第35話 王妃の妹
それから数日が過ぎた。
王宮には、以前と変わらない朝が戻っていた。
侍女たちは決められた時間に廊下を行き交い、役人たちは書類を抱えて執務室へ向かう。庭師は庭木の手入れをし、料理人たちは朝食の支度に追われていた。
リーアが死ぬ前と、何も変わらない。
けれど、エレノアには、それが不思議なことのように思えた。
人がひとり死んでも、朝は来る。
人が罪を犯しても、王宮の鐘は決まった時刻に鳴る。
誰かの人生が大きく変わっても、他の誰かの日常まで止まるわけではない。
それは冷たいことなのかもしれない。
けれど同時に、生きている人間が前へ進むために必要なことなのだとも思えた。
エレノアはその朝、王妃の部屋へ向かった。
扉の前まで来ると、足を止める。
中から声が聞こえた。
「それでも、私は辞めるつもりです」
セレーネの声だった。
エレノアは扉を開ける前に、わずかに眉を寄せた。
やはり、まだ決心を変えていないらしい。
扉を叩く。
「どうぞ」
エレノアが入ると、セレーネとエドワードが向かい合っていた。
セレーネは椅子に座り、エドワードは窓際に立っている。
その表情から察するに、話し合いは簡単には終わりそうになかった。
「エレノア」
セレーネが微笑む。
「来てくれてありがとう」
「いえ」
エレノアは部屋の中央まで歩いた。
「まだ、お話の途中でしたか」
「ええ」
セレーネは少し困ったように笑った。
「私が王妃を辞めたいと言ったら、陛下が認めてくださらなくて」
「当然だ」
エドワードが言う。
「君は何か勘違いしている」
「何をでしょう」
「王妃を辞めることが、責任を取ることだと思っている」
セレーネは黙った。
「だが、君は何も悪いことをしていない」
エドワードの声には、怒りはなかった。
ただ、決めつけるような強さがあった。
「君の過去を隠したことが罪だというのなら、私はその罪を知った上で君を王妃にした。リーアに脅されていたことが罪だというのなら、脅されていた者を責めることはできない」
セレーネは目を伏せる。
「でも、ローレンスは……」
「ローレンスは自分で選んだ」
エドワードは静かに遮った。
「君を守る方法を、自分で決めた。そして、その方法が間違っていた」
セレーネの指が膝の上で動いた。
「だからこそ、私は怖いのです」
「何がだ」
「また誰かが、私のために何かをすることが」
その言葉に、エレノアは黙ってセレーネを見た。
それは、リーアの死を経験したからこそ生まれた恐怖なのだろう。
自分のために、誰かが傷つく。
自分の秘密を守るために、誰かが罪を犯す。
そう考えてしまえば、自分自身が周囲の人間を傷つける存在のように思えてしまう。
けれど、それもまた違う。
誰かが誰かを守ることと、そのために何をするかは別の話だ。
「私が秘密を抱えていたから、リーアは私を脅した」
セレーネが言った。
「そして、その秘密を守ろうとして、ローレンスはリーアを殺した」
自分の言葉で確かめるように、一つずつ口にする。
「なら、私がいなくなれば……」
「違う」
エレノアが言った。
セレーネが顔を上げる。
「王妃様がいなくなれば、全部が終わるわけではありません」
「……」
「リーアは、王妃様に話をするつもりだったんです」
その言葉を聞いて、セレーネの表情が変わった。
「もう一度、そのことを考えてください」
エレノアは続けた。
「リーアは、自分がどう生きるかを決めようとしていました。王妃様も、ご自分がどう生きるかを決めていいと思います」
セレーネはしばらく黙っていた。
窓から差し込む光が、床に細長く伸びている。
やがてセレーネは、その光を見つめながら小さく息を吐いた。
「……私は、ずっと自分の過去を隠してきたわ」
その声には、以前ほどの怯えはなかった。
「祖国が滅びたことも、自分が何者なのかも。知られてしまえば、すべてを失うと思っていた」
エドワードは黙っている。
「でも、失うことを恐れるあまり、私は今まで生きてきた場所まで偽物にしてしまっていたのかもしれない」
セレーネは顔を上げた。
「私は、この国で王妃になった」
その言葉を、確かめるように口にする。
「それも、私が選んだ人生だわ」
エドワードがわずかに笑った。
「ようやく気づいたか」
「ええ」
セレーネも、ほんの少しだけ笑った。
「だから、辞めません」
エレノアは黙って頭を下げた。
「それでいいと思います」
それ以上の言葉は必要なかった。
セレーネが過去を消す必要はない。
過去を恥じ続ける必要もない。
もちろん、秘密がすべて明らかになれば、何も問題が起こらないというわけではない。
それでも、これからどう生きるのかを決めるのは、セレーネ自身だった。
しばらくして、エレノアは王妃の部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸元に触れる。
そこには、もう一枚の紙があった。
リーアの最後の手紙。
昨日、セレーネに渡したものとは別のものではない。
同じ手紙だ。
けれど、エレノアはまだ一つだけ、渡していないものを持っていた。
リーアが死ぬ前にエレノアへ託した、小さな鍵。
そして、その鍵が開けた箱の中にあった記録。
それは、もう役目を終えていた。
王妃の秘密を暴くための鍵ではない。
リーアが残した最後の言葉を、姉へ届けるためのきっかけだった。
エレノアは足を止めた。
窓の外を見る。
遠くに、温室の屋根が見えた。
あの場所で、リーアは死んだ。
最初に見たとき、エレノアはそこに残された死体しか見ていなかった。
どうして死んだのか。
誰が殺したのか。
何を隠していたのか。
そればかりを考えていた。
それは間違いではなかった。
真実を明らかにしなければ、リーアの死は誰かが作った嘘の中に埋もれてしまう。
けれど、犯人が分かったからといって、すべてが終わるわけではなかった。
リーアが何を考えていたのか。
最後に何を選ぼうとしていたのか。
そのことまで知らなければ、本当に彼女の死と向き合ったことにはならない。
エレノアは再び歩き出した。
父は罪を償うことになった。
王妃は、自分の過去から逃げないと決めた。
そして、リーアの最後の言葉も、姉に届いた。
誰も、死んだ人間の時間を取り戻すことはできない。
それでも、生きている者が、その人の残したものをどう受け取るかは選べる。
エレノアは、それだけは忘れないようにしようと思った。
王宮の外へ続く廊下を抜ける。
その先には、淡い陽射しが広がっていた。
エレノアはそこで一度だけ振り返った。
長い間、自分を縛っていた事件の始まりは、もう遠い場所にあるように思えた。
リーアが死んだ朝。
血の跡。
偽りの遺書。
小さな鍵。
王妃の秘密。
父の罪。
そのすべてが一本の線でつながっている。
けれど、その線の先にあるものは、犯人の名前ではなかった。
人が、自分の人生をどう選ぶのか。
誰かを守るとは何なのか。
そして、誰かのために何かを決めるとき、それは本当にその人のためなのか。
エレノアは、その答えをまだ持っていなかった。
ただ、分からないままでいいと思った。
分からないからこそ、自分で考え続けられる。
そうして歩いていくことが、生きている者にできることなのだろう。
エレノアは前を向いた。
そして、静かに歩き始めた。




