが屋敷を去った翌朝、レイモンドはいつもより遅く食堂へ入った。昨夜の葡萄酒が残っているのか、白いシャツの襟は片方だけ折れ、髪には寝癖がついている。長い食卓には、焼きたての白パン、厚切りの燻製肉、半熟卵、林檎の蜜煮が二人分並べられていたが、いつまで待っても珈琲は運ばれてこなかった。


「ボーマン、珈琲はどうした。朝食には濃い珈琲を出せと、何度言えば分かる」


呼び鈴を鳴らすと、執事のボーマンではなく、下働きの少年が水差しを抱えて入ってきた。少年は上着の釦を一つ掛け違え、慣れない銀盆を両手で支えている。水差しの底を卓へぶつけてしまい、こぼれた水が白い卓布へ広がった。


「申し訳ございません。執事は商人との話し合いで、玄関へ出ております。珈琲豆を納めていた店から、先月分の支払いが済んでいないと」


「そのようなことはエルナが払っていたはずだ」


「奥様は、もういらっしゃいません。支払日が書かれた帳面も、どれなのか分からないそうです」


「名前を口にするな。珈琲くらい、別の店から買えばよいだろう」


少年は頭を下げたが、別の店から買うためにも金が必要だとは言えなかった。レイモンドは冷たい水を一口飲み、燻製肉へナイフを入れる。肉は上等だったが塩気が強く、珈琲の代わりに飲んだ水では、口に残る脂を流せなかった。


そこへ、水色の部屋着に白い毛皮の肩掛けを羽織ったセシリアが現れた。首元には例の赤い宝石が輝き、薔薇の香油が朝食の匂いを覆うほど強く漂っている。彼女は食卓に並んだ料理を見回すと、皿へ触れず、形のよい眉を寄せた。


「焼き菓子はありませんの。わたくし、朝は蜂蜜入りの焼き菓子と温かいミルクをいただくのです」


「聞こえたか。すぐに用意させろ」


「蜂蜜は来月まで使わないよう、前の奥様が厨房へ命じておりました」


少年が答えると、セシリアは椅子へ座る前に足を止めた。エルナが昨日まで使っていた椅子には、新しい青い座布団が置かれている。セシリアは座布団の端に残っていた一本の灰色い糸をつまみ、床へ落とした。


「前の奥様の命令など、もう守らなくてよいでしょう。蜂蜜を持ってきてください」


「ですが、貯蔵庫の蜂蜜は、旦那様が開かれた晩餐会で使い切りました」


「それなら買いなさい。伯爵家なのでしょう」


レイモンドがいらだたしげに少年を追い払うと、食堂には食器が触れ合う音だけが残った。二人分の豪華な朝食は半分以上残り、昼前には冷えた肉の脂が皿へ白く固まった。一方、使用人用の食堂では、小麦が不足する可能性があるとして、薄い大麦粥だけが配られていた。


三日目になると、厨房の混乱はさらに大きくなった。料理長は、何人分の食材を注文すればよいのか判断できず、レイモンドへ献立表を持っていった。しかし彼は書類へ目を通さず、セシリアが食べたいと言った牛肉、鴨、川魚、南国の果物をすべて注文するよう命じた。


「旦那様、牛肉と鴨肉を同じ週に仕入れれば、氷室へ入りきりません。使用人のパンに使う小麦も、残り三日分です」


「肉を減らして、客へ貧しい屋敷だと思われたいのか。小麦など、領地でいくらでも採れるだろう」


「採れた小麦は粒のままです。水車を使えなければ、粉にはできません」


「修理の職人が向かったと聞いたぞ。なぜまだ直っていない」


「旦那様が、馬車を売った金を返すよう職人へ命じられたからです。その金で、セシリア様の首飾り代を支払ったと会計係から聞いております」


料理長は白い帽子を両手で握り、レイモンドの返事を待った。レイモンドは水車の修繕に金貨百二十枚もかかるのは不当だと言い、もっと安い職人を探せと命じた。領地の事情を知らない王都の職人が、雪の中を往復して安く働いてくれるはずはなかったが、料理長にはそれを説明する役目も権限もなかった。


六日目、氷室に収められた高級肉から、かすかに酸っぱい匂いが出始めた。大量の注文を受けた肉屋は予定より多く商品を運び、食べきれない分まで厨房の台へ積み上げている。料理長は塩漬けにしようとしたが、肝心の塩が残り少なく、保存石も古いものしかなかった。


「この肉は、今夜中に使わなければ捨てることになります。使用人たちにも肉料理を出してよろしいでしょうか」


「使用人へ牛肉を食べさせるつもりですの。そんなことをしたら、分をわきまえなくなりますわ」


セシリアは新しく届いた黄色のドレスを身体へ当て、鏡の前で裾の長さを確かめていた。仕立屋へ支払う金はまだ用意されていなかったが、彼女はそのことを知らされていない。料理長は傷み始めた肉と、今夜も大麦粥を食べる使用人たちを思い浮かべ、帽子を握る指へ力を込めた。


「捨てるくらいなら、食べられる者へ出したほうがよろしいかと存じます」


「口答えするのですか。レイモンド様、この者は前の奥様には従っていたのでしょう」


「エルナが甘やかしていたのだ。命令に従えないなら、料理長を替えればよい」


その夜、料理長は傷みのない部分だけを煮込み、厨房で働く者たちへ食べさせた。肉の表面を焼き、玉葱と香草を加えたため、厨房には久しぶりに温かな匂いが広がった。彼は自分の皿を空にすると、十五年間使っていた包丁を布へ包み、翌朝、退職届をボーマンへ渡した。


十日目には、給金の支払日が来た。使用人たちは会計室の前へ並んだが、扉は閉ざされ、何の説明もなかった。昼を過ぎると、洗濯係の女が濡れた手をエプロンで拭きながら、執事室へ駆け込んだ。


「ボーマン様、給金はいついただけるのでしょう。娘の薬代を、今日中に払わなければなりません」


「私にも分からない。金庫には金貨が十二枚しか残っていない。先月までは、奥様が支払日の三日前に、必要な額を封筒へ分けておられた」


「旦那様へお話しください。私どもは、ただで働いているのではありません」


「朝から三度、お部屋へ伺った。今はセシリア様と仕立屋を呼んでいるから、邪魔をするなとのことだ」


会計室の机には、請求書と領収書が積み重なっていた。珈琲の染みがついた紙、日付の書かれていない注文書、レイモンドが個人的に買った葡萄酒の代金まで、すべて同じ箱へ放り込まれている。エルナが使っていた色分け用の紐と封筒は残っていたが、何色を何の支払いに使うのか知る者はいなかった。


午後になってようやく現れたレイモンドは、使用人の給金を半分だけ支払うよう命じた。残りは来月、領地から税が入ってから渡せばよいと言い、セシリアの新しいドレスの代金だけは先に払わせた。洗濯係は半額の銀貨を受け取ると、その日の仕事を終え、娘を連れて実家へ帰った。


十二日目には厩舎番が辞め、十四日目には会計係が辞職した。料理長に続いて二人の料理人も出ていき、厨房には見習いの少年と、皿洗いの老婆だけが残された。夕食に出された豆の煮込みには硬い豆が混じり、焦げた鍋底の匂いが食堂まで漂った。


「こんな物を食べろというのですか。肉も魚も入っていないではありませんか」


セシリアは銀の匙を皿へ落とした。薄紫色のドレスには新しいレースが縫いつけられていたが、背中の釦が一つ外れかけている。侍女が二人とも給金の遅れを理由に辞めたため、朝から髪を結う者もおらず、金色の髪は左右で高さの違う形にまとめられていた。


「厨房の者は何をしている。すぐに別の料理を作らせろ」


「作る者がいないのです。見習いの少年も、明日で辞めたいと申しております」


ボーマンは食堂の入口へ立ち、疲れた声で答えた。燕尾服の袖には取れかけた釦が糸一本でぶら下がり、磨く者のいなくなった靴は白く曇っている。レイモンドは焦げた豆を一粒だけ口へ入れ、苦い顔で水を飲んだ。


「新しい使用人を雇えば済む話だ。王都で募集を出せ」


「給金の遅れる屋敷へ、熟練者は来ません。先に未払い分を清算する必要がございます」


「税が入れば払える。農民へ、予定より早く納めるよう通達しろ」


「水車が止まっているため、今年の収入は予定の半分にも届きません」


領地では、壊れた水車の周囲に雪が積もっていた。大きな羽根の一枚が傾き、凍った川へ先端が沈んでいる。修理を任されるはずだった職人は代金を返して王都へ戻り、ほかの職人も、前払いなしでは仕事を受けないと断った。


農民たちは小麦の袋を荷車へ積み、隣のハーグレイヴ領まで運ぶようになった。片道二日かかるため、干し肉と黒パンを持ち、毛布へくるまって道中の納屋で眠る。クロフォード領の製粉所へ納められるはずだった使用料は一枚も入らず、空になった建物では、風が壊れた窓を鳴らしていた。


「先月、伯爵夫人が修理代を用意したと聞いた。なぜ、旦那様は金を取り戻したんだ」


荷車を押す若い農夫が、凍った道で父親へ尋ねた。父親は古い羊毛帽子を深くかぶり、小麦袋へ雪が入らないよう縄を締め直す。二人の昼食は冷えた豆入りパンだけで、それを食べる時間さえ惜しんで歩き続けていた。


「首飾りを買ったらしい。赤い石がついた、立派な物だそうだ」


「首飾りで小麦を粉にできるのか」


「できるなら、俺たちも一度見せてもらいたいものだな」


二十日目、王宮からクロフォード家へ一通の書状が届いた。厚い羊皮紙には国王の紋章が押され、領地の税収減少と水車の停止について、監査官を派遣すると記されている。レイモンドは朝食の盆に置かれた書状を読むと、食べかけの半熟卵を殻ごと床へ落とした。


「誰が王宮へ訴えた。農民か、それともエルナか」


「監査は、税収の急減によって自動的に命じられたものです。誰かの訴えではございません」


ボーマンは床へ落ちた卵を布で拾った。掃除係が辞めてから、玄関の隅には靴から落ちた泥がたまり、廊下の窓には手の跡が残っている。以前なら、エルナが何も言わなくても担当者を割り振っていたが、今は誰が掃除をする日なのかさえ決まっていなかった。


「監査官には、冬の悪天候が原因だと説明しろ。春になれば、すべて元へ戻る」


「水車が自然に直ることはございません。修理費をご用意いただく必要があります」


「金の話ばかりするな。私は王宮の財務顧問だぞ。監査官程度なら、何とでもなる」


「その王宮から、もう一通届いております」


二通目の書状には、レイモンドが王宮で担当する事業の会計についても、見直しを行うと記されていた。領地経営さえできない者に、国の財務を任せてよいのかという疑問が出たためである。レイモンドは書状を丸めて暖炉へ投げ込んだが、火が弱く、羊皮紙は端を焦がしただけで薪の上へ残った。


二十三日目、王都の金融商会から返済通知が届いた。クロフォード家は、先代の時代から領地収入を担保に金を借りていた。これまではエルナが返済日を管理し、利息を含めた額を遅れずに支払っていたが、今月分はすでに期限を五日過ぎていた。


「金貨四百枚を、十日以内に支払えとあります。期限を過ぎれば、契約に従って追加の利息が発生します」


ボーマンは返済通知をレイモンドの前へ置いた。書斎の机には、開封されていない請求書、空になった葡萄酒の瓶、食べかけのチーズが散らばっている。チーズの端は乾いて黄色くなり、窓辺には昨日から冷めたままの茶が置かれていた。


「四百枚など、領地から入る金で払えるだろう」


「今月、領地から届いたのは金貨八十七枚です。そのうち六十枚は、種麦の購入費として残す必要があります」


「種麦は農民に買わせろ。伯爵家が用意するものではない」


「それをすれば、春に種をまけない家が出ます。来年の税収は、さらに減ります」


「では、屋敷の銀器を担保にして借りろ。王都には金融商会がいくつもある」


ボーマンは何か言いかけたが、口を閉じた。銀器の一部はすでに、セシリアの衣装代と舞踏会の準備金を得るため、別の商人へ預けられている。大広間の飾り棚には、銀の燭台の代わりに空の台座だけが並んでいた。


二十五日目になっても、セシリアが望んでいた舞踏会の招待状は発送されなかった。料理人も給仕も足りず、葡萄酒商からは未払い分を清算するまで新しい酒を届けないと断られた。さらに楽団へ支払う前金さえ用意できず、招待客へ出す料理の献立も決まっていなかった。


「レイモンド様、春になったら王宮の皆様を招いて、盛大な舞踏会を開くとおっしゃいましたわね」


セシリアは桃色の室内着をまとい、暖炉の前で指先を温めていた。薪の購入量が減らされたため、火は細く、広い居間を暖めるには足りない。テーブルには冷えた薄焼きパンと、蜂蜜の代わりに砂糖をまぶした林檎が置かれていた。


「少し延期するだけだ。監査が終われば、以前より大きな舞踏会を開く」


「新しい衣装も、仕立屋が持ち帰ってしまいました。代金が支払われていないから、渡せないと言うのです。わたくしは、婚約者として客人へ紹介されるはずだったのではありませんか」


「金のことばかり言うな。エルナと同じだな」


「前の奥様なら、衣装代を用意できたのではありませんか」


セシリアの問いに、レイモンドは眉を寄せた。彼は暖炉の火を強くするよう呼び鈴を鳴らしたが、何度鳴らしても誰も来なかった。最後には自分で薪を入れようとし、火ばさみの先を絨毯へ落として黒い焦げ跡を作った。


二十八日目、執事のボーマンが退職を申し出た。彼は未払いだった給金の代わりに、エルナから譲られた銀貨三十枚のうち、勤務日数に相当する分だけを受け取った。残りはほかの使用人へ分け、二十七年間着続けた燕尾服と、磨き直した古い靴を身につけて玄関へ立った。


「お前まで辞めるのか。執事がいなくなれば、誰が屋敷を管理する」


「新しい執事をお雇いください。私には、こちらでできることがもうございません」


「給金なら、来月には払う。それまで待てばよいだろう」


「同じ言葉を、洗濯係にも料理長にもおっしゃいました。ですが、来月支払うための金を、誰がどこから用意するのかは、一度もお考えになっておりません」


ボーマンは、玄関の鍵と会計室の鍵をレイモンドへ渡した。鍵束には小さな木札がつき、エルナの字で「玄関」「会計室」と記されている。レイモンドは鍵束を受け取ったものの、どの鍵でどの扉が開くのか確認せず、外套のポケットへ押し込んだ。


三十日目の朝、食堂には誰も食事を用意していなかった。厨房へ行くと、昨夜の鍋に冷えた豆の煮込みが少し残り、表面には薄い脂が固まっている。レイモンドは自分で温めようとしたが、薪の置き場所が分からず、結局、硬くなった黒パンを水で流し込んだ。


セシリアは髪を結わないまま厨房へ現れ、鼻を押さえた。淡い緑色のドレスの裾には埃がつき、片方の靴には泥が残っている。彼女は洗われていない皿と、床へ落ちた玉葱の皮を見回し、細い指で口元を覆った。


「前の奥様は、どのように屋敷を動かしていたのですか」


「何もしていなかった。使用人へ命令していただけだ」


「では、同じように命令なさればよいでしょう。誰に何を命じれば、朝食が出て、部屋が暖まり、舞踏会が開けるのですか」


「それを考えるのが、伯爵夫人の役目だ」


「わたくしは、まだ伯爵夫人ではありません。それに、何をすればよいのか、誰からも教わっておりませんわ」


セシリアは冷えた豆の鍋へ目を向けたが、食べようとはしなかった。玄関では金融商会の使者が扉をたたき、裏口では小麦商が未払いの代金を求めて声を上げている。厩舎では餌の届かない馬が床を蹴り、誰も取り込まなかった洗濯物が、庭の縄に凍りついていた。


レイモンドは呼び鈴をつかみ、力任せに何度も振った。澄んだ音が誰もいない廊下へ響き、しばらくして消える。エルナがしていたのは使用人へ命令することだけだったはずなのに、その命令を、いつ、誰に、何のために出せばよいのか知る者は、屋敷に一人も残っていなかった。



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