第29話 王妃の証言
エレノアが王妃の居室を訪れたとき、セレーネは窓辺に立っていた。
夕暮れが近づき、部屋の中には淡い橙色の光が差し込んでいる。机の上には何冊かの書類が積まれていたが、セレーネはそれに手をつける様子もなく、遠くの庭を見つめていた。
扉が閉じる音に、王妃が振り返る。
「エレノア」
「少し、お聞きしたいことがあります」
セレーネは、エレノアの顔を見て何かを察したようだった。
「……ローレンスのことね」
エレノアは答えず、ゆっくりと頷いた。
昨日までなら、父の名を出すことにも躊躇があった。
父親を疑っている。
その事実を口にするだけで、自分が何か取り返しのつかないことをしているような気がしていた。
けれど今は違う。
父が薬品庫に入ったこと。
リーアの薬瓶に毒が仕込まれていたこと。
そして、父が残した入室理由が事実と食い違っていたこと。
疑いを口にするには、十分すぎるほどの材料が揃っていた。
「父は、王妃陛下を守ろうとしていたのですか?」
セレーネの表情がわずかに強張った。
「……どうして、そう思うの?」
「薬品庫への入室記録に、父は『王妃陛下の薬を取りに来たため』と書かれていました」
セレーネは黙っている。
「ですが、その日に王妃陛下の薬を届けたのは侍女でした。追加の薬もありませんでした。父が薬を受け取ったという記録もありません」
エレノアは一つずつ事実を並べた。
「つまり、父が薬品庫へ入った理由は、別にあった可能性があります」
「……そう」
セレーネは窓の外へ視線を戻した。
その沈黙が、エレノアには何より雄弁に感じられた。
「父は、何を知っていたのですか?」
長い沈黙のあと、セレーネが口を開いた。
「ローレンスは、私の秘密を知っているわ」
それは、以前にも聞いた言葉だった。
けれど、今のエレノアには、その言葉の重さが以前とは違って感じられた。
「リーアのことも?」
「ええ」
「リーアが、王妃陛下を脅していたことも?」
セレーネは目を閉じた。
「知っていたわ」
その返事を聞いた瞬間、エレノアの中で、いくつもの出来事が重なった。
リーアが姉の秘密を知っていたこと。
その秘密を使って、セレーネを追い詰めていたこと。
ローレンスが、その事実を知っていたこと。
そして、リーアが死んだこと。
「父は、リーアを危険な人間だと思っていた」
「……そうでしょうね」
「王妃陛下を脅す人間を、放っておけなかった」
「ええ」
セレーネの声は静かだった。
「だから、父はリーアを殺したのですか?」
部屋の空気が止まった。
セレーネはすぐには答えなかった。
否定もしなかった。
ただ、窓辺から離れ、机の前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「私は、ローレンスが何をしたのか、すべてを知っているわけではないわ」
「ですが、何か知っている」
「……ええ」
セレーネは指先を組んだ。
「ローレンスは、昔から私を守ろうとしていた」
その言葉に、エレノアは眉を寄せた。
「父が?」
「あなたのお父様は、私がこの国に来た頃から、私の過去を知っていたわ」
セレーネの声には、遠い記憶をたどるような響きがあった。
「私が何者なのか。どこから来たのか。なぜ、その身分を隠しているのか。全部」
エレノアは黙って聞いていた。
「私の秘密が知られれば、この国が揺れるかもしれない。そう考えていた人は、少なくなかったでしょうね」
「父も?」
「ええ」
セレーネは頷いた。
「ローレンスは、秘密を守ることが国を守ることだと信じていた」
エレノアの胸に、父の言葉が蘇った。
――王妃を守ることは、この国を守ることです。
あの言葉を聞いたときには、ただの忠誠心だと思っていた。
今なら、その言葉が何を意味していたのか分かる気がする。
父にとってセレーネは、ただの王妃ではない。
国を揺るがす秘密を抱えた存在だった。
その秘密を知るリーアは、父から見れば危険そのものだったのだ。
「リーアは、父にとって脅威だった」
「……そうね」
「だから、父には動機があった」
「エレノア」
セレーネの声が低くなる。
「動機があることと、殺したことは別よ」
「分かっています」
エレノアは即座に答えた。
「だから、証拠を探しています」
セレーネはエレノアを見つめた。
その目には、心配するような色が浮かんでいた。
「あなたは、それを見つけたらどうするの?」
「父が犯人なら、真実を明らかにします」
「たとえ、あなたのお父様でも?」
「はい」
答えるのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
けれど、エレノアは目を逸らさなかった。
「リーアが誰に殺されたのかを、私の都合で変えることはできません」
セレーネは何も言わなかった。
その沈黙の中で、エレノアはふと気づいた。
王妃の顔から、わずかに血の気が引いている。
「王妃陛下?」
「……ごめんなさい」
セレーネは小さく息を吐いた。
「あなたのお父様を疑うことが、怖いの」
「怖い?」
「ええ」
セレーネは視線を落とした。
「ローレンスが私を守ろうとしたことは、本当だから」
その言葉に、エレノアは何も返せなかった。
父が何をしたのか。
それはまだ分からない。
けれど、父が何を守ろうとしていたのかは、少しずつ見えてきている。
そして、それがかえって恐ろしかった。
もし父が本当にリーアを殺したのだとしたら。
それは憎しみからではないのかもしれない。
金のためでも、権力のためでもない。
誰かを守るためだったのかもしれない。
だからこそ、簡単には割り切れない。
「王妃陛下」
エレノアは静かに尋ねた。
「父が、リーアを殺すほど恐れていたものは何だったのでしょうか」
セレーネは答えなかった。
代わりに、しばらくしてから一つだけ言った。
「リーアが私の秘密を知っていたことよ」
その言葉は、静かだった。
けれどエレノアには、それが最後の扉を指し示しているように思えた。
父がリーアを危険だと思った理由。
父が薬品庫へ入った理由。
そして、父が記録に嘘を残した理由。
すべての始まりに、セレーネの秘密がある。
エレノアは礼をして、部屋を出た。
廊下へ出たあとも、しばらく足を止めなかった。
父を疑う気持ちは、もう消えなかった。
だが、それと同時に、別の疑問も生まれていた。
父は、本当にリーアを「今の彼女」として見ていたのだろうか。
それとも。
最後まで、昔のリーアだけを見ていたのだろうか。
エレノアはその疑問を胸に抱えたまま、暗くなり始めた廊下を歩いていった。




