第32話 それでも
翌日の朝、エレノアは父の執務室へ向かった。
昨日と同じ廊下を歩いているのに、見える景色はまるで違っていた。
王宮で長く働いてきた父の姿を、エレノアはこれまで何度も見てきた。誰かに頼られれば応え、問題が起きれば静かに処理し、決して感情を表に出さない。
それが父という人間なのだと思っていた。
けれど今は、その静かな顔の奥に、何かを隠している男の姿が見える。
父が犯人なら、今日で終わらせなければならない。
もう疑うだけでは足りない。
リーアが死んだ理由を、リーア自身の言葉を、父の口から聞かなければならなかった。
扉を叩く。
「入れ」
昨日と同じ返事だった。
エレノアが中へ入ると、ローレンスは机に向かっていた。
だが、書類を読んでいる様子はない。
エレノアが来ることを、予想していたのかもしれなかった。
「また来たのか」
「はい」
エレノアは父の前まで歩いた。
「昨日、父上は言いました」
ローレンスは黙っている。
「王妃陛下を守るために、必要なことをした、と」
「ああ」
「それが、リーア様を殺したという意味なら」
エレノアは一度息を吸った。
「今日、父上から直接聞きたいです」
ローレンスは目を閉じた。
長い沈黙だった。
「……お前は、もう答えを決めているのだろう」
「決めていません」
「嘘をつくな」
静かな声だった。
「お前は私を疑っている」
「疑っています」
エレノアはまっすぐに答えた。
「だから、聞いているんです」
ローレンスは椅子の背にもたれた。
そして、深く息を吐いた。
「……そうか」
それからしばらく、何も言わなかった。
窓の外では、朝の王宮を行き交う人々の声がかすかに聞こえている。
いつもと変わらない朝だった。
それなのに、この部屋だけが世界から切り離されたように静かだった。
「リーアは、危険だった」
やがてローレンスが口を開いた。
「王妃陛下の秘密を知っていた。あの秘密を使って、何度も王妃陛下を追い詰めていた」
「知っています」
「お前には分からないだろう」
ローレンスはエレノアを見た。
「もし、王妃陛下の出生が公になれば、過去の戦争を知る者たちが動く。王宮の中だけの問題では済まない。国同士の問題になる可能性さえあった」
「だから、リーア様を消せばいいと思ったのですか」
「……そうだ」
その一言が、部屋の中に落ちた。
エレノアは動かなかった。
父が認めた。
それだけで、胸の奥が大きく揺れた。
「薬品庫に入ったのは、私だ」
ローレンスは続けた。
「リーアの薬瓶を手に取った。封を外した。毒を入れ、元に戻した」
エレノアは唇を噛んだ。
知りたかったはずの真実だった。
ずっと追いかけてきた。
なのに、実際に父の口から聞くと、頭が追いつかなかった。
「……なぜ」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「なぜ、そこまでしなければならなかったのですか」
「王妃陛下を守るためだ」
「本当に、それだけですか?」
「それだけだ」
迷いのない答えだった。
ローレンスにとって、それは言い訳ではないのだろう。
本当に、それが正しいと思っていた。
「リーア様が、王妃陛下を脅していたから?」
「ああ」
「王妃陛下の秘密を公にすると?」
「あの娘は、そう言っていた」
「だから殺した」
「ああ」
エレノアは目を伏せた。
父がしたことは、もう疑いようがない。
リーアの死は自殺ではなかった。
誰かが毒を入れた。
その誰かは父だった。
そして父は、王妃を守るためにそれをした。
すべてが一本に繋がった。
だが、その瞬間。
エレノアの中に、一つの違和感が残った。
どうしても消えない。
「父上」
「何だ」
「父上は、リーア様が最後に何をしようとしていたのか、知っていましたか?」
ローレンスの眉が動いた。
「何のことだ」
「リーア様は、王妃陛下と話すつもりでした」
「……」
「姉を脅すためではありません」
ローレンスは黙っている。
エレノアは持ってきた一枚の紙を取り出した。
「リーア様の最後の手紙です」
ローレンスの目が、その紙へ向いた。
「リーア様は、王妃陛下を許したわけではありませんでした」
エレノアはゆっくりと言葉を選んだ。
「でも、もう脅すつもりはなかった」
父の表情がわずかに変わった。
「……何を言っている」
「リーア様は、姉に死んでほしいわけではないと書いていました」
「……」
「一度、きちんと話したいと」
ローレンスの顔から血の気が引いた。
エレノアはその変化を見ていた。
父が初めて、本当に何かを知ったような顔をしている。
「父上は、知らなかったんですね」
「……」
「リーア様が変わったことを」
ローレンスは紙から目を逸らした。
何も答えない。
けれど、それが答えだった。
「父上は、昔のリーア様しか見ていなかった」
エレノアの声は震えていた。
「王妃陛下を脅していた頃のリーア様を見て、これからもずっと同じだと思った」
「……」
「だから、王妃陛下を守るために殺した」
ローレンスの手が、机の上でゆっくり握られた。
「違う」
初めて、父の声が揺れた。
「何が違うのですか」
「私は……」
ローレンスは言葉を失った。
しばらくして、掠れた声が落ちた。
「私は、あの子が変わったことを知らなかった」
エレノアは何も言えなかった。
「知らなかったんだ」
ローレンスはもう一度繰り返した。
「リーアが、もう王妃陛下を脅すつもりがなかったなんて……私は知らなかった」
父の目が伏せられる。
「明日、姉と話すつもりだったなどと……そんなことを、私は知らなかった」
その声には、初めて後悔が滲んでいた。
エレノアは父を見つめた。
犯人を探している間、何度も想像した。
父がリーアを憎んでいたのかもしれない。
権力のためだったのかもしれない。
王妃を利用して、自分の立場を守ろうとしたのかもしれない。
けれど、違った。
父は本当に、王妃を守ろうとしていた。
ただし、その守り方は間違っていた。
リーアが変わったことを知らず、変わる可能性すら認めず、自分の判断だけで未来を決めた。
そして、その未来にはリーアの意思がなかった。
「父上」
エレノアは静かに言った。
「それでも、リーア様を殺したことは消えません」
「ああ」
「王妃陛下を守りたかったとしても」
「ああ」
「リーア様が本当に危険だったとしても」
「ああ」
「それでも、人を殺していい理由にはなりません」
ローレンスは顔を上げた。
その目には、もう反論する力がなかった。
「……分かっている」
短い言葉だった。
エレノアは胸の奥に痛みを覚えた。
父を憎めば、もっと簡単だったのかもしれない。
冷酷な人間だと思えれば、突き放すこともできた。
けれど、目の前にいるのは、誰かを守ろうとして道を間違えた父だった。
それは、リーアを殺した事実を軽くするものではない。
むしろ、重くする。
正しいと思っていたからこそ、止まらなかった。
自分の判断こそが正しいと信じたからこそ、リーアの意思を確かめようともしなかった。
エレノアは手の中の手紙を見つめた。
リーアは最後に、自分の未来を選ぼうとしていた。
姉を許すかどうかも。
話すかどうかも。
その先をどう生きるかも。
それを決めるはずだった。
その権利を、父が奪った。
「……私は、父上を許せません」
ローレンスは黙って聞いていた。
「でも」
エレノアは顔を上げた。
「父上が何を考えていたのかは、分かりました」
父の目が揺れる。
「それでも、罪は罪です」
「ああ」
「私は、真実を隠しません」
「ああ」
「王妃陛下の秘密を守るために、リーア様の死まで隠すことはできません」
ローレンスは静かに頷いた。
「……それでいい」
エレノアはその言葉を聞き、目を閉じた。
父と娘の間に、もう以前と同じ関係が戻ることはない。
けれど、これだけは確かだった。
リーアの死を、誰かを守るための犠牲という言葉で終わらせてはいけない。
彼女には、彼女自身の意思があった。
最後に何を望んでいたのか。
何を選ぼうとしていたのか。
それを知った以上、エレノアはもう沈黙することができなかった。
エレノアは手紙をしまった。
そして、静かに父を見た。
「父上。これから私は、リーア様の死を正式に明らかにします」
「……分かった」
ローレンスはそれだけ答えた。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。
新しい一日が始まっている。
けれど、この部屋にいる二人にとっては、何かが終わった朝だった。




