第30話 父と娘
父の執務室を訪ねたのは、その日の夕刻だった。
窓の外はすでに薄暗く、廊下には夜の冷気が流れ始めていた。使用人たちの姿も少なくなり、王宮の一日は静かに終わろうとしている。
エレノアは扉の前で一度だけ立ち止まった。
ここを開ければ、もう後戻りはできない。
父が犯人ではない可能性も、まだ残っている。
けれど、もし犯人なら。
そのとき自分は、父親を罪人として追及しなければならない。
それでも、エレノアは扉を叩いた。
「入れ」
聞き慣れた声が返ってきた。
エレノアは扉を開けた。
ローレンスは机に向かっていた。手元にはいくつかの書類が置かれている。
いつもと変わらない姿だった。
王宮に仕える役人として、長年この国を支えてきた男。
そして、エレノアにとっては父親だった。
「どうした」
「話があります」
ローレンスは顔を上げた。
「リーア様の事件についてです」
その名前を聞いた瞬間、父の手が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
だが、エレノアは見逃さなかった。
「……まだ調べているのか」
「はい」
「もう十分だろう」
「十分ではありません」
エレノアは部屋の中央まで歩いた。
父との距離が、妙に遠く感じられた。
「リーア様は自殺ではありません」
ローレンスは何も答えなかった。
「薬瓶から毒が見つかりました。毒は薬に偶然混ざったものではありません。瓶の中へ、誰かが意図的に入れたものです」
「それは聞いている」
「薬瓶の封印は、一度外された形跡がありました」
「……そうか」
「そして、リーア様が亡くなる前日、父上は薬品庫に入っています」
ローレンスの視線がエレノアへ向いた。
「記録に残っている理由は、王妃陛下の薬を取りに来たため」
「そうだ」
「ですが、王妃陛下の薬を届けたのは侍女です」
沈黙が落ちた。
「追加の薬もありませんでした。父上が薬を受け取った記録もありません」
エレノアは一歩近づいた。
「つまり、記録に残された入室理由は嘘です」
ローレンスは椅子に座ったまま、エレノアを見ていた。
怒るでもなく、言い訳をするでもない。
その静けさが、かえって不気味だった。
「……よく調べたな」
「父上」
「何だ」
「何をしていたのですか?」
答えは返ってこなかった。
エレノアは父を見つめた。
これまでなら、沈黙を父なりの考えだと思っただろう。
けれど今は違う。
何かを隠している。
その確信があった。
「父上は、リーア様が王妃陛下を脅していたことを知っていましたね」
ローレンスの表情が変わった。
初めて、明らかな動揺が見えた。
「……誰から聞いた」
「王妃陛下からです」
ローレンスは目を伏せた。
「そうか」
「リーア様は、王妃陛下の秘密を知っていました」
「……ああ」
「その秘密を使って、何度も王妃陛下を脅していた」
「そうだ」
「父上は、それを危険だと思っていた」
「当然だ」
ローレンスの声が低くなる。
「王妃陛下の秘密が公になれば、国がどうなるか分からない。あの方は、それほど危うい立場にいる」
「だからリーア様を殺したのですか?」
ローレンスの顔から、表情が消えた。
「……何を言っている」
「私は父上を疑っています」
エレノアははっきりと言った。
「薬品庫に入ることができた。リーア様の薬瓶に触れることもできた。王妃陛下を守る動機もあった。そして、薬品庫へ入った理由について嘘をついた」
一つずつ、事実を並べていく。
声が震えないように、エレノアは意識してゆっくり話した。
「これだけ揃って、まだ父上を疑うなというほうが無理です」
「……証拠は?」
短い言葉だった。
エレノアの胸に重く響いた。
「ありません」
正直に答える。
「今のところは」
「ならば、私を犯人扱いする理由にはならない」
「分かっています」
エレノアは頷いた。
「だから、ここへ来たのです」
「何のために」
「父上から聞くためです」
ローレンスは黙った。
「父上が薬品庫へ入った本当の理由を教えてください」
「……」
「なぜ記録に嘘を書いたのですか?」
「……」
「リーア様の薬瓶に触れていないのなら、そう言ってください」
長い沈黙が続いた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
その音だけが、部屋の中に入り込んでいた。
やがてローレンスが口を開いた。
「お前は、何も分かっていない」
その声には、怒りよりも疲れがあった。
「何がですか」
「王妃陛下が、どれほど危うい立場にいるのか。あの方の過去が知られれば、何が起こるのか。リーアが、それをどう利用していたのか」
「それは聞きました」
「ならば分かるだろう」
「分かりません」
エレノアは首を横に振った。
「少なくとも、人を殺していい理由にはなりません」
ローレンスの目が揺れた。
「私はまだ、父上が犯人だとは決めていません」
エレノアは静かに続けた。
「ですが、父上が何かを隠していることは分かります」
ローレンスは視線を逸らした。
それだけで十分だった。
エレノアには、父が何かを知っていることが伝わってきた。
だが、それでも決定的な答えは出ない。
父が黙っている理由が、殺人を隠すためなのか。
王妃を守るためなのか。
あるいは、その両方なのか。
まだ分からなかった。
「最後に一つだけ聞きます」
エレノアは父を見た。
「リーア様が亡くなる前日、父上は何をしていたのですか?」
ローレンスは答えなかった。
その代わり、ゆっくりと目を閉じた。
そして、しばらくしてから言った。
「……私は、王妃陛下を守るために必要なことをした」
エレノアの呼吸が止まった。
「何をしたのですか?」
「それ以上は聞くな」
「父上」
「エレノア」
ローレンスが初めて強い声を出した。
「これ以上、王妃陛下のために動くな」
その言葉に、エレノアは父の顔を見つめた。
父は何も認めていない。
殺したとも言っていない。
薬瓶に触れたとも言っていない。
それでも。
あまりにも多くのことを知っている。
そして、自分が何をしていたのかを語ろうとしない。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
ローレンスが顔を上げる。
「では、私が自分で調べます」
「エレノア」
「父上が何を守ろうとしたのかも」
エレノアは扉へ向かった。
「リーア様を殺したのが誰なのかも」
扉に手をかけたところで、背後から声がした。
「エレノア」
振り返る。
ローレンスは机の前に座ったまま、こちらを見ていた。
その顔には、これまで見たことのない疲労が浮かんでいた。
「……真実を知れば、後悔するぞ」
エレノアはしばらく父を見つめた。
「それでも、知らないままにはできません」
そう言って、部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に一人になったエレノアは、その場から動けなかった。
父は何も認めなかった。
けれど、否定もしなかった。
そして最後に言った。
――王妃陛下を守るために必要なことをした。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
エレノアは拳を握った。
疑いは、もう確信に近づいている。
それでも、まだ足りない。
父を犯人だと断じるには、最後の一線を越える証拠が必要だった。
そしてエレノアは、その証拠を見つけるまで止まらないと決めた。
たとえ、その先にいるのが自分の父親だったとしても。




