第6話 礼拝堂の箱
エレノアは、薬瓶を持ったまま廊下を歩いていた。
足音が妙に大きく聞こえる。
手の中にあるのは、どこにでもあるような小さな薬瓶だった。
けれど今は、それがひどく重く感じられる。
瓶の中には、リーアがいつも飲んでいた薬が残っている。
その底には、薬とは違う色の粉が付着していた。
見間違いかもしれない。
ただの汚れかもしれない。
それでも、エレノアはそれを放置する気にはなれなかった。
王宮には、薬を扱う医師がいる。
リーアの死を確認したのも、その医師だった。
ならば、まず彼に見せるべきだ。
エレノアは医務室へ向かった。
王宮の医務室は、主殿から少し離れた場所にある。
廊下を曲がるたびに、人の気配が薄くなっていく。
扉を開けると、薬草と消毒用の薬品が混ざった独特の匂いが鼻をついた。
「先生はいますか?」
中にいた若い助手が振り返った。
「エレノア様。はい。奥におります」
「少し見てほしいものがあるの」
エレノアは薬瓶を取り出した。
助手はそれを見ると、表情を変えた。
「これは……」
「リーアの薬です」
その一言で、助手の顔から血の気が引いた。
「リーア様の……」
「そう。昨日、あの人が飲んでいたものと同じです」
助手は瓶を受け取ろうと手を伸ばした。
エレノアは一瞬だけためらった。
それから、慎重に瓶を渡す。
助手は明かりの下へ持っていき、瓶を傾けた。
中に残っている錠剤を確認する。
「この薬は、何の薬ですか?」
「リーア様が以前から服用されていたものです。胃の薬と聞いています」
助手は頷いた。
「確かに、処方された薬と同じようです」
「底に付いているものは?」
エレノアが指を差す。
助手は瓶を逆さにすることなく、光にかざした。
「……何でしょうね」
それから、奥にいた医師へ声を掛けた。
「先生、少しよろしいでしょうか」
しばらくして、白髪の医師が姿を現した。
リーアの死を確認した医師だった。
エレノアは昨日の朝にも、この男を見ている。
医師は薬瓶を受け取ると、無言で眺めた。
何度か角度を変え、底に付着した粉を確認する。
「これをどこで?」
「リーアの部屋です」
「亡くなられたあとに?」
「はい」
医師はエレノアを見た。
「なぜ、これを?」
「気になるものがあったからです」
「……そうですか」
医師はそれ以上尋ねなかった。
小さな器具を取り出し、瓶の中から粉を少量だけ採取する。
それを紙の上に落とした。
白い粉の中に、ほんのわずかに灰色が混ざっている。
「これは薬そのものの残りではないですね」
医師が言った。
エレノアの胸がざわついた。
「では、何ですか?」
「まだ分かりません。調べる必要があります」
「毒の可能性は?」
医師は答える前に、粉をじっと見つめた。
「可能性だけなら、否定はできません」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアは息を止めた。
頭の中で、昨日からの出来事が一気に繋がっていく。
遺書。
温室。
姉を殺そうとしたという言葉。
そして、この薬瓶。
「調べてください」
エレノアは言った。
「お願いします」
「もちろんです。ただし、少し時間がかかります」
「どのくらいですか?」
「簡単な毒物なら、今日中には分かるでしょう」
医師は薬瓶を見つめた。
「ただ、エレノア様」
「はい」
「このことは、誰にも話さないほうがよろしいかと思います」
「どうして?」
「もし毒物だった場合、これは単なる自殺ではなくなります」
医師の声が低くなった。
「そうなれば、王宮内で大きな問題になります」
エレノアは黙った。
分かっている。
だからこそ、怖かった。
リーアは死んだ。
それだけでも十分に大きな事件だ。
けれど、もし誰かが薬に毒を入れたのなら。
リーアを殺した人間が、この王宮のどこかにいることになる。
「分かりました」
エレノアは頷いた。
「結果が出たら、私に知らせてください」
「承知しました」
エレノアは医務室を出た。
扉が閉じる。
その瞬間、肩に入っていた力が少しだけ抜けた。
まだ毒だと決まったわけではない。
医師もそう言っていた。
それなのに、エレノアの中では、すでに一つの疑念が生まれていた。
リーアは本当に自殺したのか。
もし薬の中に毒があったのなら、遺書だけでは説明がつかない。
リーア自身が毒を入れた可能性もある。
だから、まだ自殺の可能性は残っている。
けれど――。
エレノアは廊下の窓から外を見た。
庭の向こうに温室が見える。
あの場所で、リーアは死んでいた。
そして、その前には自分の部屋で薬を飲んでいた。
もし毒が入っていたのなら、毒はいつ入ったのだろう。
リーア自身が入れたのか。
それとも、誰かが入れたのか。
その違いを知るには、薬瓶を調べる必要がある。
エレノアは考えながら歩いた。
ふと、足が止まる。
リーアの部屋には、薬瓶が置かれていた。
つまり、薬を飲むためには、リーア自身がそこへ行かなければならない。
では、誰かが毒を入れるなら。
その人物は、リーアの部屋に入る必要がある。
あるいは――。
薬瓶そのものを、別の場所で手に入れた可能性もある。
エレノアは眉を寄せた。
王宮では、使用人も多い。
誰がどこへ出入りしたのか。
それをすべて把握するのは難しい。
だが、王族の居室には勝手に入れない。
リーアの部屋も同じだ。
それなら、犯人は限られてくる。
そう考えたところで、エレノアは思い出した。
薬は、王宮の医務室から直接渡されるものではない。
王族やその家族が使う薬は、専用の薬品庫で管理されている。
そして、その薬品庫を管理しているのは医師だけではない。
王妃付きの侍女や、王族の身の回りを担当する者も出入りする。
誰が鍵を持っているのか。
誰が薬を取り出したのか。
それを調べれば、何か分かるかもしれない。
エレノアは踵を返した。
向かう先は、王妃付きの侍女たちが働く部屋だった。
リーアの薬について、誰か知っている者がいるはずだ。
薬がいつ渡されたのか。
最後に誰が瓶に触れたのか。
そして、リーアが死ぬ前に誰と会っていたのか。
エレノアは一つずつ確認するつもりだった。
その途中、廊下の角から人が現れた。
エレノアは足を止める。
向こうから歩いてきたのは、父だった。
ローレンス侯爵。
王妃セレーネの父であり、エレノアとリーアの父でもある。
ローレンスはエレノアを見つけると、わずかに目を細めた。
「エレノア」
「お父様」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
父はいつもと変わらない顔をしていた。
落ち着いていて、隙がない。
けれど、エレノアにはなぜか、その表情が妙に固く見えた。
「こんなところで何をしている?」
「リーアのことを調べています」
そう答えた瞬間、ローレンスの視線がエレノアの手元へ落ちた。
ほんの一瞬だった。
エレノアは気づかなかったことにして、父を見る。
「自殺だったと聞いています」
「ああ」
「本当に、そう思いますか?」
ローレンスは答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
「死んだ者は戻らない」
静かな声だった。
「今さら何を調べても、リーアが戻ってくるわけではない」
エレノアは父の顔を見つめた。
「それでも、知りたいんです」
「何を?」
「本当に、自分で死んだのか」
ローレンスの表情がわずかに動いた。
けれど、それだけだった。
「お前は、リーアを信じたいのだな」
「……はい」
「ならば、最後まで自分で確かめるといい」
そう言って、ローレンスはエレノアの横を通り過ぎた。
その背中を、エレノアは黙って見送った。
何かがおかしい。
まだ理由は分からない。
父が何かを知っていると断定できるわけでもない。
ただ、あの短い会話の中で、父だけが一度も「自殺だ」と言わなかった。
エレノアはゆっくりと振り返った。
ローレンスの姿は、すでに廊下の向こうへ消えかけている。
その背中を見つめながら、エレノアは思った。
もし薬瓶の中に、本当に毒が入っていたのなら。
リーアの死は、昨日まで皆が信じていたものとは違う。
そしてその場合、犯人は――。
エレノアはそこで考えるのをやめた。
まだ、誰かを疑うには早い。
けれど、疑わなければならない時が来たのかもしれない。
その日の夕方。
医務室から、一人の助手がエレノアを呼びに来た。
「エレノア様。先生がお呼びです」
その顔には、緊張が浮かんでいた。
「結果が出たの?」
助手は小さく頷いた。
「はい」
エレノアは医務室へ向かった。
扉を開ける。
医師は机の前に座っていた。
その手元には、あの薬瓶が置かれている。
「分かりましたか?」
エレノアが尋ねる。
医師は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で告げた。
「この中に入っていた粉は、毒物です」
エレノアは言葉を失った。
医師は続けた。
「致死量には届かない程度ですが、薬と一緒に摂取すれば、十分に命を奪う可能性があります」
静かな医務室に、その言葉だけが残った。
エレノアは薬瓶を見つめた。
リーアが毎日使っていた薬。
その瓶の中に、毒が入っていた。
偶然とは考えにくい。
誰かが入れた。
そう考えるほうが自然だった。
そして、その瞬間から。
リーアの死は、ただの自殺ではなくなった。




