第27話 鍵
翌朝、エレノアは再び薬品庫の前に立っていた。
昨日と同じ場所だった。
扉も、棚も、並べられた薬瓶も変わっていない。
それなのに、エレノアには昨日までとは違って見えた。
薬品庫へ入ること自体に意味があるのではない。
誰が、いつ、何のために入ったのか。
その理由が本当だったのか。
そこを確かめなければならない。
エレノアは扉を開け、中へ入った。
薬品庫には朝の冷たい空気が残っていた。
窓は小さく、差し込む光も弱い。棚の奥にはまだ薄暗い場所があり、瓶の影がいくつも重なっている。
彼女は中央の机へ向かうと、昨日確認した入室記録を広げた。
記録には、日付と時刻、名前、そして用件が簡潔に書かれている。
リーアが死ぬ前の日。
ローレンス。
用件――王妃の薬を取りに来たため。
エレノアは、その一行をじっと見つめた。
何度読んでも、文字そのものは変わらない。
父が薬品庫へ入った。
それは事実だ。
王妃の薬を取りに来た。
それも記録上は事実になっている。
しかし、エレノアが知りたいのは、その先だった。
なぜ父は、その日に薬を取りに来たのか。
誰から頼まれたのか。
どの薬を持っていったのか。
そして、本当にそれだけだったのか。
エレノアは記録をめくった。
薬品庫では、入室だけでなく、薬を持ち出した場合にも簡単な記録を残すことになっている。
王宮では、薬品を扱う場所が厳しく管理されていた。
毒物にも使える薬品がある以上、誰が何を持ち出したのかを把握しておく必要がある。
エレノアは、父の名前が記された欄を探した。
見つけた。
日付は一致している。
時刻も一致している。
そして、その横には持ち出した薬の名前が記されていた。
エレノアは目を細めた。
「……王妃様の薬」
確かにそう書かれている。
一つだけ。
王妃が普段使っている薬の名前だった。
父が薬品庫へ入った理由としては、何もおかしくない。
それどころか、記録だけを見れば非常に自然だった。
王妃の薬が必要になった。
父が取りに来た。
薬を持って出た。
それだけだ。
エレノアは一度、椅子に腰を下ろした。
やはり違うのだろうか。
父は本当に王妃のために薬を取りに来ただけだったのか。
それなら、薬瓶に毒が仕込まれたこととは無関係になる。
エレノアはそう考えかけた。
だが、すぐに思考を止めた。
違う。
まだ確認していないことがある。
父が持ち出した薬を、王妃は本当に受け取ったのか。
エレノアは記録を閉じた。
それを確かめるため、薬品庫を出た。
向かった先は王妃の居室だった。
王妃セレーネは朝の支度を終えたところだった。
侍女たちが部屋を整えている。
エレノアの姿を見ると、セレーネは侍女たちに下がるよう命じた。
扉が閉じる。
二人きりになる。
「どうしたの?」
「確認したいことがあります」
エレノアは慎重に言葉を選んだ。
「リーア様が亡くなる前の日のことです」
セレーネの表情がわずかに硬くなる。
「……ええ」
「父が薬品庫へ入ったことは、ご存じでしたか?」
「ええ。聞いています」
「父は、王妃様の薬を取りに来たと記録されています」
セレーネは少し考えた。
「そうだったと思うわ」
「その薬は、父から受け取りましたか?」
セレーネは首を横に振った。
「いいえ」
エレノアの胸が強く鳴った。
「……受け取っていない?」
「ええ」
セレーネははっきりと答えた。
「その日は、侍女が持ってきたわ」
「侍女が?」
「そうよ。いつものように」
セレーネは少し困ったように眉を寄せた。
「ローレンスから薬を受け取った覚えはないわ」
エレノアは黙った。
頭の中で、何かが音を立ててつながった。
薬品庫の記録。
父の名前。
王妃の薬を取りに来たという理由。
けれど、その薬を王妃は父から受け取っていない。
では、父が持ち出した薬はどこへ行ったのか。
エレノアは問いを重ねた。
「王妃様、その日、薬を受け取った侍女を覚えていますか?」
「ええ。いつも薬を届けてくれる者よ」
「父が薬を持ってきたという話は?」
「聞いていないわ」
「では、父が薬を取りに来たこと自体をご存じなかった?」
セレーネは少し考えてから頷いた。
「そうね。今あなたに聞かれるまで、知らなかったわ」
エレノアは視線を落とした。
胸の奥で、冷たいものが広がっていく。
父は薬品庫へ入った。
そして、王妃の薬を取りに来たと記録を残した。
だが、その薬は王妃には渡っていない。
ならば、父が薬品庫へ入った本当の目的は何だったのか。
エレノアは顔を上げた。
「王妃様」
「何?」
「その日、薬を届けた侍女に確認してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
セレーネは頷いた。
「必要なら私からも話すわ」
「ありがとうございます」
エレノアは一礼した。
だが、すぐには部屋を出なかった。
もう一つ、確かめたいことがある。
「王妃様」
「まだ何かあるの?」
「父が、リーア様のことで何か話していたことはありませんか?」
セレーネの表情が変わった。
ほんの少しだけ。
けれど、その変化は見逃せなかった。
「……どういう意味かしら」
「父は、リーア様が王妃様を脅していたことを知っていました」
セレーネは答えなかった。
「そして、父はそれを理由に、リーア様を危険な存在だと考えていたのではありませんか?」
しばらく沈黙が続いた。
やがてセレーネが静かに口を開いた。
「そうね」
「では、父にはリーア様を止める理由があった」
「……あったわ」
「それでも、父がリーア様を殺したと証明できるものはありません」
「ええ」
セレーネは静かに答えた。
「だから、あなたは探しているのでしょう」
エレノアは頷いた。
セレーネは視線を窓の外へ向けた。
「エレノア」
「はい」
「もしローレンスが、何かを隠しているのなら」
セレーネの声は低かった。
「私のために隠している可能性があるわ」
エレノアは息を止めた。
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「王妃様……」
「でも、それが何を意味するのかは、まだ私にも分からない」
セレーネは振り返った。
「だから、あなたが確かめなさい」
エレノアはその目を見た。
そこには恐怖があった。
それと同時に、覚悟もあった。
「分かりました」
エレノアは頭を下げた。
部屋を出ると、廊下の空気が妙に冷たく感じられた。
薬品庫へ戻る途中、エレノアは何度も父の記録を思い返した。
王妃の薬を取りに来た。
それは嘘かもしれない。
いや、正確には、理由としては成立しているように見えていた。
だからこそ、今まで誰も疑わなかった。
父自身も、それを説明として使えると知っていたのかもしれない。
王妃のために薬を取りに来た。
その記録が残っていれば、薬品庫へ入った理由は説明できる。
しかし実際には、王妃はその薬を受け取っていない。
では、父は何をしていたのか。
エレノアは薬品庫の前で立ち止まった。
答えはまだ出ていない。
だが、一つだけ確かなことがある。
これまで「父が薬品庫へ入った」という事実は、疑いを強めるだけの材料だった。
今は違う。
父が薬品庫へ入った理由そのものに、嘘がある可能性が出てきた。
そして、その嘘が事実なら。
父には、薬品庫へ入った別の目的があったことになる。
エレノアは扉に手をかけた。
中へ入る。
昨日までと同じ棚。
同じ薬瓶。
同じ静けさ。
けれど、もう同じ場所には見えなかった。
ここで父は何をしたのか。
王妃の薬を取るためではなかったのなら。
誰のために。
何のために。
エレノアは薬品庫の棚を見渡した。
その中に、リーアの薬瓶が置かれていた。
今はもう空になっている。
それでも、そこには一人の人間の最後が残っている。
リーアは明日、姉と話すつもりだった。
父は、そのことを知らなかった。
そして父は、その前日に薬品庫へ入っていた。
王妃の薬を取りに来たという理由で。
けれど、王妃はその薬を受け取っていない。
エレノアは目を閉じた。
これで、ようやく一つの疑問に手が届いた。
父は、なぜ薬品庫へ入ったのか。
まだ答えは分からない。
だが少なくとも――。
記録に書かれた理由は、真実ではない可能性がある。
エレノアは目を開いた。
今度こそ、父に直接聞かなければならない。
王妃の薬を取りに来たというのは、誰のための嘘だったのか。
そして、その嘘の裏で。
父は、何をしていたのか。




