第9話 姉妹の喧嘩
王妃の部屋を出たエレノアは、そのまま父の執務室へ向かった。
歩きながら、何度も自分に問いかけていた。
父は知っていたのか。
その問いは単純だった。
けれど、答えを想像するほど、足取りは重くなった。
ローレンスは王宮に仕える立場にある。
王妃の身辺を守る役目も担っている。
当然、セレーネの秘密を知っている可能性は高い。
だが、それだけではない。
リーアがその秘密を使って、セレーネを脅していたことまで知っていたとしたら。
父は、何を思っていたのだろう。
娘のひとりが、もうひとりの娘を脅している。
しかも、その脅しの材料は、王妃の命や王家の存続にまで関わりかねない秘密だ。
ローレンスが何もせずに見過ごしていたとは、エレノアには思えなかった。
執務室の前まで来る。
扉の両脇には護衛が立っていた。
「父上に面会を」
「お待ちください」
片方の兵が扉を叩く。
しばらくして、中から低い声が返ってきた。
「入れ」
扉が開く。
ローレンスは机に向かっていた。
机の上には書類が何枚も積まれている。
いつもと変わらない姿だった。
少なくとも、エレノアにはそう見えた。
「どうした」
「少し、お聞きしたいことがあります」
ローレンスは書類から顔を上げた。
「リーアのことか」
まただった。
父は、こちらが何を聞きに来たのかを先に理解している。
エレノアは、そのことに小さな違和感を覚えた。
「はい」
「何を知りたい」
「王妃陛下のことです」
ローレンスの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、エレノアは見逃さなかった。
「……王妃がどうした」
「父上は、王妃陛下の出生についてご存じですね」
沈黙が落ちた。
ローレンスはエレノアを見つめていた。
やがて、静かに答える。
「知っている」
「リーア様も?」
「……ああ」
「では、リーア様がその秘密を使って王妃陛下を脅していたことも?」
今度は、すぐには答えなかった。
窓の外から、風に揺れる木々の音が聞こえる。
長い沈黙のあと。
「知っていた」
エレノアは息を呑んだ。
予想していた答えだった。
それでも、実際に父の口から聞くと重かった。
「いつからですか」
「かなり前からだ」
「どのくらい?」
「それを知って、何になる」
「リーアが死んだ理由を知るためです」
ローレンスの眉が動いた。
「もう一度聞きます。父上は、リーアが王妃陛下を脅していたことを知っていたんですね」
「ああ」
「何を要求していたかも?」
「すべてではない」
「では、少なくとも何度も脅していたことは?」
「知っている」
エレノアは父から目を逸らさなかった。
「なぜ、止めなかったのですか」
ローレンスは答えなかった。
それが答えのようにも思えた。
エレノアは胸の奥に湧いた苛立ちを抑えた。
「父上なら、止められたはずです」
「そう簡単な話ではない」
「なぜですか」
「お前には関係のないことだ」
「リーアは私の妹です」
思わず声が強くなる。
「そして、王妃陛下も私にとって大切な人です。二人の間で何が起きていたのかを知ることが、私に関係ないとは思いません」
ローレンスは黙っていた。
やがて椅子から立ち上がる。
「リーアは危険なことをしていた」
「分かっています」
「分かっていない」
父の声は低かった。
「お前が思っている以上に、あの秘密は重い」
エレノアは黙った。
「王妃が誰の血を引いているのか。それが公になれば、国内だけの問題では済まない」
「だから、リーアを警戒していた?」
「当然だ」
「では、父上はリーアが王妃陛下を傷つけると思っていたのですか」
「……そうだ」
その答えには迷いがなかった。
エレノアは目を細める。
「本当に?」
「何が言いたい」
「リーアは、最後の頃には王妃陛下を脅していなかったそうです」
ローレンスの表情がわずかに変わった。
「誰から聞いた」
「王妃陛下からです」
父は黙った。
「一月ほど前から、要求をしなくなったそうです」
「……」
「最後には、姉と話をしたいと言っていた」
ローレンスは窓の外へ視線を向けた。
何かを考えているようだった。
「父上は、そのことをご存じでしたか」
「知らない」
答えは早かった。
エレノアはその一言を聞き、かえって胸がざわついた。
「本当に?」
「何を疑っている」
「父上が、リーアの変化を知らなかったことをです」
「私はリーアのすべてを監視していたわけではない」
「でも、王妃陛下を守っていた」
「そうだ」
「なら、リーアが何をしているか、気にしていたはずです」
「必要な範囲ではな」
冷たい言い方だった。
けれど、その言葉の奥には強い感情があるようにも聞こえた。
エレノアは父を見つめる。
この人は、王妃を守ることを自分の使命だと思っている。
それは昔から変わらない。
だからこそ。
リーアが王妃を脅していたと知ったとき、父が何を考えたのか。
そこだけが、どうしても分からなかった。
「父上」
「なんだ」
「リーアが、王妃陛下の秘密を誰かに話すと思っていましたか」
ローレンスは答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「可能性はあった」
「リーアは、そんなことをしません」
「なぜ言い切れる」
「妹だからです」
ローレンスは、エレノアを見た。
「お前は、あの子をよく見ていない」
「見ています」
「なら、分かるはずだ」
「何がですか」
「人は、一度決めたことを簡単には変えない」
その言葉に、エレノアは眉を寄せた。
父が何を言いたいのか、すぐには分からなかった。
けれど、その言葉は妙に引っかかった。
まるで父が、リーアのことをすでに決めつけているように聞こえた。
「リーアは変わりました」
「……そう見えたのかもしれない」
「違います」
「人が変わったと判断するのは簡単だ」
ローレンスの声が少しだけ険しくなる。
「だが、誰かの命に関わることなら、信じるだけでは足りない」
エレノアは父の顔を見た。
その言葉だけなら、正しい。
あまりにも正しい。
だからこそ、胸の奥に冷たいものが残った。
「父上は、リーアを信用していなかったんですね」
「……ああ」
「最後まで?」
沈黙。
それからローレンスは答えた。
「最後までだ」
エレノアは何も言えなかった。
父はリーアを危険だと思っていた。
王妃の秘密を知り、それを使って脅していた妹。
父にとって、リーアはそういう存在だった。
ならば。
リーアが死んだことで、誰が一番安心したのだろう。
その考えが浮かんだ瞬間、エレノアは自分自身に驚いた。
父を疑っている。
自分が、父を。
「もういいか」
ローレンスが言った。
「……はい」
エレノアは立ち上がった。
扉へ向かう。
その背中に、父の声が届いた。
「エレノア」
振り返る。
「死んだ者は戻らない」
ローレンスは、まっすぐに彼女を見ていた。
「だから、余計なことを掘り返すな」
エレノアは父の目を見つめた。
そこにあるものが、悲しみなのか。
怒りなのか。
それとも別の何かなのか。
分からなかった。
「……私は、リーアが死んだ理由を知りたいんです」
それだけ言って、部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に出たエレノアは、しばらくその場から動けなかった。
父の言葉が頭の中で繰り返される。
――人は、一度決めたことを簡単には変えない。
――最後までだ。
そして。
――死んだ者は戻らない。
エレノアは目を閉じた。
父は、リーアが変わったことを知らなかった。
少なくとも、そう言った。
それでも父は、リーアを危険だと考え続けていた。
王妃の秘密を守るために。
その秘密を知るリーアを、警戒し続けていた。
エレノアはゆっくりと目を開けた。
廊下の先には、王妃の部屋がある。
その向こうには、リーアが最後に残したものがある。
そしてもうひとつ。
リーアを殺す理由を持っていた人間が、少なくともひとりいる。
エレノアは、その事実を胸の中で認めた。
父、ローレンス。
今はまだ、疑いにすぎない。
けれど。
リーアが王妃を脅していたことを、父は知っていた。
その秘密を、誰よりも重く受け止めていた。
そして、リーアが変わったことだけは知らなかった。
その組み合わせが、エレノアの中から消えなかった。




