第1話 王宮で、王妃の妹が死んだ
王宮の夜は、いつもより静かだった。
晩餐会が終わったのは、日付が変わる少し前だった。
大広間ではまだ楽師たちが片づけを続けている。長い食卓には使い終えた銀器が並び、蝋燭の炎が細く揺れていた。酔いの回った貴族たちが、帰り際に小声で言葉を交わしている。
そのざわめきを背に、エレノア・ヴァレンティアは廊下を歩いていた。
侯爵令嬢として何度も足を運んだ王宮だったが、夜の廊下は昼間とはまるで違って見える。
窓の外には黒い庭園が広がっていた。
月明かりに照らされた噴水が、白い石の上でぼんやりと光っている。
エレノアは足を止めた。
「エレノア」
呼ばれて振り返る。
柱の陰から、ひとりの女性が歩いてきた。
淡い金色の髪を肩から背中へ流し、深い青のドレスを身につけている。
セレーネ王妃の妹、リーア・アステルだった。
「こんなところにいたのね」
「リーア様こそ」
「少し疲れたの。人の多い場所は苦手だから」
そう言って、リーアは小さく笑った。
いつもの彼女なら、ここで皮肉の一つでも口にするところだった。
王妃である姉のことを話題に出して、誰かが困るようなことを平然と言う。
それがリーアだった。
少なくとも、エレノアの知るリーアはそういう女性だった。
セレーネと仲が悪い。
それは王宮にいる者なら、誰でも知っている。
姉が王妃になってから、二人の関係は急速に悪くなったという。
公の場では姉妹として振る舞っていても、二人きりになると口論になる。
そんな噂も珍しくなかった。
だからこそ、今夜のリーアは少し変だった。
「今日は静かですね」
エレノアがそう言うと、リーアは窓の外へ視線を向けた。
「そうね」
「何かありましたか?」
「何か?」
「いつもより機嫌がよさそうなので」
リーアは目を細めた。
「私、そんなに機嫌が悪そうに見える?」
「普段よりは」
「正直ね」
「よく言われます」
リーアが笑う。
ほんの短い笑いだった。
けれど、その表情を見たエレノアは、なぜか少しだけ安心した。
今夜のリーアには、いつもの刺々しさがなかった。
疲れているようにも見えた。
それでも、何かを決めた人間の顔をしていた。
「明日ね」
リーアが言った。
「はい」
「姉と話すつもりなの」
エレノアは瞬きをした。
「王妃陛下と?」
「ええ」
リーアは窓の外を見たまま答えた。
「ちゃんと話すのは、久しぶりかもしれないわ」
その言葉に、エレノアは少し驚いた。
「仲直りをするんですか?」
「さあ」
リーアはすぐには答えなかった。
しばらくしてから、静かに続ける。
「今までのことを、全部そのまま話そうと思っているの」
「今までのこと?」
「私がしたことも。姉がしたことも」
エレノアは黙った。
姉妹の間に何があったのか。
詳しいことを知っているわけではない。
ただ、リーアがセレーネを快く思っていないことだけは知っている。
以前、リーアが姉に向かって怒鳴っているところを見たこともある。
そのときの顔は、今とはまるで違っていた。
「……大丈夫ですか?」
エレノアが尋ねると、リーアは少しだけ首を傾けた。
「何が?」
「王妃陛下と話すことです」
「怖いわよ」
意外な答えだった。
「でも、いつまでも逃げているわけにもいかないでしょう」
リーアはそう言って、ドレスの袖に手を入れた。
取り出したのは、小さな鍵だった。
古びた銀色の鍵。
手のひらに収まるほどの大きさで、持ち手の部分には見慣れない紋章が刻まれている。
「これを預かって」
「私が?」
「ええ」
リーアは鍵をエレノアの手のひらへ置いた。
ひやりとした金属の感触が残った。
「何の鍵ですか?」
「それは、今は言えないわ」
「では、なぜ私に?」
「もし私に何かあったら」
リーアはそこで言葉を切った。
エレノアは顔を上げた。
「……何か?」
「何でもないわ」
「今、何かあったらと言いましたよね」
「言ったかしら」
「言いました」
リーアは困ったように笑った。
「あなたは本当に細かいところを覚えているのね」
「そういう性格なので」
「知ってる」
リーアは鍵から手を離した。
「もし私に何かあったら、それを使って」
「何を開けるんですか?」
「古いものよ」
「それでは分かりません」
「分からなくてもいいの。必要になれば分かるから」
あまりにも曖昧な答えだった。
エレノアは鍵を見つめた。
持ち手に刻まれた紋章は、王家の紋章とは少し違っている。
古い時代のものなのだろうか。
「リーア様」
「何?」
「本当に、明日王妃陛下と話すんですか?」
「ええ」
今度の返事には迷いがなかった。
「明日になったら、ちゃんと話す」
リーアはそう言った。
そして、少しだけ笑った。
「だから今日は、もう帰るわ」
その言葉を最後に、リーアはエレノアの横を通り過ぎた。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
「エレノア」
「はい」
「この鍵のこと、誰にも言わないで」
「分かりました」
「ありがとう」
リーアは今度こそ歩き去った。
廊下の角を曲がり、その姿が見えなくなる。
エレノアはしばらくその場に立っていた。
手の中には、冷たい鍵が残っている。
何のための鍵なのか。
なぜ自分に渡したのか。
そして、なぜリーアはあんな言い方をしたのか。
考えてみても、答えは出なかった。
ただ一つだけ、妙なことがあった。
リーアの顔には、死を覚悟した人間の悲壮感がなかった。
むしろ逆だった。
明日のことを考えていた。
明日、姉と話す。
そう言ったときのリーアは、これまで見たことがないほど真剣だった。
エレノアは鍵を握りしめた。
その夜、彼女はそれ以上深く考えなかった。
翌朝になれば、またリーアに会えると思っていたからだ。
*
翌朝。
王宮の鐘が八時を告げるより早く、廊下を走る足音が響いた。
慌ただしい足音だった。
一人ではない。
何人もの人間が、同じ方向へ向かっている。
エレノアが自室を出たときには、すでに廊下の先に人だかりができていた。
「何があったの?」
近くにいた侍女へ声をかける。
侍女は青ざめた顔でエレノアを振り返った。
「リーア様が……」
それ以上、言葉が続かない。
「リーア様が?」
「温室で……」
エレノアは嫌な予感を覚えた。
「案内して」
「ですが……」
「早く」
侍女は怯えたように頷いた。
二人は廊下を急いだ。
王宮の東側にある温室は、王族や一部の側近しか立ち入らない場所だった。
冬でも花を咲かせられるよう、特殊な魔法具によって温度が保たれている。
大きなガラス窓から朝日が差し込み、色とりどりの花が並ぶ場所だ。
昨日までなら、穏やかな場所だった。
今は違った。
温室の入り口には兵士が立っていた。
その向こうに、数人の侍女と医師がいる。
そして。
花壇のそばに、人が倒れていた。
エレノアの足が止まった。
「……リーア様?」
返事はなかった。
淡い色のドレス。
肩から流れた髪。
昨日と同じ姿だった。
ただし、昨日まで動いていた身体は、もう動かなかった。
医師が立ち上がる。
「お下がりください」
「リーア様は?」
「……お亡くなりになっています」
その言葉が、妙に遠く聞こえた。
エレノアは何も言えなかった。
昨夜。
リーアは笑っていた。
明日、姉と話すと言っていた。
エレノアに鍵を渡した。
そして、自分から歩いて帰っていった。
それなのに。
今はもう、目の前で横たわっている。
「死因は?」
誰かが尋ねた。
医師は首を横に振った。
「現時点では断定できません。ただ、外傷は見当たりません」
エレノアはリーアの周囲を見た。
倒れた椅子。
花壇。
床に落ちた小さな杯。
そして、その少し離れた場所に一枚の紙が置かれている。
「それは……?」
エレノアが指差す。
兵士が答えた。
「遺書です」
遺書。
その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。
医師も、侍女も、兵士も、互いに視線を交わした。
自殺。
誰も口にはしなかった。
けれど、全員がそう考え始めているのが分かった。
エレノアは紙を見つめた。
やがて、許可を得てそれを手に取る。
そこには、短い文章が書かれていた。
震えたような文字。
けれど、読めないほど乱れてはいない。
エレノアは一行目を読んだ。
そして、息を止めた。
紙には、こう書かれていた。
――私は姉を殺そうとした。
その続きを読む。
――だから、死んで償います。
エレノアの指が止まった。
昨日のリーアの顔が、頭に浮かんだ。
明日、姉と話す。
今までのことを、全部そのまま話す。
そのために鍵まで渡した。
エレノアはもう一度、遺書へ目を落とした。
そして、ある一つの言葉に気づいた。
そこには、
**「王妃陛下」**
と書かれていた。
エレノアはゆっくりと顔を上げた。
そんな呼び方を、リーアがするはずがない。
少なくとも、こんな文章を書くときに。
姉妹として育った二人の間で、リーアが姉をそう呼ぶことはなかった。
王妃になったあとでさえ、リーアは人前でなければセレーネを名前で呼んでいた。
昨日もそうだった。
――姉と話す。
あの人は、姉を「王妃陛下」と呼ばなかった。
エレノアは遺書を握ったまま、動かなかった。
自殺なのだろうか。
周囲がそう判断するのは分かる。
リーアには、姉を恨む理由があった。
姉妹の間に何かがあったことも、誰もが知っている。
けれど。
昨夜、リーアは言った。
明日、姉と話す、と。
エレノアは手の中の鍵を思い出した。
冷たい銀の感触が、まだ残っているような気がした。
リーアは何かを残した。
何かを伝えようとしていた。
それなのに、遺書にはリーアらしくない言葉が並んでいる。
エレノアは遺書から目を離さなかった。
やがて、胸の奥で小さな疑問が形を持つ。
――本当に、これをリーアが書いたのだろうか。




