第3話 離縁状と四つの鞄
第3話 離縁状と四つの鞄
昼食の少し前、エルナは食堂で翌週の献立を確認していた。長い食卓の端には料理長が試しに焼いた蕪のキッシュと、皮が少し硬くなった丸パンが置かれ、窓際では洗い終えた白い布巾が暖炉の熱で乾かされている。エルナは濃紺のドレスの袖を肘まで折り、キッシュを一口食べると、帳面の余白へ「塩を一つまみ減らす」と書き込んだ。
「奥様、塩が多かったでしょうか。料理長は、昨日より減らしたと言っていたのですが」
マルタは心配そうにキッシュの切り口を見た。十五年前には青い髪紐を指へ巻きつけていた少女も、今では使用人をまとめる侍女頭になっている。それでも落ち着かないときに髪紐の端を触る癖は変わらず、今日も灰色の紐が右手の人差し指へ二重に巻かれていた。
「味はちょうどよいのです。ただ、来月から塩の仕入れ値が上がります。蕪の甘みがあるので、少し減らしても大丈夫でしょう」
「厨房のことまで、奥様がお考えになるのですね。旦那様は昨夜、料理が地味だと申しておりましたけれど、鴨肉を三皿も召し上がりました」
「三皿召し上がれたのなら、食欲に問題はありません。今夜は予定どおり、豆と鶏肉の煮込みにしてください」
食堂の扉が開き、執事のボーマンが入ってきた。いつも背筋をまっすぐ伸ばして歩く彼が、今日は扉の前で一度立ち止まり、白い手袋の指先を重ね直している。エルナはペンを置き、その顔を見ただけで、領地の支払いとは別の問題が起きたのだと悟った。
「旦那様が、大広間へお越しになるようにとのことです。使用人も全員集めるよう命じられました」
「何のためですか。来月の狩猟会なら、まだ招待状も届いていません」
「私からは申し上げることができません。ただ、セシリア・モートン男爵令嬢がお見えになっております」
マルタの指から髪紐が外れ、床へ落ちた。彼女はすぐに拾ったものの、結び直すことができず、灰色の紐をエプロンのポケットへ押し込んだ。エルナは冷めかけた紅茶を一口飲み、カップを受け皿の中央へ戻してから立ち上がった。
「分かりました。料理長には、キッシュを厨房の皆で食べるよう伝えてください。せっかく温かいうちに焼き上がったのですから」
大広間には、屋敷で働く使用人たちが二列に並ばされていた。窓の外では細かな雪が降り始め、庭師が朝に掃いた石畳を薄く覆っている。暖炉には太い薪が三本も入れられ、甘い香油と、燃える樫の木の匂いが広間の中で混じり合っていた。
レイモンドは暖炉の前に立ち、葡萄酒色の上着と新しい黒い長靴を身につけていた。その隣には、淡い水色のドレスを着たセシリアが座っている。胸元には、先日レイモンドが屋敷の会計から代金を出そうとした赤い宝石の首飾りが輝いていた。
「レイモンド様、お呼びでしょうか」
「ようやく来たか。お前はいつも、厨房や帳簿のようなつまらない物に時間をかけすぎる」
「来月分の献立を確認しておりました。それで、使用人まで集めて、どのようなお話でしょう」
「全員の前で明らかにしておくべきことだ。エルナ、私はお前と離縁する」
広間の奥で、誰かが小さく息をのんだ。窓際に立っていた若い下働きの娘は、磨いていた銀の盆を胸へ抱きしめ、料理長は白い帽子を両手でつぶしている。エルナはレイモンドではなくセシリアへ目を向けると、彼女は首飾りを指で整え、椅子の脇に置かれた焼き菓子を一つ取った。
「離縁の理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「理由なら十分にある。結婚して十五年になるというのに、お前は子を産めなかった。伯爵家の跡継ぎを残せない妻を、いつまでも置いておくことはできない」
「結婚五年目に診察を受けた医師は、私の身体には問題が見当たらないと申しました。レイモンド様にも診察を勧めましたが、お断りになりましたね」
「伯爵である私に問題があるはずがない。男を疑うなど、妻として恥ずべき態度だ」
レイモンドは早口で言い切ると、卓上の水を飲んだ。杯を置く手に力が入り、銀の台が木の卓へ硬い音を立てる。セシリアは焼き菓子を一口かじったまま手を止め、レイモンドの横顔を短く見た。
「もう一つ、お前はクロフォード家へ何の利益ももたらしていない。食事を減らし、古い家具を直し、使用人に細かな指図をするだけだ。自分では金貨一枚稼げない女を、私は十五年間も養ってやった」
「水車の修繕、領地の帳簿、商人との価格交渉、使用人の給金管理は、利益をもたらす仕事には含まれないのでしょうか」
「それは妻なら当然することだ。仕事と呼ぶほどのものではない」
「当然に行われる仕事には、価値がないとお考えなのですね」
エルナが聞き返すと、レイモンドは答えず、セシリアの肩へ手を置いた。セシリアのドレスからは薔薇の香油が強く漂い、その匂いはエルナが持参した宝石を売った日に書斎で嗅いだものとよく似ている。広間の隅では、薪が崩れて火の粉が散り、使用人たちは誰も動けないまま床を見つめていた。
「私はセシリア嬢を新しい妻として迎える。彼女は若く、明るく、伯爵夫人として客人を楽しませる術も知っている。お前のように一日中、帳簿へ鼻を近づけてはいない」
「わたくし、計算はあまり得意ではありませんけれど、夜会を開くことならできます。暗い屋敷では、お客様も寄りつきませんもの」
セシリアはそう言い、指についた焼き菓子の粉を舐めた。卓上には蜂蜜と胡桃を使った菓子が六個並んでいるが、その材料費は水車を修理した翌日にレイモンドが勝手に注文したものだった。エルナは菓子皿の下へ敷かれた白いレースに、蜂蜜の染みが丸く広がっていくのを見た。
「承知いたしました。離縁状を拝見します」
「何だと」
「書面を用意していないのですか。これだけの人数を集めたのですから、当然、条件も決めていらっしゃると思いました」
レイモンドの眉が動いた。彼はエルナが泣き、セシリアへ席を譲らないでほしいと訴えるところまで想像していたらしい。卓上に置かれていた革の書類入れを乱暴に開くと、丸めた羊皮紙を取り出し、エルナの前へ滑らせた。
「これが離縁状だ。お前には銀貨三十枚と、衣服四着を持たせる。それだけあれば、実家へ帰る旅費には十分だろう」
「私の実家は、両親が亡くなったあと、従兄が相続しています。十五年間、一度も帰っていない私を養う義務はありません」
「それは私の知ったことではない。嫌なら、修道院にでも入ればよい」
エルナは羊皮紙を広げ、最初の一行から読み始めた。紙からは新しいインクと獣皮の匂いがし、最後にはすでにレイモンドの署名が入っている。条文は七つしかなかったが、離縁後にエルナが所有できる物を極端に制限し、彼女の名義で届いた荷物まで伯爵家の財産とみなす内容になっていた。
「ペンをお借りします。三か所、書き直しが必要です」
「お前に条件を選ぶ権利はない」
「それでは署名いたしません。王国法では、双方が合意しなければ正式な離縁は成立しません。セシリア様と早く結婚なさりたいのでしたら、話を進めたほうがよろしいのではありませんか」
レイモンドは奥歯をかみしめ、机の上のペンを突き出した。エルナは条文の下へ三本の線を引き、修正内容を余白へ書き込む。使用人たちが見守る中、ペン先が紙をこする音だけが広間へ響いた。
「第一に、結婚前から私が所有していた品、ならびに私自身が習得した技術と、その技術によって作られた製品は、私個人の財産とします。第二に、私個人宛ての書簡、契約書、預かり証書を持ち出す権利を認めていただきます」
「お前宛ての書簡など、実家から届いた古い手紙くらいだろう。好きに持っていけ」
「第三に、地下室に保管してある錬金道具と材料は、私の所有物であると明記してください。十五年前から、私個人の生活費で修理と補充を続けてきた物です」
「錬金道具だと。あの埃だらけの古道具を欲しがっているのか」
「はい。お屋敷には必要のない物なのでしょう」
レイモンドは声を上げて笑い、セシリアも口元へ手を当てた。二人には、地下室にある道具が王都の工房で使われている製法の原型であり、帳面に記された技術が毎月何百枚もの金貨を生み出しているとは想像できなかった。エルナは笑いが収まるのを待ち、修正した離縁状を夫へ返した。
「そんながらくたでよければ、持っていけ。ただし、運び出す費用は自分で払え」
「承知しました。もう一つ、銀貨三十枚は必要ありません」
「強がるな。衣服四着だけで、どうやって暮らすつもりだ」
「その銀貨は、今月の使用人の給金へ加えてください。ただし、本当に加えたか、執事に確認していただきます」
執事のボーマンは一歩前へ出て、深く頭を下げた。レイモンドは銀貨三十枚程度のことで争うのが面倒になったのか、修正された条文へ署名し直す。エルナも自分の名を書き、蝋を垂らしてルーカス家から持ってきた小さな印章を押した。
「これで離縁は成立です。明日の朝、屋敷を出ていってもらう」
「分かりました。十五年間、お世話になりました」
「今さら礼儀正しくしても遅い。外の暮らしに耐えられなくなっても、戻ってこられると思うな」
「その心配はございません」
離縁状の写しを受け取ると、エルナは使用人たちへ向き直った。料理長はつぶした帽子を胸へ抱き、洗濯係の女は目元をエプロンで拭いている。マルタだけは顔を伏せず、エルナが次に何を命じるのか待っていた。
「本日の夕食は、予定どおり豆と鶏肉の煮込みにしてください。干してある布巾は、日が落ちる前に取り込んだほうがよいでしょう。夜から雪が強くなるそうです」
「奥様は、最後まで夕食のご心配をなさるのですか」
料理長が低い声で尋ねた。エルナは答えようとしたが、広間へ漂ってきた煮込みの匂いに気づき、厨房の鍋が火にかかっていることを思い出す。葱と胡椒の香りはいつもの夕食と変わらず、それがかえって、明日から自分がここにいないことをはっきりと感じさせた。
「豆は底へ沈みやすいので、時々かき混ぜてください。それから、皆さんも温かいうちに食べるのですよ」
その日の午後、エルナは寝室で荷造りを始めた。衣装棚には十五年分のドレスが並んでいたが、レイモンドの金で買った物を持ち出せば、あとから盗品だと言われる可能性がある。彼女は実家から着てきた薄桃色のドレス、袖を三度直した紺色の服、地下室で着る茶色の作業着、母の形見として残していた黒い礼服の四着だけを選んだ。
「本当に、四着だけでよろしいのですか。こちらの緑のドレスは、奥様が春の園遊会で着ていらした物です」
マルタは衣装棚から深緑色のドレスを取り出し、胸元の刺繍をなでた。エルナはその服を着た日、レイモンドから客の前では余計な話をするなと命じられ、三時間も壁際で立っていたことを思い出す。帰宅後に空腹で食べた冷たいチーズのほうが、園遊会の料理より味をよく覚えていた。
「それは伯爵家のお金で仕立てた物です。セシリア様が欲しければ、作り直して着られるでしょう」
「あの方と奥様では背丈が違います。それに、奥様の服を着るなんて」
「服に罪はありません。捨てられるより、誰かが使ったほうがよいのです」
一つ目の鞄には四着の衣服と下着を入れ、二つ目には母から届いた手紙と家族の小さな肖像画を収めた。三つ目には十五年間使った裁縫箱、欠けた青い小鳥の絵皿、いつも使っていた木の匙を入れる。四つ目には商会の帳簿、預金証書、契約書を詰めたが、書類が重いため、マルタと二人で蓋の上へ乗って留め金を閉じた。
「奥様、木の匙まで持っていくのですか。王都へ行けば、もっと立派な物が買えます」
「これは、あなたと初めて林檎の蜜煮を半分ずつ食べたときに使った匙です。銀の匙より、こちらのほうが口に合います」
「それでは、これもお持ちください。昨夜、厨房で焼いてもらいました」
マルタが差し出した包みには、胡桃入りの小さなパンが四個入っていた。まだ少し温かく、布越しにも香ばしい匂いがする。エルナは一個だけ取ろうとしたが、マルタは四個とも三つ目の鞄へ押し込んだ。
「馬車の中でお腹が空きます。奥様は帳簿を読んでいると、食事を忘れるのですから」
「それでは、ありがたくいただきます。マルタも、私と一緒に来ますか」
「もちろんです。そのために、昨日から自分の荷物もまとめています。旦那様には今朝、退職届を出しました」
「あなたには弟さんも、ご家族もいるでしょう。慣れた屋敷を離れなくてもよいのですよ」
「弟はもう学校を卒業し、私より立派な給金をもらっています。それに私は、奥様の新しい家でも、林檎の蜜煮を半分ずつ食べたいのです」
翌朝、雪はやみ、雲の切れ間から薄い光が差していた。玄関前の石段には雪かきで集められた白い山が残り、厩舎の近くから馬の息と湿った藁の匂いが流れてくる。エルナは黒い外套の下に紺色のドレスを着て、四つの鞄が運び出されるのを見守った。
使用人たちは仕事の手を止め、玄関ホールへ集まっていた。料理長は朝食用に焼いた胡椒入りの肉包みを紙へ包み、洗濯係は新しい手拭いを二枚持ってきた。庭師は冬でも枯れにくい薬草の苗を小さな鉢へ植え、馬車の中へ置くよう頼んだ。
「皆さん、これ以上いただけば、鞄が四つでは足りなくなります」
「奥様が十五年も働いたのに、四つで足りることのほうがおかしいのです」
ボーマンがそう言うと、使用人たちは黙ってうなずいた。エルナは一人ずつ名前を呼び、これまでの働きに礼を伝える。最後に厨房の少年へ、豆の袋は暖炉の近くへ置くと虫が出やすいから、必ず乾いた棚へ移すよう言い残した。
そこへ、寝間着の上へ毛皮のガウンを羽織ったレイモンドが現れた。昨夜遅くまで葡萄酒を飲んでいたらしく、髪は整えられておらず、顔からは酒と香油の匂いがした。玄関へ並んだ四つの鞄を見て、彼はあざ笑うように口元をゆがめた。
「本当に、それだけ持って出ていくのか。宝石も銀食器もない女が、外で何日暮らせるか見ものだな」
「離縁状に記されたとおり、私個人の所有物だけを持ち出します。錬金道具は、すでに運送業者へ引き渡しました」
「四つの鞄だけで、どこへ行くつもりだ」
「自分の収入で借りた、自分の家へ参ります」
「お前に収入などない。銀貨三十枚さえ意地を張って受け取らなかったではないか」
エルナは玄関の外へ一歩出たあと、振り返った。十五年間、レイモンドと話すときは、声を荒らげさせないよう視線を襟元か机の上へ落としていた。今は、寝乱れた髪も、酒で濁った目も、その奥にある空っぽの自信も、正面から見ることができた。
「あなたが知らなかっただけです」
門の外から、馬車の車輪が雪を踏む音が近づいてきた。現れたのは、クロフォード家の古い馬車ではない。磨かれた濃紺の車体には、二本の金色の鍵を交差させたアフェクタ商会の紋章が掲げられていた。
御者が馬を止めると、商会の制服を着た二人の従業員が降りてきた。彼らはレイモンドへではなく、エルナへ深く頭を下げる。続いて馬車の扉が開き、厚い外套に白い髭を埋めたガストンが顔を出した。
「会頭、お迎えに参りました。王都本店の連中が、今か今かと待っておりますぞ」
「会頭だと。誰のことを言っている」
レイモンドの声が石造りの玄関へ響いた。ガストンは答えず、紙袋から焼き栗を一つ取り出すと、歯で殻を割ろうとして顔をしかめた。エルナは慣れた手つきで栗を受け取り、殻を半分だけむいて返した。
「先生、朝から食べてばかりですね」
「年寄りは朝が早いから、昼まで腹が持たんのだ。それより、新しい家には暖炉を入れておいたぞ。お前さんの部屋も、あの地下室よりは広い」
「机と棚があれば十分です。台所には、林檎を煮る鍋がありますか」
「鍋なら三つある。マルタが五つ必要だと言って、朝から商会の者と争っていたがな」
エルナは四つの鞄を商会の従業員へ預け、馬車の前で使用人たちにもう一度頭を下げた。庭師からもらった薬草の鉢を自分の膝へ置き、マルタと並んで座る。扉が閉まる直前、屋敷の玄関に立つレイモンドの後ろで、セシリアが眠そうな顔をしながら、朝食はまだかと料理長へ尋ねる声が聞こえた。
馬車が動き出すと、車輪が雪の下の石を踏み、規則正しい音を立てた。エルナはマルタが持たせてくれた胡桃パンを半分に割り、片方をガストンへ渡す。もう片方を口へ運ぶと、焼いた胡桃の香りと、少し多めに入った塩の味がした。
「会頭、王都へ着きましたら、最初に何をなさいますか」
マルタが尋ねると、エルナは窓の外へ目を向けた。遠ざかっていく伯爵家の屋根には、昨夜の雪が厚く積もっている。十五年間暮らした部屋も、冷めた朝食を食べた食堂も、煤で黒くした地下室も、やがて木立の向こうへ隠れた。
「まず、温かいお茶を飲みます。それから、南部工房との契約書を確認しましょう。午後には、新しい傷薬の試作品も見たいです」
「引っ越した当日くらい、お休みになってはいかがですか」
「では、契約書を確認したあとで休みます」
「それは休むとは言いません。着いたら先に昼食です。私が決めました」
エルナは胡桃パンをもう一口食べ、膝の上の薬草鉢を両手で支えた。四つの鞄しかなくても、これから食べる物も、着る服も、眠る家も、自分の稼ぎで選ぶことができる。アフェクタ商会の紋章を掲げた馬車は、朝の光が差し始めた王都への道を、迷うことなく進んでいった。




