第7話 消された名前
毒物だった。
医師からその言葉を聞かされてから、エレノアはしばらく何も言えなかった。
目の前の机には、リーアが使っていた薬瓶が置かれている。
小さな瓶だった。
手のひらに収まるほどの大きさしかない。
生前のリーアなら、何の気なしに手に取っていたものだろう。
朝になれば薬を飲み、夜になればまた薬を飲む。
それはリーアにとって、特別なものではなかったはずだ。
けれど、その中に毒が入っていた。
誰かが入れたのだとすれば。
誰かが、リーアの命を奪うために。
「本当に、毒なんですか」
エレノアはようやく声を出した。
「間違いありません」
医師は静かに答えた。
「少量でしたので、これだけで即座に死に至るとは限りません。しかし、リーア様の身体の状態や、他の薬との組み合わせを考えれば、十分に危険な量です」
「では……リーアは」
「毒を飲んだ可能性が高いでしょう」
その言葉に、エレノアは目を伏せた。
温室で見たリーアの姿が浮かぶ。
静かに目を閉じていた。
眠っているようにも見えた。
あのときは、ただ悲しかった。
妹が死んだ。
それだけを考えていた。
けれど今は違う。
リーアは、自分の意思で死んだのではないかもしれない。
誰かが毒を入れた薬を飲ませた。
そう考えるなら、あの遺書も別の意味を持つ。
姉を殺そうとした。
だから死んで償う。
もしそれが偽物なら。
リーアは、死んだあとまで罪を着せられたことになる。
「先生」
エレノアは顔を上げた。
「この毒は、いつ入れられたものか分かりますか?」
「そこまでは分かりません」
「薬瓶に入っていた粉は、薬と混ざっていましたか?」
「いいえ」
医師は首を振った。
「それが少し奇妙なのです」
「奇妙?」
「薬そのものに混ざっているわけではありませんでした。瓶の底に残っていたのです」
エレノアは眉を寄せた。
「では、毒だけを後から入れた?」
「その可能性はあります」
医師は薬瓶を指先で示した。
「ただ、薬を飲んでいるうちに錠剤が崩れ、その粉が底に溜まったとも考えられます」
「つまり、最初から入っていた可能性も?」
「否定できません」
エレノアは黙った。
最初から毒が入っていた。
それなら、薬を作った段階で混入したことになる。
だが、誰かが後から瓶を開けて入れたのなら。
犯人はリーアの薬瓶に触れられる人物だったことになる。
「薬は、いつ処方されたものですか?」
「少し前です」
「いつ?」
医師は記録を確認した。
「三週間ほど前ですね」
三週間。
エレノアは考えた。
リーアがセレーネを脅していた頃と重なる。
その時期から毒が入っていたのなら、殺意はもっと前からあったことになる。
だが、それならなぜ昨日までリーアは生きていたのか。
毒の量を調整していたのか。
それとも、毒はごく最近になって入れられたのか。
どちらにしても、まだ分からないことが多すぎる。
「薬を渡したのは誰ですか?」
「私ではありません」
医師は即答した。
「薬は薬品庫から出され、王族の居室へ届けられます」
「誰が?」
「その時によります。通常は担当の侍女です」
エレノアは顔を上げた。
「リーアの担当は?」
「確か……」
医師が記録をめくる。
「マリアという侍女だったはずです」
エレノアはその名前を覚えた。
「薬品庫から薬を出した記録はありますか?」
「あります」
「見せてもらえますか?」
医師は少し迷った。
しかし、やがて記録帳を取り出した。
エレノアは机の上に置かれた帳簿を覗き込んだ。
日付。
薬の名前。
数量。
担当者。
整然と並んでいる。
エレノアは一行ずつ目を追った。
三週間前。
二週間前。
一週間前。
そして、昨日。
昨日の欄には、リーアの薬が記録されている。
担当者の名前は、確かにマリアだった。
エレノアはその名前を指でなぞった。
「この人に話を聞きたいです」
「構いませんが……」
医師は言葉を濁した。
「毒が入っていたと知られれば、王宮中が騒ぎになります」
「だからこそ、今はまだ公にしないでください」
エレノアは帳簿を閉じた。
「私も、まだ誰かを犯人だと決めつけるつもりはありません」
医師は黙って頷いた。
エレノアは礼を言い、医務室を出た。
廊下へ出ると、先ほどよりも空気が冷たく感じられた。
毒だった。
その事実が、頭の中から離れない。
リーアは誰かに殺された可能性がある。
けれど、誰が。
エレノアは歩きながら考えた。
最初に浮かぶのは、セレーネだった。
リーアは姉を脅していた。
王妃の秘密を握り、それを盾にしていた。
もしリーアが秘密を明かそうとしたら。
セレーネにとっては、大きな危険になる。
ならば、リーアを消す理由はある。
けれど、エレノアはすぐにその考えを退けた。
昨日、セレーネは悲しんでいた。
妹の死を前にして、明らかに動揺していた。
もちろん、それだけで無実とは言えない。
人は悲しみながら嘘をつくこともできる。
けれど、エレノアにはもう一つ気になることがあった。
リーアは、セレーネと話すつもりだった。
脅すためではない。
もう、あんなことを続けるのは嫌だと言っていた。
それを知っているセレーネなら、リーアを殺す必要はない。
むしろ、話し合うことで脅迫から解放される可能性があった。
エレノアは立ち止まった。
ならば。
セレーネ以外に、リーアの秘密を知っている者は誰なのか。
エドワード。
そして――。
エレノアは父の顔を思い出した。
ローレンス。
父は王妃セレーネを守ることに、人一倍強い執着を持っている。
昔からそうだった。
セレーネが王妃になってからも、父は何かと彼女を気に掛けていた。
それは娘を心配する父親として、当然のことだと思っていた。
けれど。
もし父も、セレーネの秘密を知っていたのなら。
そして、リーアがその秘密を知っていることも知っていたのなら。
父にも理由はある。
エレノアは自分の考えに気づいて、すぐに嫌悪した。
「……そんなはずない」
小さく呟く。
父親を疑っている。
その事実だけで、胸が苦しくなった。
まだ何も分かっていない。
薬瓶に毒があった。
それだけだ。
父が犯人だと決まったわけではない。
セレーネが犯人だと決まったわけでもない。
侍女のマリアでさえ、薬を届けただけかもしれない。
誰にでも理由をつけることはできる。
だからこそ、エレノアは慎重にならなければならなかった。
疑いだけで人を犯人にしてはいけない。
それは、リーアが死んだ今だからこそ、なおさらだった。
エレノアは王妃付きの侍女が働く部屋へ向かった。
中へ入ると、数人の侍女が仕事をしていた。
その中に、マリアがいた。
「マリア」
エレノアが呼ぶと、若い侍女が顔を上げた。
「エレノア様」
「少し聞きたいことがあるの」
マリアの表情が硬くなる。
「リーアの薬について」
「はい」
「昨日、薬を届けた?」
「……はい」
「何時頃?」
「夕食の少し前です」
エレノアは頷いた。
「その薬瓶は、どこから受け取ったの?」
「薬品庫です」
「自分で?」
「はい」
「そのとき、誰か一緒だった?」
マリアは考えた。
「いいえ。一人でした」
「薬品庫の鍵は?」
「管理係の方から借りました」
エレノアは黙った。
「その後、リーアの部屋へ直接持っていった?」
「はい」
「誰かに渡したりは?」
「していません」
「瓶を開けた?」
「いいえ」
マリアは即答した。
「薬はそのまま届けました」
エレノアは彼女の顔を見た。
怯えている。
けれど、嘘をついているようには見えなかった。
「分かったわ。ありがとう」
マリアは頭を下げた。
エレノアは部屋を出た。
薬品庫からリーアの部屋まで。
その間に、マリアが薬瓶を開けた形跡はない。
もちろん、本人の証言だけでは証拠にならない。
だが、一つだけ分かった。
薬は、薬品庫から出されている。
つまり、そこに毒を入れることができる。
エレノアは廊下を歩きながら、先ほどの帳簿を思い返した。
薬品庫には記録が残っている。
誰が薬を取り出したのか。
いつ取り出したのか。
それを調べれば、少なくとも薬に触れられた人物を絞れる。
ただし、それには一つ問題があった。
薬を取り出したのはマリアだった。
彼女が嘘をついていないのなら、毒を入れる機会は別にある。
薬品庫の中で。
誰かがマリアより先に薬瓶へ触れていたのなら。
エレノアは足を止めた。
そのとき、後ろから声がした。
「エレノア」
振り返る。
そこに立っていたのは、ローレンスだった。
父はエレノアを見ると、静かに近づいてきた。
「まだリーアのことを調べているのか」
「はい」
「もうやめておけ」
その声は、今まで聞いたことがないほど低かった。
エレノアは父を見つめた。
「どうしてですか?」
ローレンスは答えなかった。
ただ、エレノアの顔をじっと見た。
その目に、何かを恐れているような色が浮かんでいる。
「リーアは死んだ」
「分かっています」
「ならば、もう十分だ」
「私は十分じゃありません」
エレノアは父から目を逸らさなかった。
「リーアが本当に自殺したのなら、それを確かめたいんです」
ローレンスの表情が固まった。
ほんの一瞬。
それから、父は静かに言った。
「……お前は、何を知った?」
エレノアの胸が大きく鳴った。
その言葉は、あまりにも不自然だった。
何を知ったのか。
まるで、エレノアが何かを見つけたことを知っているような。
「何も」
エレノアは答えた。
「まだ、何も分かっていません」
ローレンスはしばらくエレノアを見ていた。
やがて、視線を外した。
「そうか」
それだけ言って、父は去っていった。
エレノアはその背中を見送った。
胸の中に、先ほどとは違う疑念が残る。
父は、何を恐れているのだろう。
そして、なぜ――。
自分が何を知ったのかを、あんなにも気にしたのか。
エレノアは唇を噛んだ。
まだ証拠はない。
だから、疑うことしかできない。
けれど、その日の夜から。
エレノアの中で、リーアの死は完全に別の事件へと姿を変えていた。
妹は、自殺したのではないかもしれない。
誰かが、毒を入れた。
そして、その誰かは。
リーアが知っていた秘密を、同じように知っているのかもしれなかった。




