第4話 顔のない商会主
第4話 顔のない商会主
王都へ到着した日の昼、エルナはアフェクタ商会本店の二階にある食堂で、鶏肉と蕪のスープを食べていた。大きく切った蕪には鶏の脂がしみ込み、胡椒の香りが湯気と一緒に鼻へ届く。クロフォード家では冷めた料理を帳簿の横へ置くことが多かったが、今はマルタが正面の椅子に座り、エルナが匙を動かすたびに厳しい目を向けていた。
「会頭、蕪だけではなく、鶏肉も召し上がってください。こちらへ来てから、まだ一切れしか食べていません」
「その呼び方は、食事中くらいやめませんか。落ち着かないのです」
「では、エルナ様。鶏肉を残したら、午後の会議へは出しません」
「商会主を会議へ出さない侍女が、どこの世界にいるのですか」
マルタは答えず、鍋から鶏の腿肉を一切れすくってエルナの皿へ置いた。食堂の窓辺には、先ほど荷物から出した青い小鳥の絵皿が飾られている。片方の鳥の尾は欠けたままだったが、午後の日差しを受けると、古い青色が以前より明るく見えた。
本店は王都の南市場に近い三階建ての石造りで、一階が店舗と倉庫、二階が事務所と食堂、三階が従業員の休憩室になっていた。店舗では薬草と石鹸の匂いが混じり、荷車が裏口へ着くたびに木箱を運ぶ音が響いている。これまでエルナは、ガストンや雇った代理人から報告を受け、地下室で最終判断を下していたため、本店の従業員にも顔を知られていなかった。
「皆さん、会頭はどのような方だと思っているのでしょう」
食後の皿を下げながら、マルタが尋ねた。エルナは口元を布で拭き、机の端に落ちていたパン屑を指で一か所へ集める。階下から聞こえる話し声に耳を澄ませると、従業員たちが今日発表される商会主について噂していた。
「王宮を引退した大臣だと思っている者もいるそうです。外国の老富豪だと言い張る者もいました」
「以前、背丈が二メートルある筋肉質の男だと聞きました。あれはどなたが言い出したのですか」
「ガストン先生です。商談相手が怖がれば、値下げを迫られずに済むと申しておりました」
「あとで先生の髭を短く切って差し上げましょう」
午後の会議には、本店の幹部だけでなく、地方工房の代表や治療院の責任者も招かれていた。会議室には長机が三列並び、入りきれない者のために壁際へ丸椅子まで置かれている。外套から落ちた雪が床で溶け、ぬれた革靴と暖炉の煙、休憩用に用意された焼き菓子の甘い匂いが混じっていた。
エルナは濃紺の商会服へ着替え、胸元に二本の金色の鍵を交差させた徽章をつけた。伯爵夫人として夜会へ出るときのような宝石は一つも身につけていない。袖口は作業の邪魔にならない幅で仕立てられ、内側には小さな鉛筆と折りたたんだ紙を入れるためのポケットが縫いつけられていた。
「皆さん、お待たせしました。本日は、アフェクタ商会の所有者を紹介する」
壇上に立ったガストンが声を張ると、室内の話し声が止まった。代表者たちは入口を見つめ、立派な外套を着た男が入ってくるのを待っている。エルナがガストンの隣へ立っても、商会主の秘書か、帳簿係の責任者だと思ったらしく、前列の男は入口から目を離さなかった。
「紹介は、まだなのですか。午後には南門を出なければ、宿場まで着けません」
地方工房主の一人が、懐中時計を見ながら言った。四十代ほどの男で、灰色の上着の胸元には黄色い糸くずがついている。隣の女性が何度か知らせようとしたが、彼は気づかず、焼き菓子を二個目まで食べていた。
「もう壇上にいる。この方が、アフェクタ商会の創設者にして所有者、エルナ・ルーカス会頭だ」
「こちらのご婦人が、ですか」
男の手から焼き菓子の欠片が落ちた。室内のあちこちで椅子がきしみ、誰かが「伯爵夫人ではなかったか」と小声で尋ねる。エルナは長机に並んだ顔を一人ずつ見たあと、両手を身体の前で重ねた。
「昨日までは、クロフォード伯爵夫人と呼ばれておりました。本日からは、エルナ・ルーカスとして、皆さんと仕事をいたします」
「なぜ、今まで姿を見せなかったのですか。何か後ろ暗い商売をしていたからではありませんか」
前列の男が立ち上がった。声は強かったが、胸元の糸くずが呼吸に合わせて揺れているため、エルナはどうしてもそこへ目が向いた。彼が代表を務めるベネット工房は保温板を製造しており、昨年の火災で設備の半分を失ったあと、アフェクタ商会の支援で再建した工房だった。
「既婚女性が夫の許可なく商会を所有することを快く思わない者が多かったからです。商品の安全性ではなく、作った者の性別や身分だけで取引を断られることもありました。そのため、私は製品と帳簿によって信用を積み上げるまで、顔を伏せてまいりました」
「では、今は顔を出しても問題がないと?」
「昨日、離縁が成立しました。もう、私の仕事を夫の許可で測る必要はありません」
会議室が静まり返ったあと、後方の席から拍手が聞こえた。最初に手をたたいたのは、北部の治療院から来た年配の女性だった。彼女の手は薬剤で荒れ、指には細かなひびが入っていたが、その掌が鳴らす音に続いて、一人、また一人と拍手が広がった。
「エルナ会頭、顔を見せてくださったことには感謝します。ただし、私どもが知りたいのは、今後も同じ品質の商品が届くかどうかです」
女性は拍手をやめると、すぐに仕事の話へ戻った。エルナはその言葉にうなずき、マルタへ合図を送る。会議室の脇に用意されていた布が外され、四種類の商品と、品質検査に使う道具が姿を現した。
「もちろんです。まず、私たちが何を売っているのか、改めて確認いたします。アフェクタ商会は、一本でどんな病も治す高価な万能薬を作る商会ではありません」
壇上の机には、小さな傷薬の瓶、灰色の保存石、薄い板状の保温具、茶色い土壌改良剤が並んでいた。どれも宝石のようには輝かず、容器にも金箔や飾りはついていない。市場の肉屋や魚屋、洗濯屋、農家が、毎日の売上から無理なく買える値段に抑えられていた。
「こちらの傷薬は、鍛冶屋や料理人が日常で負う小さな傷や火傷に使います。保存石は、魚、肉、乳製品の傷みを遅らせます。保温板は、暖炉を一晩中燃やすことのできない家庭でも、寝床を朝まで温めるための物です」
「農地にまく、この茶色い粉は何ですか。見たところ、ただの土にしか見えませんが」
農村組合の代表が、土壌改良剤の袋を指で押した。袋の口から、乾いた草と森の土に似た匂いが漏れる。エルナは小皿へ粉を取り、黒く硬い粒と、細かく砕かれた貝殻を見せた。
「薬草の搾りかす、食用にならない豆の殻、砕けた貝殻を混ぜ、土へ養分が戻るよう処理した物です。収穫量を急に二倍にするような魔法ではありません。ただし、三年続けて使えば、痩せた畑でも収穫量が安定します」
「そんな地味な物が、本当に売れるのでしょうか」
「畑を持つ人は、一年だけ大豊作になることより、来年も家族が食べられる量を収穫できることを望んでいます。私たちが売るのは、奇跡ではなく、明日の暮らしを少し守るための道具です」
会議の休憩時間になると、マルタが薄い林檎茶と、干し葡萄入りの焼き菓子を配った。ガストンは誰よりも早く菓子を三個取り、外套のポケットへ一個隠そうとしている。エルナが無言で手を差し出すと、彼は舌打ちをして、しぶしぶ皿へ戻した。
「先生、皆さんの分がなくなります。一人二個までです」
「わしは今日、朝から会頭を紹介するという大仕事をした。三個分は働いておる」
「紹介は二分で終わりました。それに、私の身長を二メートルだと言いふらした件について、まだお話が残っています」
「それは商会主を大きく見せるための工夫だ。商売には少しくらい想像力が必要なんだぞ」
「嘘と想像力を一緒にしないでください」
休憩後、エルナは自分の机から持ってきた木箱を開いた。中には親指ほどの小さな紙片が何十枚も入っている。端が曲がったもの、紅茶の染みがついたもの、薬草の粉がこびりついたものまであり、几帳面な帳簿とは違って、紙片の向きも大きさもそろっていなかった。
「これは何でしょう。商品の注文札ですか」
ベネット工房主が尋ねた。休憩中に誰かから教えられたらしく、胸元についていた黄色い糸くずはすでになくなっている。エルナは紙片を机へ広げ、自分が書いた文字を皆に見せた。
「自分の得意なこと、苦にならないこと、人から何度も頼まれたことを書いた紙です。まだ商会を作る前、ガストン先生から書き出すよう言われました」
「私は、お前さんに商会を作れとは言っておらん。ただ、何時間も薬草を選別し続ける理由を知りたかっただけだ」
「先生は途中で眠ってしまったので、ご存じないでしょう。私は夜明けまで、百七十三枚も書きました」
紙片には、「割れた瓶の使える部分を探す」「一桁違う数字に気づく」「残り物から献立を考える」「同じ作業を飽きずに繰り返す」「人の顔と支払日を覚える」などと書かれていた。その中には「林檎を焦がさず煮る」や「マルタが髪紐をなくした場所を見つける」といった、商売に関係のなさそうなものまで混じっている。マルタは最後の一枚を見つけると、誰にも読まれないよう素早く裏返した。
「書いたものを三つに分けました。捨てられる物の使い道を見つけること、数字の乱れに気づくこと、同じ品質になるまで繰り返すこと。この三つなら、私は長く続けられると分かりました」
「最初から、錬金術師になるのが夢だったわけではないのですか」
「違います。十五年前の私は、自分に何ができるのかさえ知りませんでした。最初から大きな夢がなくても、すでに何度もしてきたことの中に、稼ぎ口の種がある場合もあります」
エルナは、各工房へ配布する新しい契約書を机へ並べた。製法を貸し出す代わりに、売上の一部を使用料として商会へ納めてもらう内容である。ただし使用料を払えば何をしてもよいわけではなく、材料の品質、作業場の衛生、製品検査について細かな規則が記されていた。
「会頭ご自身の工房で、すべて作ったほうが利益は大きいのではありませんか」
南部工房の代表が契約書を読みながら尋ねた。エルナは傷薬の瓶を手に取り、底に沈殿物がないか、光へ透かして確かめる。一人で作れば管理しやすいが、一日に作れる本数には限界があり、エルナが病気になれば製造も止まってしまう。
「私一人で百本作るより、十か所の工房が二十本ずつ作ったほうが、多くの町へ届けられます。工房は自分たちの売上を得て、商会は製法使用料と原料の供給による利益を得ます。ただし、不良品が出れば、商会の検査官が製造を止めます」
「私どもが作り方を覚えたあと、契約を破って勝手に売ったらどうしますか」
「製法を守らずに作れば、品質が落ちます。品質が落ちれば、アフェクタ商会の検査印はつきません。それでも無断で印を使った場合は、契約書に基づいて商業裁判所へ訴えます」
「ずいぶん厳しいのですね」
「傷薬を使う人は、私たちの顔を知りません。瓶についた印を信じ、自分や家族の傷へ塗ります。その信用を守ることについては、厳しくいたします」
工房主たちは隣の者と相談し、契約書の頁を何度もめくった。使用料が高すぎるという意見や、検査の回数を減らしてほしいという要望も出た。エルナはすべてを拒むのではなく、遠方の工房には検査官の旅費を商会が半分負担すること、売上が少ない最初の三か月は使用料を減らすことを、その場で決めた。
会議が終わる頃には、窓の外が薄暗くなっていた。長机には使い終えたカップ、菓子の粉、書き損じた契約書が散らばり、暖炉の脇にはぬれた外套が何枚も掛けられている。最初に異議を唱えたベネット工房主も契約書へ署名し、帰り際に保温板の新しい型について相談したいと申し出た。
「会頭、私の工房では保温板が主力ですが、春になると売上が半分以下へ落ちます。職人を休ませるしかないのでしょうか」
「同じ魔石の処理技術を使い、夏向けの保冷板を作れないか試してください。冬だけの商品を一年中作るのではなく、季節によって設備の使い道を変えましょう」
「冷たさを保つ板ですか。魚屋や乳製品店なら、買うかもしれません」
「まず三枚だけ作り、近くの魚屋へ一週間貸してください。役に立つと分かってから、製造量を増やします。売れるか確かめる前に、百枚も作ってはいけません」
ベネットは何度もうなずき、胸元を手で払ってから会議室を出ていった。黄色い糸くずはもう取れていたが、そのことを誰も教えなかったらしく、彼は外套を着たあとも同じ場所を二度払っていた。エルナはその様子を見送り、机の上に残された契約書を種類ごとにそろえた。
その夜、二階の事務室では最初の運営会議が開かれた。ガストン、マルタ、会計責任者、製造部門の代表、販売担当者が、夕食の残りの肉包みをかじりながら売上表を囲む。肉包みは冷めて皮が少し硬くなっていたが、中の玉葱には肉汁がしみ込み、噛むと胡椒の匂いが広がった。
「傷薬の売上は好調ですが、全体の四割を占めています。このままでは、より安い傷薬が出たとき、商会全体が傾きます」
エルナは売上表の傷薬の欄を指で示した。会計責任者は、売れている商品を減らす必要はないのではないかと首をかしげる。エルナは一つの商品が売れることと、その商品だけに頼ることは別だと説明した。
「傷薬の利益は維持します。ただし、その利益を傷薬だけに戻してはいけません。保存石、保温板、土壌改良剤の工房を育てます」
「取引先も増やすのですか。王都本店だけでも、十分な売上があります」
「王都で疫病や火災が起き、店を開けられなくなれば、売上は止まります。地方商店、治療院、農村組合へ、少しずつ販路を分けてください。一つの取引先の売上が、商会全体の二割を超えないようにします」
「商品の種類も、売る相手も分けるわけですね」
「はい。一本の柱が折れただけで屋根が落ちる商会にはしません」
会議が終わったあと、エルナは一人で一階の店舗へ降りた。閉店後の店内には石鹸と乾燥薬草の匂いが残り、棚には明日の販売分の傷薬が等しい間隔で並んでいる。入口の外には、二本の金色の鍵を描いた新しい看板が取りつけられていた。
これまでは、顔のない商会主が地下室から指示を出していた。明日からは客も職人も取引先も、商品を作った者の顔と名前を知ることになる。エルナは看板が傾いていないか確認し、少し右へ寄っていた店先の敷物を足で整えた。
「まだ働いていらしたのですか。温かい林檎茶をお持ちしました」
マルタが湯気の立つカップを二つ持ってきた。片方を受け取ると、蜂蜜と林檎の甘い匂いが冷えた店内へ広がる。エルナは棚の傷薬、保存石、保温板、土壌改良剤を順番に眺めてから、窓際の小さな卓へ腰を下ろした。
「今日、一日で何人と話したのでしょう。伯爵夫人だった頃の一年分より多く話した気がします」
「それなのに、夕食の肉包みは半分しか召し上がっていません。明日は私が会議へパン籠を持ち込みます」
「会議の卓が、食堂のようになりますよ」
「エルナ様が食べないよりはましです。商会主が倒れたら、その日の稼ぎが止まるのでしょう」
エルナはガストンから何度も聞かされた言葉を、今度はマルタから返され、カップへ口をつけた。熱い林檎茶が喉を通り、冷えていた指先までゆっくり温まっていく。窓の外では仕事帰りの人々が行き交い、向かいの食堂から焼いた魚と香草の匂いが流れてきた。
自分が働けば、工房で新しい製品を生み出せる。自分が工房に立てない日にも、各地の職人が安全な製法で商品を作り、それが売れるたびに商会へ収入が入る。二つの稼ぎ口は、互いを支えながら、一つの看板の下で動き始めていた。
「明日は、何から始めますか」
マルタが尋ねると、エルナは林檎茶を最後まで飲み、空になったカップを両手で包んだ。伯爵家を出たときに着ていた紺色の服には、まだ鞄の中でついた皺が残っている。それでも胸元には、誰かから借りた家名ではなく、自分で育てた商会の金色の鍵が輝いていた。
「店を開ける前に、皆で朝食を食べましょう。それから、昨日届いた土壌改良剤の品質を調べます。顔を出した以上、これまでより忙しくなりますから」
「承知しました。朝食の席には、鶏肉も用意しておきます」
エルナは小さく笑い、店内のランプを一つずつ消した。最後に残った灯りが新しい看板を照らし、二本の金色の鍵が夜の通りに浮かび上がった。翌朝から、その扉は顔のない商会主の店ではなく、エルナ・ルーカスが自分の名で経営する商会として開かれることになった。




