第2話 自殺
リーアが死んだ翌朝から、王宮は妙に忙しかった。
誰かが大声を上げるわけでもない。廊下を走る者もいない。使用人たちは普段と変わらない顔で仕事を続け、騎士たちはいつもと同じように決められた場所に立っている。
けれど、空気だけが違っていた。
人が一人死んだ。
しかも、それが王妃の妹だった。
その事実は、王宮にいる誰もが知っている。それでも皆、口にしようとはしなかった。
エレノアは回廊を歩きながら、昨夜のことを何度も思い返していた。
リーアの部屋。
机の上に置かれていた小さな鍵。
そして、別れ際に向けられた笑顔。
あれが最後になるなんて、考えもしなかった。
あのときのリーアは、死を決めた人間には見えなかった。
もちろん、人は外から見ただけでは分からない。
どれほど明るく振る舞っていても、胸の奥に深い絶望を抱えていることはある。
だから、エレノアも最初は自分の記憶を疑った。
自分が勝手に、姉と話すつもりだというリーアの言葉に意味を見つけようとしているだけなのかもしれない。
死ぬ前の人間が、最後に何を考えていたのか。
それを他人が正確に知ることなどできない。
それでも、どうしても引っかかっていた。
リーアは言った。
「明日、姉と話すつもりなの」
あの声には、迷いがなかった。
少なくとも、死ぬつもりの人間が口にする言葉には聞こえなかった。
エレノアは足を止め、窓の外へ目を向けた。
朝の光が王宮の庭を照らしている。
昨日までなら、いつもと変わらない穏やかな景色だった。
だが今日は違う。
庭の一角には、数人の騎士が立っている。
リーアが死んだ温室には、まだ誰も近づけないようになっているのだろう。
エレノアは視線を外した。
そのまま歩き出す。
向かった先は、王妃セレーネの居室だった。
扉の前には侍女が二人立っていた。
エレノアが近づくと、二人はすぐに姿勢を正した。
「エレノア様」
「王妃陛下にお会いしたいの」
「申し訳ございません。今は……」
侍女は言葉を濁した。
エレノアはその顔を見た。
拒まれているわけではない。
ただ、入っていいものか迷っている。
そんな表情だった。
「姉のことです」
エレノアがそう言うと、侍女は目を伏せた。
「……お通しします」
扉が開く。
部屋の中は静かだった。
窓から差し込む光は柔らかく、白いカーテンが風に揺れている。
その穏やかさが、かえって不自然に感じられた。
リーアが死んだ。
それなのに、ここには何も起きていないような静けさがある。
部屋の奥には、セレーネが座っていた。
王妃として人前に出るときとは違い、装飾の少ない服を着ている。
顔色は悪かった。
けれど、泣いている様子はなかった。
「エレノア」
「……お姉様」
セレーネはしばらく黙っていた。
姉妹の間に、長い沈黙が落ちる。
やがて、セレーネが口を開いた。
「リーアのことね」
「はい」
エレノアは椅子に座るよう勧められた。
けれど、すぐには座らなかった。
「本当に、自殺だったのでしょうか」
セレーネの指がわずかに動いた。
ほんの一瞬だった。
だが、エレノアは見逃さなかった。
「どうして、そう思うの?」
「昨日、リーアと話しました」
「……何を?」
「明日、お姉様と話すと言っていました」
セレーネの表情が変わった。
ほんの少しだけ、目が見開かれる。
そしてすぐに元へ戻った。
「そう」
「何を話すつもりだったのかは、聞いていません」
エレノアはそこで言葉を切った。
昨夜のリーアの顔を思い出す。
あのとき、リーアは何かを決めていた。
それが何なのか、エレノアには分からない。
ただ、死ぬことを決めていたようには見えなかった。
「でも、あの子は……」
セレーネが言葉を止めた。
「何ですか?」
「……何でもないわ」
そう言って、セレーネは視線を落とした。
その横顔は、王宮で見る王妃の顔とは違っていた。
強く、冷静で、何があっても揺るがない王妃ではない。
一人の姉の顔だった。
妹を失った姉。
そのことだけは、エレノアにも分かった。
「遺書には、私を殺そうとしたと書かれていました」
「ええ」
「リーアが、そんなことを言っていましたか?」
セレーネは答えなかった。
沈黙が答えのようにも思えた。
「お姉様?」
「……あの子には、私に言えないことがあったのです」
静かな声だった。
エレノアは息を止めた。
「言えないこと?」
「ええ」
「それは、何ですか?」
セレーネはしばらく窓の外を見つめていた。
やがて、小さく首を振る。
「今は、話せません」
拒絶された。
そう感じる言葉だった。
けれど、その声には怒りがなかった。
むしろ、何かを恐れているように聞こえた。
「……分かりました」
エレノアはそれ以上、尋ねなかった。
セレーネにも話せない事情がある。
そのことだけを、心に留める。
部屋を出ようとしたときだった。
「エレノア」
呼び止められて、エレノアは振り返った。
セレーネは椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「リーアのことで、何か分かったことがあったら……私にも教えて」
「もちろんです」
そう答えてから、エレノアは扉の外へ出た。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、エレノアは小さく息を吐いた。
分からないことが増えた。
リーアには、セレーネに言えないことがあった。
そしてセレーネにも、リーアに関して隠していることがある。
それだけなら、姉妹の間に何か複雑な事情があったというだけの話だ。
問題は、リーアが死ぬ前に何をしようとしていたのかだった。
エレノアは歩きながら、昨日の会話をもう一度思い返した。
――明日、姉と話すつもりなの。
あの言葉が、頭から離れない。
そして、もう一つ。
リーアから渡された鍵。
エレノアは懐に手を入れた。
指先に、小さな金属の感触が触れる。
冷たい鍵だった。
昨日の夜、リーアはこれをエレノアに渡した。
理由は言わなかった。
ただ、
――もし私に何かあったら、これを開けて。
そう言った。
あのときは、ただの冗談だと思った。
姉との話し合いがうまくいかなかったときのために、何かを残しておきたいのだろう、と。
けれど今となっては、その言葉の意味が変わってしまっている。
エレノアは立ち止まった。
鍵を取り出し、手のひらの上に載せる。
古びた鍵だった。
小さく、細い。
普通の部屋の扉に使われるようなものではない。
表面には、細かな傷がいくつもある。
そして柄の部分には、見覚えのない紋章が刻まれていた。
王家の紋章ではない。
少なくとも、エレノアが知っている現在の王家のものとは違う。
「……何の鍵なの」
誰に聞くでもなく、呟いた。
返事はない。
エレノアは鍵を握り直した。
リーアは、これを自分に渡した。
自分が死んだあとに開けるように。
それなら、この鍵が開けるものの中には、リーアが最後に残した何かがある。
そう考えるのが自然だった。
エレノアは歩き出した。
向かう先は決まっていた。
王宮には、古い建物が一つ残っている。
今ではほとんど使われていない、小さな礼拝堂。
昔、王族が祈りを捧げるために使っていた場所だ。
エレノアは幼い頃、そこで一度だけ古い記録庫を見たことがあった。
鍵が合うかどうかは分からない。
何があるのかも分からない。
それでも、行くしかなかった。
リーアが最後に自分へ託したものなら、確かめなければならない。
姉と話すはずだった妹が、なぜ死んだのか。
その答えに近づくために。
エレノアは、古い礼拝堂へ向かった。




