第10話 毒
父の執務室を出たあとも、エレノアの足は重かった。
廊下を歩いている間、何度も振り返りそうになった。
けれど、振り返ったところで、閉じた扉の向こうにいる父の姿が見えるわけではない。
エレノアは前を向いた。
父を疑う。
その考えは、まだ口に出せるほど確かなものではなかった。
証拠は何もない。
ただ、父には理由がある。
それだけだった。
王妃の秘密を守るため。
リーアがその秘密を利用していたことを知っていたから。
そして、リーアが変わったことを知らなかったから。
条件だけを並べれば、疑う理由としては十分だった。
だが、それだけで人を犯人にしてはいけない。
エレノア自身が、それを一番よく分かっている。
だからこそ、別のことを考えた。
毒だ。
リーアの薬瓶の中から見つかった毒。
あれが誰かによって入れられたのなら、リーアの死は自殺ではない。
けれど、毒が見つかっただけでは、それを証明したことにはならない。
リーア自身が毒を入れた可能性も、まだ残っている。
むしろ、遺書まで残っていたのだ。
これまでのリーアを知る人間なら、自殺だったと考えても不思議ではない。
エレノアは足を止めた。
廊下の窓から、薄い光が差し込んでいる。
その光を見ながら、ふと思った。
もしリーアが自殺するつもりだったのなら。
なぜ、あんな方法を選んだのだろう。
エレノアは医務室へ向かった。
扉を開けると、昨日の医師が机に向かっていた。
「先生」
「エレノア様」
医師はすぐに立ち上がった。
「何か分かりましたか」
「少し確認したいことがあります」
「薬瓶のことですね」
「はい」
医師は棚から小さな包みを取り出した。
そこには、昨日エレノアが持ち込んだ薬瓶についての記録がまとめられていた。
「毒について、もう一度説明してください」
「分かりました」
医師は椅子に座り直した。
「検出された毒は、少量でも人体に強い作用を及ぼすものです。リーア様が服用された場合、死に至る可能性は十分にあります」
「毒は薬そのものに混ざっていたわけではない」
「はい」
「瓶の底に残っていた」
「正確には、薬を取り出したあとに瓶の底へ沈殿する形になっていました」
エレノアは眉を寄せた。
「それなら、最後に薬を飲んだときに毒が混ざった?」
「その可能性はあります」
「でも、瓶の中の薬は三週間前に処方されたものですよね」
「そうです」
「では、毒が入ったのは三週間前とは限らない」
「ええ。瓶を開ければ、あとから入れることもできます」
エレノアは黙り込んだ。
そこまでは、すでに分かっている。
問題は、その先だった。
「先生。リーア様が自殺するつもりだったとして、わざわざ薬瓶に毒を入れることはありますか」
医師は少し考えた。
「……ないとは言えません」
「普通は?」
「普通なら、もっと確実な方法を選ぶでしょう」
その答えに、エレノアは顔を上げた。
「確実な方法?」
「薬瓶の中に毒を入れた場合、飲み方によっては毒を十分に摂取できない可能性があります」
「つまり?」
「底に沈んでいるなら、瓶の中身を最後まで飲まなければ毒を飲まない可能性があります」
エレノアは薬瓶を見つめた。
小さな瓶だった。
毎日使っていた薬。
リーアは決まった量だけ薬を取り出していた。
ならば、底に沈んだ毒を意図的に飲ませるには、瓶を最後まで使わせなければならない。
「リーア様は、この薬をいつも最後まで使っていましたか?」
「それは分かりません」
「先生は、薬を処方したときの記録を持っていますか」
「あります」
医師は記録をめくった。
「一日二回。朝と夜に服用するよう指示しています」
「三週間分なら、まだ残っていてもおかしくない」
「そうですね」
「でも、瓶の中には毒があった」
「はい」
エレノアは薬瓶を見つめた。
何かが引っかかる。
けれど、まだ形にならない。
医務室を出たあと、エレノアはリーアの部屋へ向かった。
部屋には、すでに誰もいなかった。
死者が使っていた部屋というのは、不思議なものだった。
家具も、窓も、カーテンも、生きていた頃と変わらない。
けれど、そこに本人だけがいない。
エレノアは机の前に立った。
リーアは几帳面な性格ではなかった。
本は読み終わればそのまま置き、髪飾りも気に入ったものをいくつかまとめて引き出しに入れていた。
その中から、エレノアは一枚の紙を見つけた。
薬の服用について書かれた簡単なメモだった。
朝。
夕方。
就寝前。
その三つに印がついている。
エレノアは眉を寄せた。
医師から聞いた服用回数とは違う。
リーアは薬を三回飲んでいた。
いや。
正確には、三つの時間帯に分けていた。
エレノアは記憶を辿った。
リーアの侍女、マリアは何と言っていただろう。
エレノアは部屋を出た。
廊下を歩き、侍女たちの控え室へ向かう。
マリアはすぐに見つかった。
「エレノア様?」
「少し聞きたいことがあるの」
「はい」
「リーア様のお薬について」
マリアの顔に、わずかな緊張が走った。
「はい」
「リーア様は、お薬を一日に何回飲んでいましたか?」
「朝と夜です」
「本当に?」
「……はい」
マリアは少し戸惑った。
「医師からも、そのように言われていました」
エレノアは黙って彼女を見た。
部屋に残されたメモでは、三つの時間に印があった。
だが、メモが実際の服用記録だとは限らない。
単なる書き間違いかもしれない。
エレノアは別のことを尋ねた。
「最後に薬瓶を見たのは、いつ?」
「亡くなる前の夜です」
「どこで?」
「お部屋です」
「薬瓶の中身は?」
「いつもと変わりませんでした」
「どうして分かるの?」
「毎晩、薬を出していましたから」
マリアは少し考えた。
「瓶の中には、白い薬が入っていました。いつも同じです」
「そのとき、瓶を開けた?」
「はい」
「あなた以外に触った人は?」
「……分かりません」
「よく思い出して」
マリアは俯いた。
しばらくして、顔を上げる。
「一度だけ」
「誰?」
「ローレンス様がいらっしゃいました」
エレノアの心臓が、大きく鳴った。
「父が?」
「はい」
「いつ?」
「亡くなる前日の夕方です」
「何をしに?」
「王妃様のお薬を取りに来たと」
エレノアは息を詰めた。
「王妃陛下のお薬?」
「はい。薬品庫に取りに行くとおっしゃっていました」
「そのとき、リーア様の部屋には?」
「入っていません」
「薬瓶には?」
「……触っていません」
マリアは首を振った。
「私は、ローレンス様が薬品庫へ向かわれるのを見ただけです」
エレノアは何も言わなかった。
頭の中で、いくつもの出来事がつながり始めていた。
父は王妃の秘密を知っている。
リーアがその秘密を使って王妃を脅していたことも知っている。
リーアが変わったことは知らなかった。
そして、死の前日。
父は王妃の薬を取りに薬品庫へ行った。
薬瓶には、あとから毒を入れることができた。
そこまでなら、まだ偶然かもしれない。
父が本当に王妃の薬を取りに行っただけなら。
エレノアは、そこで思考を止めた。
「マリア」
「はい」
「王妃陛下のお薬は、その日に父が持って行ったの?」
「いいえ」
「……え?」
「王妃様のお薬は、私が届けました」
エレノアは目を見開いた。
「父が取りに行ったんじゃないの?」
「はい。ローレンス様は、薬品庫へ行くとおっしゃっただけです」
「そのあと?」
「私は別の用事があったので、少し遅れて薬品庫へ行きました」
「そこに父はいなかった?」
「はい」
「では、父は何をしに薬品庫へ?」
マリアは困ったように首を傾げた。
「それは……私には分かりません」
エレノアは黙った。
疑いは、まだ証拠ではない。
父が薬品庫へ行った。
そこから薬を持ち出してはいない。
それだけなら、何の証明にもならない。
けれど。
リーアの薬瓶には、誰かがあとから毒を入れた可能性がある。
そして父には、そのための時間も機会もあった。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
自殺だった可能性は、まだ消えていない。
遺書もある。
リーアには、王妃を恨む理由もあった。
それでも。
誰かが毒を入れた可能性も、同じように残っている。
そして今、その「誰か」の中に父がいる。
エレノアは顔を上げた。
まだ決めつけてはいけない。
父を犯人だとするには、足りないものが多すぎる。
ただ一つだけ、確かになったことがある。
リーアの死を、自殺だと片づけるには。
まだ早すぎる。




