第4話 最後の会話
古い礼拝堂を出たあとも、エレノアはすぐには自分の部屋へ戻らなかった。
廊下を歩きながら、頭の中で何度も先ほど見た記録を思い返していた。
王妃セレーネには、隣国の王家に連なる血が流れている。
その事実を、国王エドワードも知っていた。
それだけなら、王妃の出生に関する秘密というだけの話だった。
けれど、リーアも知っていた。
そして、そのリーアは死んだ。
偶然だと考えるには、出来すぎている。
エレノアは歩く速度を落とした。
廊下の窓から庭が見える。
昨日までなら、そこに咲いている花の種類や、庭師が植え替えたばかりの花壇など、何気ないことに目が向いただろう。
今は何も目に入らなかった。
頭の中にあるのは、リーアのことばかりだった。
リーアは、なぜこの秘密を知ったのか。
そして、なぜセレーネにそれを隠してほしいと頼むのではなく、姉を脅したのか。
エレノアは足を止めた。
その瞬間、背後から声がした。
「エレノア様」
振り返ると、一人の侍女が立っていた。
リーア付きの侍女だった。
昨日、温室へ向かう前にも見かけた顔である。
「どうしたの?」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
侍女は周囲を気にするように視線を動かした。
エレノアは頷いた。
「場所を変えましょう」
二人は人の少ない回廊へ移った。
窓の外には、冬の終わりを告げるような薄い日差しが落ちている。
侍女はしばらく黙っていた。
何かを言おうとして、ためらっている。
「リーアのこと?」
「……はい」
エレノアは黙って続きを待った。
「昨日の夜のことでございます」
「何か思い出したの?」
「はい。正確には、思い出したというより……今まで申し上げるべきではないと思っていたことです」
侍女は両手を強く握った。
「リーア様は、以前から王妃陛下と何度か言い争っておられました」
エレノアは目を細めた。
「どんなことで?」
「それは……分かりません」
「本当に?」
侍女は困ったように首を振った。
「私には聞かせないようにされていました。ただ、何度か、王妃陛下のお名前が出ていたことは覚えています」
エレノアは考えた。
姉妹の仲が悪かったことは、誰もが知っている。
リーアがセレーネに反発していたことも、珍しい話ではない。
だから、それだけなら驚くことではない。
「他には?」
「リーア様が、王妃陛下に何かを要求していたことがあります」
「要求?」
「はい」
侍女は小さく頷いた。
「『これを知られたら、お姉様も困るでしょう』と……」
エレノアの胸がざわついた。
「リーアが、そう言ったの?」
「はい」
その言葉は、まるで鍵だった。
エレノアの中で、先ほど見た古い記録が繋がった。
王妃の秘密。
リーアが知っていた秘密。
そして、セレーネに対する要求。
リーアは姉を脅していた。
「いつ頃のこと?」
「半年ほど前だったと思います」
「何度も?」
「……何度か」
侍女は答えた。
「ですが、最近は減っていました」
「最近は?」
「はい」
その言葉に、エレノアは顔を上げた。
「どういう意味?」
「以前ほど、王妃陛下に何かを要求することがなくなったのです」
「それは、いつ頃から?」
侍女はしばらく考えた。
「一月ほど前だったと思います」
一月前。
エレノアは記憶を探った。
確かに、その頃からリーアの様子が少し変わった気がする。
以前なら、姉の話をするたびに怒りを滲ませていた。
セレーネが王妃として何かをするたびに、不満を口にしていた。
けれど最近は、その話をほとんどしなくなっていた。
エレノアはそれを、リーアが姉に飽きたのだと思っていた。
違ったのかもしれない。
「昨日は?」
「昨日ですか?」
「昨日、リーアは王妃陛下のことを何か言っていなかった?」
侍女は考え込んだ。
やがて、ゆっくりと首を振る。
「……いいえ」
「本当に?」
「はい。むしろ……」
「むしろ?」
「穏やかでした」
エレノアは黙った。
「昨日の夕方、リーア様は一人で鏡の前に座っていらっしゃいました」
侍女の声が少しだけ柔らかくなる。
「何をしていたのかと尋ねたら、『明日は姉と話すの』とおっしゃいました」
エレノアの心臓が強く鳴った。
「何と言ったの?」
「『今度こそ、ちゃんと話す』と」
昨日、自分が聞いた言葉と同じだった。
偶然ではない。
リーアは本当に、セレーネと話すつもりだった。
それも、何かを要求するためではない。
今度こそ、ちゃんと話すために。
「それから……」
侍女が言葉を濁した。
「まだ何かあるの?」
「はい」
侍女は顔を上げた。
「リーア様は、『もう、あんなことを続けるのは嫌なの』とおっしゃっていました」
エレノアは息を呑んだ。
「あんなことって?」
「分かりません」
侍女は首を振る。
「私も聞き返しました。でも、リーア様は笑って、『知らなくていいわ』と」
エレノアは目を閉じた。
これで、少なくとも一つは分かった。
リーアは以前、セレーネを脅していた。
だが、死ぬ前には、その行為をやめようとしていた。
なぜ心変わりしたのかは分からない。
何があったのかも分からない。
それでも、リーアの気持ちは変わっていた。
エレノアは侍女に礼を言った。
「話してくれてありがとう」
「いえ……」
侍女は去っていった。
一人になったエレノアは、しばらくその場に立っていた。
リーアが姉を脅していた。
その事実は重かった。
もしそれだけを知っていたなら、昨日の遺書を信じていたかもしれない。
姉を殺そうとした。
その罪に耐えられず、自ら命を絶った。
そう考えれば、筋は通る。
けれど、現実には一つだけ大きな矛盾が残っている。
リーアは、死ぬ前に変わっていた。
少なくとも、自分から脅しを続けることをやめようとしていた。
そして、姉と話そうとしていた。
エレノアは窓の外を見た。
温室が見える。
あの中で、リーアは死んだ。
花に囲まれて、静かに横たわっていた。
その姿が、今も頭から離れない。
エレノアは懐に手を入れた。
鍵が指先に触れた。
リーアが残したもの。
それが王妃の秘密だった。
けれど、あの鍵を渡したときのリーアの顔を思い出す。
あのときの彼女は、脅迫を続ける人間の顔ではなかった。
どこか疲れていて、それでも少しだけ安心したように笑っていた。
まるで、長い間抱えていたものを手放そうとしているようだった。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
ならば、別の疑問が生まれる。
リーアが脅していた相手は、王妃セレーネ。
その秘密を知っていたリーアは、昨日、その行為をやめようとしていた。
では、誰がそれを知っていたのか。
誰が、リーアを危険な存在だと考えたのか。
そして――。
誰が、リーアの変化を知らなかったのか。
その問いが浮かんだ瞬間、エレノアの背中を冷たいものが走った。
リーアの死は、秘密そのものだけでは説明できない。
秘密を知っていたこと。
姉を脅していたこと。
そして、その後に考えを変えたこと。
その全部を知る者がいるなら、話は変わる。
だが、そんな人物がいるのか。
エレノアには、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、リーアが死ぬ前に何かを決めていたということだった。
姉と話す。
今までのことを、全部そのまま話す。
そして、もう脅迫を続けない。
その決意が本物だったのなら。
リーアは、なぜ死んだのだろう。
エレノアは温室を見つめた。
答えは、まだあの中に残っている気がした。
そしてその答えを知るためには、もう一度、リーアが死んだ場所を調べなければならなかった。




