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王妃の妹、偽りの遺書  作者: フミえるる
第六部「父親」
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第32話 それでも

 翌日の朝、エレノアは父の執務室へ向かった。


 昨日と同じ廊下を歩いているのに、見える景色はまるで違っていた。


 王宮で長く働いてきた父の姿を、エレノアはこれまで何度も見てきた。誰かに頼られれば応え、問題が起きれば静かに処理し、決して感情を表に出さない。


 それが父という人間なのだと思っていた。


 けれど今は、その静かな顔の奥に、何かを隠している男の姿が見える。


 父が犯人なら、今日で終わらせなければならない。


 もう疑うだけでは足りない。


 リーアが死んだ理由を、リーア自身の言葉を、父の口から聞かなければならなかった。


 扉を叩く。


「入れ」


 昨日と同じ返事だった。


 エレノアが中へ入ると、ローレンスは机に向かっていた。


 だが、書類を読んでいる様子はない。


 エレノアが来ることを、予想していたのかもしれなかった。


「また来たのか」


「はい」


 エレノアは父の前まで歩いた。


「昨日、父上は言いました」


 ローレンスは黙っている。


「王妃陛下を守るために、必要なことをした、と」


「ああ」


「それが、リーア様を殺したという意味なら」


 エレノアは一度息を吸った。


「今日、父上から直接聞きたいです」


 ローレンスは目を閉じた。


 長い沈黙だった。


「……お前は、もう答えを決めているのだろう」


「決めていません」


「嘘をつくな」


 静かな声だった。


「お前は私を疑っている」


「疑っています」


 エレノアはまっすぐに答えた。


「だから、聞いているんです」


 ローレンスは椅子の背にもたれた。


 そして、深く息を吐いた。


「……そうか」


 それからしばらく、何も言わなかった。


 窓の外では、朝の王宮を行き交う人々の声がかすかに聞こえている。


 いつもと変わらない朝だった。


 それなのに、この部屋だけが世界から切り離されたように静かだった。


「リーアは、危険だった」


 やがてローレンスが口を開いた。


「王妃陛下の秘密を知っていた。あの秘密を使って、何度も王妃陛下を追い詰めていた」


「知っています」


「お前には分からないだろう」


 ローレンスはエレノアを見た。


「もし、王妃陛下の出生が公になれば、過去の戦争を知る者たちが動く。王宮の中だけの問題では済まない。国同士の問題になる可能性さえあった」


「だから、リーア様を消せばいいと思ったのですか」


「……そうだ」


 その一言が、部屋の中に落ちた。


 エレノアは動かなかった。


 父が認めた。


 それだけで、胸の奥が大きく揺れた。


「薬品庫に入ったのは、私だ」


 ローレンスは続けた。


「リーアの薬瓶を手に取った。封を外した。毒を入れ、元に戻した」


 エレノアは唇を噛んだ。


 知りたかったはずの真実だった。


 ずっと追いかけてきた。


 なのに、実際に父の口から聞くと、頭が追いつかなかった。


「……なぜ」


 ようやく出た声は、ひどく小さかった。


「なぜ、そこまでしなければならなかったのですか」


「王妃陛下を守るためだ」


「本当に、それだけですか?」


「それだけだ」


 迷いのない答えだった。


 ローレンスにとって、それは言い訳ではないのだろう。


 本当に、それが正しいと思っていた。


「リーア様が、王妃陛下を脅していたから?」


「ああ」


「王妃陛下の秘密を公にすると?」


「あの娘は、そう言っていた」


「だから殺した」


「ああ」


 エレノアは目を伏せた。


 父がしたことは、もう疑いようがない。


 リーアの死は自殺ではなかった。


 誰かが毒を入れた。


 その誰かは父だった。


 そして父は、王妃を守るためにそれをした。


 すべてが一本に繋がった。


 だが、その瞬間。


 エレノアの中に、一つの違和感が残った。


 どうしても消えない。


「父上」


「何だ」


「父上は、リーア様が最後に何をしようとしていたのか、知っていましたか?」


 ローレンスの眉が動いた。


「何のことだ」


「リーア様は、王妃陛下と話すつもりでした」


「……」


「姉を脅すためではありません」


 ローレンスは黙っている。


 エレノアは持ってきた一枚の紙を取り出した。


「リーア様の最後の手紙です」


 ローレンスの目が、その紙へ向いた。


「リーア様は、王妃陛下を許したわけではありませんでした」


 エレノアはゆっくりと言葉を選んだ。


「でも、もう脅すつもりはなかった」


 父の表情がわずかに変わった。


「……何を言っている」


「リーア様は、姉に死んでほしいわけではないと書いていました」


「……」


「一度、きちんと話したいと」


 ローレンスの顔から血の気が引いた。


 エレノアはその変化を見ていた。


 父が初めて、本当に何かを知ったような顔をしている。


「父上は、知らなかったんですね」


「……」


「リーア様が変わったことを」


 ローレンスは紙から目を逸らした。


 何も答えない。


 けれど、それが答えだった。


「父上は、昔のリーア様しか見ていなかった」


 エレノアの声は震えていた。


「王妃陛下を脅していた頃のリーア様を見て、これからもずっと同じだと思った」


「……」


「だから、王妃陛下を守るために殺した」


 ローレンスの手が、机の上でゆっくり握られた。


「違う」


 初めて、父の声が揺れた。


「何が違うのですか」


「私は……」


 ローレンスは言葉を失った。


 しばらくして、掠れた声が落ちた。


「私は、あの子が変わったことを知らなかった」


 エレノアは何も言えなかった。


「知らなかったんだ」


 ローレンスはもう一度繰り返した。


「リーアが、もう王妃陛下を脅すつもりがなかったなんて……私は知らなかった」


 父の目が伏せられる。


「明日、姉と話すつもりだったなどと……そんなことを、私は知らなかった」


 その声には、初めて後悔が滲んでいた。


 エレノアは父を見つめた。


 犯人を探している間、何度も想像した。


 父がリーアを憎んでいたのかもしれない。


 権力のためだったのかもしれない。


 王妃を利用して、自分の立場を守ろうとしたのかもしれない。


 けれど、違った。


 父は本当に、王妃を守ろうとしていた。


 ただし、その守り方は間違っていた。


 リーアが変わったことを知らず、変わる可能性すら認めず、自分の判断だけで未来を決めた。


 そして、その未来にはリーアの意思がなかった。


「父上」


 エレノアは静かに言った。


「それでも、リーア様を殺したことは消えません」


「ああ」


「王妃陛下を守りたかったとしても」


「ああ」


「リーア様が本当に危険だったとしても」


「ああ」


「それでも、人を殺していい理由にはなりません」


 ローレンスは顔を上げた。


 その目には、もう反論する力がなかった。


「……分かっている」


 短い言葉だった。


 エレノアは胸の奥に痛みを覚えた。


 父を憎めば、もっと簡単だったのかもしれない。


 冷酷な人間だと思えれば、突き放すこともできた。


 けれど、目の前にいるのは、誰かを守ろうとして道を間違えた父だった。


 それは、リーアを殺した事実を軽くするものではない。


 むしろ、重くする。


 正しいと思っていたからこそ、止まらなかった。


 自分の判断こそが正しいと信じたからこそ、リーアの意思を確かめようともしなかった。


 エレノアは手の中の手紙を見つめた。


 リーアは最後に、自分の未来を選ぼうとしていた。


 姉を許すかどうかも。


 話すかどうかも。


 その先をどう生きるかも。


 それを決めるはずだった。


 その権利を、父が奪った。


「……私は、父上を許せません」


 ローレンスは黙って聞いていた。


「でも」


 エレノアは顔を上げた。


「父上が何を考えていたのかは、分かりました」


 父の目が揺れる。


「それでも、罪は罪です」


「ああ」


「私は、真実を隠しません」


「ああ」


「王妃陛下の秘密を守るために、リーア様の死まで隠すことはできません」


 ローレンスは静かに頷いた。


「……それでいい」


 エレノアはその言葉を聞き、目を閉じた。


 父と娘の間に、もう以前と同じ関係が戻ることはない。


 けれど、これだけは確かだった。


 リーアの死を、誰かを守るための犠牲という言葉で終わらせてはいけない。


 彼女には、彼女自身の意思があった。


 最後に何を望んでいたのか。


 何を選ぼうとしていたのか。


 それを知った以上、エレノアはもう沈黙することができなかった。


 エレノアは手紙をしまった。


 そして、静かに父を見た。


「父上。これから私は、リーア様の死を正式に明らかにします」


「……分かった」


 ローレンスはそれだけ答えた。


 窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。


 新しい一日が始まっている。


 けれど、この部屋にいる二人にとっては、何かが終わった朝だった。


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