第26話 薬瓶
その日の夜、エレノアは一人で薬瓶と向き合っていた。
机の上には小さな瓶が一つ置かれている。
リーアが生前、何度も手に取った瓶だった。
中身はすでに処分されている。毒も薬も残っていない。検査を終えた今となっては、ただの空の容器に過ぎなかった。
それでも、エレノアにはそれがリーアの死を閉じ込めたもののように見えた。
彼女は椅子に座ったまま、しばらく手を伸ばさなかった。
これまで何度も見ている。
医師も調べている。
毒が検出されたことも分かっている。
封が一度外されていたことも知っている。
それでも、何かを見落としている気がした。
エレノアはゆっくりと瓶を手に取った。
冷たい。
指先に伝わる感触は、ただのガラスのものだった。
「……どこから入れたの」
答えはない。
エレノアは瓶を光にかざした。
透明なガラスの向こうには何もない。
けれど、毒は確かにここにあった。
リーアが飲んだ薬の中に入っていたわけではない。
薬そのものに混ぜられていたのなら、調合した時点で毒が入っていたことになる。
しかし、それなら薬を用意した者に疑いが向く。
ところが実際には、薬は通常どおりのものだった。
毒が見つかったのは、その薬が入っていた瓶だった。
エレノアは以前に聞いた説明を思い返した。
毒は瓶の内部から検出された。
薬を使うためには、瓶の蓋を開ける必要がある。
つまり、毒を入れるには、瓶を開けなければならない。
そこまでは簡単だった。
問題は、そのあとだ。
犯人は、どうやって瓶を元の状態に戻したのか。
エレノアは瓶の口を調べた。
蓋の縁。
内側。
外側。
そして、封があった場所。
以前見たときには気に留めなかった部分だった。
封は完全に破壊されていたわけではない。
しかし、一度外された形跡がある。
エレノアは眉を寄せた。
指先で慎重に触れる。
封を剥がす。
毒を入れる。
蓋を閉める。
そして、もう一度封を戻す。
頭の中で、その手順を組み立てた。
可能だ。
やろうと思えばできる。
だが、そこで一つの疑問が浮かんだ。
なぜ、封を戻したのか。
毒を入れた人間が、瓶を元の場所へ戻すだけなら、封まで戻す必要はない。
リーア本人が普段どおり薬を使えば、蓋を開ける。
その時点で、封が外れていることに気づく可能性はある。
ならば犯人は、リーアに気づかれないようにしたかったのではないか。
エレノアは瓶を置いた。
そして、立ち上がった。
棚から別の薬瓶を一つ取り出す。
空の瓶だった。
エレノアはそれを机に置き、蓋を開けてみる。
封がある。
指先で触れる。
剥がすには、それほど力はいらない。
だが、一度剥がせば、完全に元どおりにはならない。
跡が残る。
リーアの薬瓶にも、その跡が残っていた。
エレノアはもう一度、死者の瓶を見る。
ここに誰かが触れた。
偶然ではない。
薬を使うためにリーア自身が開けた可能性はある。
けれど、毒が検出された。
そして毒は薬そのものではなく、瓶の中に存在していた。
ならば、誰かが瓶を開けて毒を入れた。
エレノアは椅子に戻った。
心臓が、少しだけ速くなっている。
今までとは違う。
これまでは、父が薬品庫に入ったという事実と、毒が入っていたという事実を並べていただけだった。
だが今は違う。
毒を仕込むには、瓶を開けなければならない。
瓶を開けたなら、封を外さなければならない。
そして、毒を仕込んだあとには、再び蓋を閉める必要がある。
つまり、毒を入れた人間は、リーアの薬瓶を直接扱った。
エレノアは記憶を辿った。
薬瓶が保管されていた場所。
薬品庫の棚。
父が入った時間。
リーアが薬を使う時間。
そして――。
父の言葉。
――王妃の薬を取りに来た。
エレノアは顔を上げた。
その言葉を思い返した瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
父は薬品庫に入った。
それは記録にも残っている。
では、そのとき父は、本当に王妃の薬だけを取りに行ったのだろうか。
エレノアはすぐに首を振った。
まだ決めつけてはいけない。
王妃の薬を取りに行った。
そのついでに、リーアの薬瓶へ触れた。
そう考えることはできる。
しかし、それでも一つの可能性が生まれた。
父には、瓶に触れる機会があった。
そして、毒を入れるためには瓶に触れなければならなかった。
エレノアは再び瓶を手にした。
今度は、ただ眺めるのではなかった。
犯人の手つきを想像する。
薬品庫へ入る。
誰もいないことを確認する。
リーアの薬瓶を取る。
封を外す。
蓋を開ける。
毒を入れる。
蓋を閉める。
封を戻す。
そして、瓶を元の場所へ戻す。
ほんの短い時間でできる。
そのあと、王妃の薬を持って薬品庫を出ればいい。
記録には、それだけが残る。
王妃の薬を取りに来た。
そういう理由なら、誰も不思議には思わない。
エレノアの指が止まった。
「……そういうこと?」
声が漏れた。
だが、まだ足りない。
それだけでは父が犯人だとは言えない。
薬品庫に入った者は父だけではない。
リーア自身も、王妃も、正式な権限を持っている。
他の者が何らかの方法で入った可能性もある。
だからこそ、今まで疑いは疑いのままだった。
エレノアは瓶を机に置いた。
けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。
これは自殺ではない可能性が、さらに高くなった。
誰かが意図的に毒を仕込んだ。
リーアは、自分で毒を飲んだのではなく、毒を入れられた薬をいつものように使った。
それなら、リーアが死ぬつもりではなかったこととも矛盾しない。
明日、姉と話すつもりだった。
そのために生きるつもりだった。
なのに、いつもと同じように薬を使った結果、命を奪われた。
エレノアは唇を噛んだ。
あまりにも静かな殺し方だった。
誰かが刃物を振り上げたわけでもない。
誰かが目の前で毒を飲ませたわけでもない。
ただ、薬瓶の中に何かを入れた。
それだけで、リーアの明日を奪えた。
そして犯人は、その場を離れることができる。
まるで何もしていないかのように。
エレノアはしばらく黙っていた。
やがて、机の上にある薬瓶を見つめる。
「誰だったの……」
今までとは違う問いだった。
犯人を探すための問いではない。
この瓶に触れた人間を、どうやって証明するか。
その方法を考えるための問いだった。
エレノアは立ち上がった。
薬品庫への入室記録。
それを、もう一度調べる必要がある。
誰がいつ入ったのか。
何のために入ったのか。
そして、その理由が本当に事実なのか。
もしそこに嘘があるのなら。
今までただの記録だったものが、初めて証拠になる。
エレノアは薬瓶を元の場所へ戻した。
そして部屋を出た。
廊下を歩く足取りは、来たときよりも速かった。
父を疑っている。
それは変わらない。
だが、今はまだ父を犯人だとは決めない。
毒を仕込んだ方法が見えてきた。
次は、その方法を実際に使えた人間を絞り込む。
動機ではなく、事実で。
想像ではなく、証拠で。
エレノアは前を向いた。
リーアの死を、ただ「父が怪しい」という言葉で終わらせないために。
そして、もし本当に父が毒を仕込んだのなら――。
その手が薬瓶に触れたことを、必ず証明するために。




