第24話 毒を仕込んだ夜
エレノアは、父の執務室を出たあと、まっすぐ薬品庫へ向かった。
王宮の中でも、薬品庫は人の出入りが少ない場所だった。
薬を扱う部屋である以上、常に誰かが見張っているわけではない。必要な者が必要なときに入り、記録を残して出ていく。それだけの場所だ。
だからこそ、誰が入ったのかという記録には意味がある。
扉の前に立つと、エレノアは一度だけ振り返った。
長い廊下の向こうに、人影はない。
彼女は扉を開けた。
中には、薬草と薬品の匂いが混ざった独特の空気がこもっていた。
棚には大小さまざまな瓶が並び、壁際には薬の調合に使う器具が整然と置かれている。どれも使用された形跡が残らないよう、きちんと洗われていた。
エレノアは棚の間を歩いた。
リーアの薬が保管されていた場所は、すでに覚えている。
あの薬瓶を初めて見たとき、何の変哲もないものだと思った。
リーアがいつも使っていた薬。
中身も、瓶そのものも、特別なものではなかった。
けれど、その中に毒が入っていた。
そして毒は、薬に混ぜられていたのではない。
薬瓶の中に仕込まれていた。
エレノアは棚の前で足を止めた。
空になった場所を見つめる。
今はもう、そこにリーアの薬瓶はない。
証拠として別の場所に保管されている。
それでも、そこに立つだけで、あの瓶が置かれていた光景が思い浮かんだ。
細長い瓶。
蓋。
封。
そして、その封が一度外されていたという事実。
「……誰が触ったの」
小さく呟く。
答える者はいない。
エレノアは記録台へ向かった。
薬品庫への出入りは、簡単な記録として残されている。
日付。
時刻。
名前。
用件。
以前にも一度確認している。
そこには、ローレンスの名前があった。
リーアが死ぬ前の日。
ローレンスは薬品庫へ入っている。
そのときの用件は、王妃の薬を取りに来たため、と記録されていた。
エレノアは記録を指でなぞった。
父が薬品庫へ入った。
そして、その後にリーアの薬瓶から毒が見つかった。
それだけなら、偶然と言える。
薬品庫に入っただけで、毒を仕込んだことにはならない。
まして、父は王妃の薬を取りに来たと記録されている。
王妃のために薬を取りに来た。
それ自体は、不自然なことではない。
エレノアは目を閉じた。
それでも、何かが引っかかっている。
父が薬品庫に入った理由。
薬瓶の封が外されていたこと。
そして、リーアが死んだこと。
それらを一本の線で結ぼうとすると、どうしても父の姿が浮かんだ。
だが、まだ足りない。
エレノアは記録を戻した。
薬品庫へ入った時刻を確認する。
父が入ったのは、リーアが亡くなる前日。
リーアが最後に薬を使った時刻。
死亡したと推定された時刻。
その間には、十分な時間があった。
毒を仕込むことは可能だった。
しかし――可能であることと、実際にやったことは違う。
エレノアはそれを自分に言い聞かせた。
疑っているからといって、都合のいい部分だけを拾ってはいけない。
父を犯人にするなら、父でなければできなかったことが必要になる。
ただ薬品庫に入っただけでは弱すぎる。
エレノアは記録を閉じた。
次に向かったのは、リーアの私室だった。
部屋は死後、ほとんど手をつけられていない。
必要なものだけが別の場所へ移され、残った家具や調度品はそのままになっている。
エレノアは窓辺に立った。
そこからは王宮の庭が見える。
リーアが生きていた頃、ここから何を見ていたのだろう。
姉のいる場所。
自分が生まれ育った王宮。
そして、自分が最後に話そうとしていた相手。
エレノアは視線を落とした。
リーアは、死ぬ前日に「明日、姉と話す」と言った。
それはエレノア自身が聞いている。
そのときのリーアの顔も覚えている。
何かを決意していた。
怖がっていたわけでも、諦めていたわけでもなかった。
むしろ、ようやく何かを終わらせようとしているように見えた。
そんな人間が、翌朝になって突然、自分を殺すための毒を飲む。
どうしても噛み合わない。
エレノアは机の引き出しを開けた。
そこには、リーアが使っていた細々としたものが残されている。
手紙。
古い帳簿。
小さな装飾品。
そして、薬を使うときに必要だった簡単な記録。
エレノアはそれを一つずつ確認した。
薬の名前。
使う量。
使う時間。
決められた手順。
特別なものではない。
だが、だからこそ気づいたことがあった。
リーアは薬を勝手な時間に飲んでいたわけではない。
ほぼ決まった時間に使っている。
つまり、薬瓶の中に毒を仕込んだ人間は、リーアがその薬を使うことを知っていた可能性が高い。
エレノアは記録を置いた。
そして、もう一度薬品庫のことを考えた。
薬瓶を開ける。
毒を入れる。
元に戻す。
封をする。
それだけなら、時間はかからない。
リーア本人が触った可能性もある。
王妃が触った可能性もある。
父が触った可能性もある。
他の誰かが、何らかの方法で触れた可能性だって完全には消えない。
けれど、薬瓶に毒を仕込むという行為には、リーアが薬を使う時間を知っている必要がある。
そして、その人物は毒を扱える場所にいた。
エレノアは立ち上がった。
薬品庫へ戻る。
今度は棚ではなく、薬品庫の中央に立った。
ここで父は何をしていたのか。
王妃の薬を取りに来た。
記録にはそう残っている。
エレノアは頭の中で、その場面を組み立てた。
父が扉を開ける。
薬品庫へ入る。
王妃の薬を探す。
棚から薬を取る。
そして――。
その手が、リーアの薬瓶へ伸びる。
瓶を取る。
蓋を開ける。
毒を入れる。
再び蓋を閉じる。
封を戻す。
薬瓶を元の場所へ戻す。
想像の中では、あまりにも簡単だった。
簡単すぎるほどに。
エレノアは目を開いた。
だが、そこで思考を止めた。
それは想像だ。
証拠ではない。
父が実際に薬瓶を手に取ったところを見た者はいない。
毒を持っていたという証拠もない。
毒を入れたという痕跡も、今のところ見つかっていない。
ただ、可能だった。
それだけだ。
エレノアは薬品庫の扉を見つめた。
もし父が犯人なら、なぜわざわざ記録に残る形で薬品庫へ入ったのだろう。
薬を取りに来たという記録が残ることを知らなかったのか。
それとも、記録に残ることまで計算していたのか。
後者なら、王妃の薬を取りに来たという理由そのものが偽装だった可能性がある。
だが、それもまだ分からない。
エレノアは額に手を当てた。
疑えば疑うほど、何もかもが父につながっていく。
しかし、どれも決定的ではない。
父には動機がある。
機会もあった。
リーアの死によって得られるものもある。
それでも、犯人だと断言するには足りなかった。
エレノアは薬品庫を出た。
廊下を歩きながら、何度も考える。
リーアを殺したのは誰なのか。
答えは、もうすぐそこまで来ている気がした。
それなのに、手を伸ばしても届かない。
父が犯人だと思う。
けれど、父であるというだけで犯人にしてはいけない。
もし間違えていたら。
それは、リーアの死を利用して父を犯人にすることになる。
エレノアには、そんなことはできなかった。
まして相手は、自分の父親だ。
感情を捨てて考えなければならない。
その日の夕方。
エレノアは自室の机に一人で座っていた。
机の上には、薬品庫への入室記録。
リーアの薬の記録。
そして、リーアの最後の手紙。
三つを並べて、何度も見比べる。
最後の手紙には、リーアが変わろうとしていたことが書かれている。
薬の記録には、彼女がいつ薬を使うのかが残されている。
入室記録には、父が薬品庫へ入った事実が残っている。
それぞれは、別々の証拠だった。
だが、並べると一つの流れが見えてくる。
父には、リーアを殺す理由があった。
父には、薬瓶に触れる機会もあった。
リーアは、父が危険だと考えていた人物のままではなかった。
それでも父は、それを知らなかった。
もし父がリーアを殺したのなら。
父は、リーアの未来を知らないまま、その未来を奪ったことになる。
エレノアは最後の手紙に目を落とした。
しばらくして、静かに紙を折った。
疑いは、ほとんど確信に近づいている。
それでも、それはまだ確信ではない。
エレノアは椅子から立ち上がった。
「……証拠がない」
誰もいない部屋で、その言葉だけが落ちた。
それが今の自分にとって、何より重かった。
父を疑う理由は十分にある。
だが、父が犯人だと証明するものはない。
だから、まだ終われない。
エレノアは机の上の記録をまとめた。
もう一度、薬瓶を調べる必要がある。
毒がどのように入れられたのか。
封がどう扱われたのか。
そして、誰が触れた痕跡を残しているのか。
そこに、まだ見落としているものがあるかもしれない。
エレノアは灯りを消した。
部屋が暗くなる。
窓の外には、夜の王宮が広がっていた。
静かな夜だった。
リーアが死んだ夜も、きっとこんな夜だったのだろう。
誰かが薬瓶に手を伸ばしたことにも気づかず。
誰かが自分の未来を決めてしまったことも知らず。
ただ、明日になれば姉と話せると信じていた。
エレノアは暗闇の中で、目を閉じた。
まだ、父を犯人とは呼べない。
けれど――。
もし本当に父がリーアを殺したのなら。
その罪を、疑いだけで終わらせるわけにはいかなかった。




