第25話 それでも証拠がない
翌朝、エレノアは医務室を訪れた。
リーアの死から、すでに何日も経っている。
それでも、部屋の中には事件の名残が残っていた。棚には薬品が並び、机の上には診療記録が積まれている。窓から差し込む光は穏やかだったが、エレノアにはその静けさが妙に薄く感じられた。
ここで、リーアの死因が確認された。
毒。
最初は自殺だと思われた。
だが、薬瓶の中に毒が仕込まれていたことが分かってから、すべてが変わった。
エレノアは医師に向かって頭を下げた。
「もう一度、リーア様の薬瓶について確認したいことがあります」
「薬瓶ですか」
「はい」
医師は少し考えてから、棚の奥から記録を取り出した。
「何を知りたいのでしょう」
「毒が入れられた方法です」
医師は記録に目を落とした。
「残念ですが、そこまでは分かっていません」
「薬そのものに毒が混ぜられていたわけではないんですよね」
「ええ」
「薬瓶の中に、あとから毒が入れられた可能性が高い」
「その認識で間違いありません」
エレノアは頷いた。
やはりそうだ。
毒は偶然そこに存在したわけではない。
誰かが意図的に入れた。
問題は、その誰かだった。
「薬瓶には、誰かが触った痕跡は残っていませんか?」
「薬瓶ですからね。普段からリーア様が触っています」
「そうですか」
「それに、瓶そのものから犯人を特定するのは難しいでしょう」
医師は淡々と答えた。
「指紋のようなものを取れる状態でもありませんでした」
「では、誰かが触ったこと自体を証明するのは難しい?」
「はい」
エレノアは黙った。
頭の中で、何かがまた一つ消えていく。
父には薬品庫へ入る機会があった。
リーアを殺す理由もあった。
だが、それだけだった。
薬瓶に触った証拠はない。
毒を持っていた証拠もない。
毒を入れた証拠もない。
エレノアは椅子に座った。
「封について教えてください」
「封?」
「薬瓶の封は、一度外されていたと聞いています」
「ええ」
「それは、誰かが意図的に外したと考えられますか?」
医師はすぐには答えなかった。
記録をめくりながら、当時の検査結果を確認している。
「外されていたことは確認されています。ただ、それだけでは誰が外したのかまでは分かりません」
「リーア様本人が外した可能性は?」
「あります」
「薬を使うときには?」
「当然、開けますからね」
エレノアは黙り込んだ。
当たり前のことだった。
薬を使う人間なら、瓶を開ける。
封が外れているからといって、それが誰かに毒を入れられた証拠にはならない。
ましてリーアは、その薬を日常的に使っていた。
誰かが瓶を触ったとしても、それだけで殺人にはつながらない。
エレノアは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「何か分かりましたか?」
医師の問いに、エレノアは少しだけ笑った。
「いいえ」
それは、正直な答えだった。
「まだ、何も」
医務室を出る。
廊下を歩きながら、エレノアは自分の考えを整理した。
父を疑う理由はある。
だが、それは犯人だと証明する理由ではない。
これまで自分が集めてきたものは、どれも同じだった。
リーアが姉を脅していた。
父はそれを知っていた。
王妃の秘密も知っていた。
父はリーアを危険だと考えていた。
そして、リーアが死ぬ前日に薬品庫へ入っている。
ここまでは事実だ。
そこから先は、推測だった。
父が薬瓶を触った。
父が毒を入れた。
父が遺書を偽造した。
どれも、まだ見ていない。
証明できていない。
エレノアは足を止めた。
廊下の窓から庭が見える。
風に木々が揺れていた。
ふと、リーアの言葉を思い出した。
――明日、姉と話すつもりなの。
あのときの顔。
声。
そして、小さな鍵を渡されたときの手。
リーアは、自分が翌日死ぬことなど知らなかった。
少なくとも、エレノアにはそう思える。
ならば、誰かが彼女の知らないところで、その未来を奪った。
その事実だけは変わらない。
エレノアは歩き出した。
次に向かったのは、事件を担当している役人の部屋だった。
そこで、リーアの死について作られた記録を確認する。
遺体の発見時刻。
死亡推定時刻。
薬瓶が発見された場所。
自殺と判断された経緯。
そして、遺書。
エレノアは一枚ずつ書類を確認していった。
紙をめくる音だけが部屋に響く。
どの記録も、これまで見てきたものと大きくは変わらない。
リーアは自殺した。
動機は、王妃との確執。
自分の罪を悔い、死を選んだ。
そういう形で、事件はまとめられている。
けれど、その筋書きには一つだけ大きな穴がある。
リーアは、その翌日に姉と話すつもりだった。
そして、そのことをエレノアに話している。
自殺を決意していた人間の行動としては、不自然だった。
だが、それもまた、父が犯人だという証拠にはならない。
エレノアは書類から顔を上げた。
「……違う」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
これまで、自分は間違った問いを繰り返していた。
父が怪しい。
父には動機がある。
父には機会があった。
だから、父が犯人なのではないか。
けれど、それでは足りない。
犯人を疑うことと、犯人を証明することは違う。
リーアが死んだ。
その死には不自然な点がある。
父には疑わしいところがある。
それでも、それだけで父を罪に問うことはできない。
もし自分が間違っていたら。
父を犯人に仕立てることになる。
エレノアは拳を握った。
それだけは避けなければならない。
だからこそ、必要だった。
父にしかできなかったこと。
父が実際にしたこと。
そして、それを裏付ける証拠。
その三つが揃わなければならない。
エレノアは再び書類へ目を落とした。
ふと、ある一文が目に入った。
薬瓶についての簡単な記述だった。
エレノアはそこを指でなぞった。
何度も読んだはずの文章だった。
けれど、今になって気になった。
薬瓶は、リーアの部屋から回収された。
毒は瓶の内部から検出された。
そして、封は一度外されていた。
エレノアは書類を閉じた。
薬瓶。
そこに、まだ何かある。
そう思った。
ただの直感だった。
けれど、これまでの推測を証拠に変えるとしたら、そこしかない。
薬品庫へ入った記録だけでは足りない。
父に動機があったことだけでも足りない。
遺書が偽造された可能性だけでも足りない。
全部をつなぐものが必要だった。
その中心にあるのが、リーアの薬瓶だった。
エレノアは席を立った。
「もう一度、見せてもらえますか」
役人が顔を上げる。
「何をです?」
「リーア様の薬瓶です」
エレノアは静かに答えた。
「最初から、もう一度調べたいんです」
部屋を出ると、廊下には夕方の光が差していた。
長い一日だった。
父を疑い、証拠を探し、何一つ決定的なものを見つけられなかった。
それでも、エレノアの中には以前とは違う感覚があった。
疑うだけでは終わらせない。
父だからという理由で、犯人にもしない。
そして、父だからという理由で、無実にもさせない。
リーアの死を正しく知るために。
エレノアは、もう一度薬瓶を見ることを決めた。
その小さな瓶の中に、誰かが残したものがある。
毒だけではない。
もしかすると、犯人につながる何かが。
エレノアは歩みを速めた。
今度こそ、見落とさないために。




