第3話 王妃
古い礼拝堂は、王宮の西側にひっそりと残っていた。
現在使われている大聖堂とは違い、そこを訪れる者はほとんどいない。
建物自体は決して小さくない。かつては王族のための礼拝堂として使われていたらしく、天井は高く、壁には古い装飾が施されている。
けれど、長い年月の中で人の出入りは減り、今では掃除をする使用人さえ少なかった。
エレノアは重い扉を押し開けた。
蝶番が低い音を立てる。
中には、冷えた空気が溜まっていた。
昼間だというのに薄暗い。
高い位置にある窓から細い光が差し込み、舞い上がった埃を照らしている。
エレノアはゆっくりと中へ入った。
足音が床に響く。
誰もいない。
そのことを確かめてから、扉を閉めた。
静かだった。
あまりにも静かで、自分の呼吸まで聞こえてくるようだった。
昨夜まで、この場所へ来る理由などなかった。
リーアが死ななければ。
あの鍵を渡されなければ。
ここへ来ることもなかっただろう。
エレノアは手の中の鍵を見つめた。
古びた金属は、朝の光を受けてもほとんど輝かなかった。
鍵穴を探す。
礼拝堂の中には、古い扉がいくつかある。
祭壇の横。
礼拝者が使っていた控え室。
奥には、かつて聖職者が使っていた小さな部屋もあった。
エレノアは一つずつ扉を確認していった。
どれも違う。
鍵穴の形が合わない。
最後に残ったのは、祭壇の裏側にある小さな扉だった。
普段なら見落としてしまいそうなほど目立たない。
木製の扉には、長い年月の間にできた傷がいくつも走っている。
その中央に、小さな鍵穴があった。
エレノアは足を止めた。
鍵を差し込む。
ぴたりと合った。
指先に力を込める。
かすかな音がした。
錠が外れた。
エレノアは扉を開けた。
中は狭い部屋だった。
窓はない。
棚が壁際に並び、古い箱や書類が積まれている。
空気はひどく乾いていた。
埃の匂いがする。
エレノアは手近な棚に近づいた。
書類の多くは、何十年も前のものらしい。
王家の財産に関する記録。
古い礼拝堂の修繕記録。
歴代の王族がここを訪れた記録。
どれも、リーアが命を懸けて残すようなものには思えなかった。
「何を探していたの……?」
エレノアは小さく呟いた。
リーアがこの場所を知っていたとは限らない。
もしかすると、鍵だけを誰かから受け取っていたのかもしれない。
それでも、リーアはこの鍵を自分に渡した。
そして、自分が死んだら開けてほしいと言った。
ならば、何か理由がある。
エレノアは棚の奥へ手を伸ばした。
一番下に、他とは違う箱があった。
古い木箱だった。
表面には王家の紋章が刻まれている。
ただし、現在使われているものとは少し形が違う。
箱には鍵が掛かっていなかった。
エレノアは慎重に蓋を開けた。
中には、何冊かの古い帳面と書類が収められていた。
一番上にあったのは、王族の出生に関する記録だった。
エレノアは紙をめくった。
名前が並んでいる。
歴代の王。
王妃。
王族の子供たち。
それぞれの生年月日と血縁関係が記されている。
だが、一冊だけ妙だった。
ページの一部が切り取られている。
正確には、名前が書かれていた部分だけが丁寧に削られていた。
エレノアは眉を寄せた。
紙そのものを破ったわけではない。
刃物か何かで、名前の部分だけを削り取っている。
その下には、かろうじて文字の跡が残っていた。
エレノアは顔を近づけた。
古い文字だった。
けれど、読むことはできる。
王家の記録にあるはずのない名前。
それは、この国ではとうに滅びた隣国の王家に連なる姓だった。
エレノアの胸がざわついた。
「……どうして?」
その名前が、なぜここにある。
なぜ削られている。
そして、なぜリーアはこれを自分に見せようとしたのか。
ページをめくる。
次の記録には、さらに奇妙なことが書かれていた。
隣国の王族が戦争によって滅亡した年。
その直後、身元不明の少女が王宮に保護されたという記録。
名前はない。
年齢だけが記されている。
そして、その後の記録は不自然なほど短かった。
少女は王宮で育てられた。
やがて一人の貴族の娘として扱われるようになった。
さらに年月が経ち、現在の王妃となった。
エレノアは息を呑んだ。
そこまで読めば、誰のことなのか分かってしまう。
セレーネ。
自分の姉だ。
エレノアは書類から目を離せなかった。
指先が震えている。
そんなはずがない。
そう思いたかった。
けれど、記録は淡々と事実だけを残している。
エレノアは最後のページをめくった。
そこには、さらに短い一文が残されていた。
――この事実は、王位継承に関わる重大な問題となるため、関係者以外への開示を禁ずる。
エレノアはしばらく動けなかった。
王妃セレーネには、誰にも知られてはならない秘密がある。
隣国の王族の血を引いている。
それだけなら、過去の話だ。
けれど、なぜ今も隠されているのか。
なぜ記録から名前を削る必要があったのか。
そして、リーアはいつ、この秘密を知ったのか。
エレノアは箱の中に残された別の書類を調べた。
そこには、王妃となったセレーネについての記録があった。
正式な出生記録とは別に作られたものらしい。
その一枚に、現在の国王エドワードの名前があった。
エレノアの目が止まる。
王は知っていた。
少なくとも、この記録を見る限りではそう考えるしかない。
セレーネが何者なのか。
どこから来たのか。
そして、その秘密を抱えたまま王妃となったことを。
エドワードは知っていた。
エレノアは書類を戻した。
頭の中で、昨日からの出来事が一つずつ繋がっていく。
リーアは、姉と話すつもりだった。
遺書には、姉を殺そうとしたと書かれている。
そして、リーアはこの鍵を自分に渡した。
ならば。
リーアが知っていたことは、これだけなのか。
エレノアは箱の底に残された一枚の紙を見つけた。
折り畳まれている。
開いてみる。
そこには、短い言葉だけが書かれていた。
――この秘密を知る者は、決して多くない。
エレノアは紙を握り締めた。
その言葉の意味を考える。
もしリーアが、この秘密を知っていたのなら。
なぜ姉を脅したのか。
なぜ昨日まで、そのことを誰にも話さなかったのか。
そして、なぜ死ぬ前に自分へ鍵を渡したのか。
答えはまだ見えない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがあった。
リーアの死は、姉妹の間だけで起きた出来事ではない。
王妃セレーネには、王宮の誰にも知られてはならない秘密がある。
そしてリーアは、その秘密を知っていた。
エレノアは古い書類を見つめた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
もし、この秘密が死の理由に繋がっているのなら。
自殺という結論を、簡単に受け入れることはできない。
エレノアは箱を閉じた。
そして、もう一度だけ鍵を見た。
リーアが最後に託したもの。
それは、姉の秘密だった。
だが、その秘密が分かっただけでは、リーアが死んだ理由にはならない。
むしろ、謎は深くなっていた。
エレノアは古い礼拝堂を出た。
外の光が、ひどく眩しく感じられた。
王妃には、誰にも言えない秘密がある。
その秘密を知っていた妹が、昨日死んだ。
そして、その妹は死ぬ前に姉と話すつもりだった。
――一体、何を話すつもりだったのだろう。
その疑問だけが、エレノアの中に残り続けていた。




