第34話 判決
リーアが死んでから、いくつもの日が過ぎた。
けれど、王宮の中では、あの日から時間が止まっているようだった。
廊下を歩けば、誰かが声を潜めて話している。
薬品庫の記録を改める者。
リーアの遺体を調べ直す者。
偽造された遺書について確認する者。
そして、ローレンスの罪について記録を作る者。
ひとつの死が、王宮の中に残していたものは、思っていたよりもずっと大きかった。
エレノアは、その中心にいた。
父がリーアを殺した。
その事実を、自分の口から正式に告げた。
それだけで十分なはずなのに、手続きは終わらない。
人がひとり死んだ以上、罪には裁きが必要だった。
動機が何であろうと。
どれほど深く、誰かを守ろうとしていたとしても。
その事実だけは変わらない。
数日後。
ローレンスの処分が決まった。
王宮の一室で、エレノアはその知らせを受けた。
「終身刑です」
告げた役人の声は、淡々としていた。
エレノアはしばらく何も言わなかった。
父が死刑にならなかったことに、安堵したわけではない。
重すぎるとも、軽すぎるとも思わなかった。
ただ、その言葉が現実のものとして胸に落ちてくるまで、少し時間がかかった。
「父は……何か言っていましたか」
「特にありません」
役人は書類を閉じた。
「罪について争うこともなく、処分を受け入れるとのことです」
エレノアは目を伏せた。
父は最後まで、自分のしたことを正しいとは言わなかった。
けれど、間違っていたとも、簡単には認められなかったのだろう。
王妃を守る。
国を守る。
そのためにリーアを殺した。
父の中では、それらがひとつにつながっていた。
だからこそ、エレノアには苦しかった。
もし父が金のために殺したのなら。
もし権力のために殺したのなら。
もし自分自身を守るためだけに殺したのなら。
もっと簡単に憎むことができた。
けれど父は、本気で誰かを守ろうとしていた。
だからといって、リーアの命が軽くなるわけではない。
守ろうとした理由が、罪を消してくれるわけでもない。
その二つは、どちらも本当だった。
エレノアは、その矛盾を抱えたまま生きていくしかなかった。
父は罪を犯した。
そして、父は父だった。
そのどちらも、なかったことにはできない。
その日の夕方。
エレノアは王妃の部屋へ呼ばれた。
扉を開けると、セレーネが窓辺に立っていた。
いつものように背筋は伸びていた。
けれど、その横顔には以前のような強さがなかった。
「来てくれたのね」
「はい」
エレノアが近づくと、セレーネはゆっくり振り返った。
「ローレンスのことは聞いたわ」
「……はい」
「終身刑になったそうね」
「はい」
短い返事だけが続いた。
セレーネは視線を落とした。
「私のせいね」
その言葉に、エレノアはすぐには答えなかった。
セレーネは自嘲するように笑った。
「あなたのお父様は、私を守ろうとした」
「そうです」
「だから、リーアを殺した」
「……はい」
「なら、私が王妃でいる限り、また誰かが私を守ろうとするかもしれない」
エレノアは顔を上げた。
セレーネの目には、決意があった。
以前、リーアに脅されていたときの怯えとも違う。
自分の過去を知られることを恐れていたときとも違う。
何かを決めた人間の目だった。
「私は王妃を辞めます」
エレノアは息を止めた。
「それが、一番いいと思うの」
「……陛下はご存じですか」
「まだよ」
セレーネは窓の外へ目を向けた。
「でも、もう決めたわ」
王妃の座を退けば、自分を守るために誰かが罪を犯すこともなくなる。
そう考えているのだろう。
けれど。
エレノアには、それが正しい答えには思えなかった。
父が間違えたからといって、セレーネが自分の人生を差し出す必要があるのだろうか。
「王妃様」
「なに?」
「父は、あなたを守るために間違えました」
セレーネの表情がわずかに揺れた。
「でも、その責任まで王妃様が背負う必要はないと思います」
「……それでも」
「あなたが王妃を辞めれば、父がしたことが正しかったことになるわけではありません」
静かな部屋に、エレノアの声だけが落ちた。
「むしろ、父が勝手に決めた未来に、王妃様まで従うことになる」
セレーネは何も言わなかった。
その言葉を、すぐには受け入れられないようだった。
エレノア自身も、父に同じことを言った。
他人の人生を、本人に代わって決めてはいけない。
リーアの命を奪った父も。
王妃を守るためなら何をしてもいいと思った父も。
そして、罪を償うために王妃の座を捨てようとしているセレーネも。
形は違っても、誰かのために、その人自身の選択を奪おうとしている。
「私は……」
セレーネが小さく呟いた。
「何を選べばいいのか、分からなくなってしまったわ」
エレノアは答えなかった。
正しい選択を教えられるほど、自分も強くはなかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
「それを決めるのは、王妃様自身です」
セレーネが顔を上げる。
「誰かに守られるためでも、誰かに責任を取らせるためでもなく」
エレノアはまっすぐに彼女を見た。
「王妃様が、どう生きたいかで決めてください」
その言葉を聞いたセレーネは、しばらく黙っていた。
やがて、目を閉じる。
「……そうね」
小さな声だった。
「そうしなければならないのね」
そのときだった。
扉の向こうから、低い声が響いた。
「その通りだ」
二人が振り返る。
入ってきたのは、エドワードだった。
セレーネが驚いたように目を見開く。
「陛下……」
エドワードは二人のところまで歩いてくると、妻の前で足を止めた。
「話は聞いた」
「では、私が王妃を辞めることも……」
「認めない」
即答だった。
セレーネが言葉を失う。
「ですが――」
「君が王妃になった理由を、私は知っている」
エドワードの声は静かだった。
「君がどこで生まれたかも。何を失って、この国へ来たのかも。何を隠して生きてきたのかも」
セレーネの目が揺れる。
「私は、それを知った上で君を妻にした」
「……はい」
「なら、今さら君の過去を理由に、君を王妃の座から追い出すつもりはない」
セレーネは唇を噛んだ。
「でも、リーアが……」
「リーアを殺したのはローレンスだ」
エドワードは、はっきりと言った。
「君ではない」
セレーネの目に涙が浮かんだ。
「そして、ローレンスが罪を犯した責任はローレンスにある」
エドワードは続けた。
「君が王妃を辞めても、死んだリーアは戻らない。ローレンスの罪も消えない。なら、君が自分の人生まで差し出す必要はない」
セレーネは顔を伏せた。
涙が一滴、床へ落ちた。
それでも、彼女は泣き崩れなかった。
長い間、自分の過去から逃げていた人間が、初めてそれを真正面から見ようとしているようだった。
「……私、逃げていたのかもしれません」
セレーネが言った。
「自分の生まれを知られるのが怖くて。国を失ったことを知られるのが怖くて。過去を知られたら、今まで築いたものまで全部なくなると思っていた」
エドワードは何も言わずに聞いていた。
「だから、リーアに脅されたときも……何もできなかった」
セレーネは涙を拭った。
「でも、もう逃げたくない」
エレノアは黙って見つめていた。
リーアが最後に望んだのも、きっとこういうことだったのかもしれない。
姉を許したわけではない。
すべてを水に流したわけでもない。
それでも、もう誰かを脅して生きるのはやめる。
そして、自分の言葉で姉と話す。
その道を、リーアは選ぼうとしていた。
けれど、その直前に命を奪われた。
だからこそ、その選択だけは、残された者が勝手に奪ってはいけない。
「王妃様」
エレノアが呼びかける。
セレーネが顔を上げた。
「リーアのものを、一つ預かっています」
エレノアは胸元から小さく折りたたんだ紙を取り出した。
あの日、リーアが残した最後の手紙だった。
エレノアは、それをセレーネへ差し出した。
「私が持っているべきものではないと思います」
セレーネは震える手で受け取った。
紙を開く前に、しばらく見つめていた。
そして、ゆっくりと読み始めた。
エレノアは、その場を離れなかった。
セレーネの目が、一行、また一行と文字を追っていく。
やがて、その顔が崩れた。
「……どうして」
声が震える。
「どうして、今なの……」
紙を持つ手が震えた。
リーアは姉を許してはいなかった。
それでも、死んでほしくないと思っていた。
もう脅したくない。
もう傷つけたくない。
一度だけ、ちゃんと話したい。
その言葉を読んだセレーネは、とうとう顔を覆った。
声を殺して泣いていた。
エドワードが隣に立つ。
エレノアは、何も言わなかった。
二人の間に、もうリーアが入ることはできない。
姉妹として話すこともできない。
仲直りすることもできない。
死んだ人間に、もう一度だけやり直す機会は与えられない。
それでも。
最後にリーアが選んだことだけは、消えなかった。
エレノアは静かに部屋を出た。
扉を閉める直前、背後からセレーネの泣き声が聞こえた。
エレノアは振り返らなかった。
それは、セレーネ自身が向き合うべき時間だった。
誰かが代わりに決めてはいけない。
誰かが代わりに背負ってはいけない。
そして、誰かのためという理由だけで、その人の未来を奪ってはいけない。
そのことを、リーアの死が教えていた。
廊下へ出ると、窓から夕暮れの光が差し込んでいた。
長い一日が終わろうとしている。
エレノアは、その光の中を一人で歩き出した。




