第23話 父親の誤算
翌朝、エレノアは父の執務室へ向かっていた。
廊下には朝の光が差し込み、磨かれた床に窓枠の影が細く伸びている。使用人たちはいつものように行き交い、誰もが普段と変わらない顔をしていた。
王宮では、リーアが死んでからも時間だけが進んでいる。
朝になれば朝食が運ばれ、昼になれば仕事が始まり、夜になれば灯りが消される。
人が一人死んだところで、王宮そのものは止まらない。
けれど、エレノアの中では、何かが昨日までとは決定的に変わっていた。
リーアは死ぬつもりではなかった。
少なくとも、死ぬことだけを考えていたわけではない。
姉を脅すことをやめようとしていた。
もう一度、話そうとしていた。
それが、最後の手紙に残されていた。
では、なぜ死んだのか。
エレノアは足を止めた。
目の前に父の執務室がある。
扉の向こうに、ローレンスがいる。
これまで何度も見てきた扉だった。
幼い頃、父に用があるときもここを訪れた。仕事の邪魔をしてはいけないと叱られたこともある。逆に、何も言わずに中へ入れてくれたこともあった。
自分にとって、そこは父親のいる場所だった。
だが今は違う。
リーアが死んだ夜、薬品庫へ入った男。
王妃の秘密を知っていた男。
リーアが姉を脅していたことを知っていた男。
そして、リーアが変わったことを知らなかった男。
エレノアは、ゆっくりと息を吐いた。
昨日までなら、父を疑う自分をどこかで否定していた。
証拠がない。
父がそんなことをするはずがない。
そう思いたかった。
だが、今は違う。
リーアが変わったことを知ったからこそ、父の行動には別の意味が生まれていた。
父は、リーアが最後まで王妃を脅し続けると思っていたのではないか。
王妃の秘密が露見すれば、国が揺らぐ。
だから、リーアを危険な存在だと考えた。
ならば。
もし父がリーアを殺したのだとすれば。
父が殺したのは、本当の意味での「今のリーア」ではない。
父の中に残っていた、過去のリーアなのではないか。
エレノアは扉に手をかけた。
「お父様」
返事はなかった。
もう一度、少し強く叩く。
「お父様。入ります」
「……ああ」
中から声がした。
エレノアは扉を開けた。
ローレンスは机に向かっていた。
書類を整理している。
いつもと変わらない姿だった。
背筋は伸び、髪も乱れていない。机の上にはいくつもの書類が並び、その脇には冷めかけた茶が置かれている。
まるで、何も起きていないかのようだった。
「どうした?」
ローレンスが顔を上げる。
その目がエレノアを見る。
「リーアのことです」
父の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、エレノアは見逃さなかった。
「まだ調べているのか」
「はい」
「もう十分だろう」
静かな声だった。
「王妃も、お前も、これ以上苦しむ必要はない」
「苦しんでいるから調べているわけではありません」
エレノアは父の机の前まで歩いた。
「知りたいんです」
「何をだ」
「リーアが、なぜ死んだのか」
ローレンスは答えなかった。
エレノアは父の顔を見つめた。
そこに罪悪感があるのか。
恐怖があるのか。
それとも、ただ娘の心配をしているだけなのか。
以前なら、父の表情を疑うことなどなかった。
今は、一つ一つが気になった。
「リーアは、最後の日に姉を脅すつもりではありませんでした」
ローレンスの眉がわずかに動いた。
「……何を言っている」
「手紙が見つかりました」
「手紙?」
「リーアが書いたものです」
エレノアは、昨日読んだ言葉を思い出した。
姉を許したわけではない。
起きたことをなかったことにもできない。
それでも、もう脅したくはない。
一度だけ、きちんと話したい。
それがリーアの最後の意思だった。
「リーアは、王妃陛下を許したわけではありません」
「……」
「でも、もう脅すつもりはなかった」
ローレンスは黙っていた。
「姉と話すつもりだったんです」
長い沈黙が落ちた。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえる。
やがてローレンスが口を開いた。
「人は、最後まで同じ気持ちでいるとは限らない」
「ええ」
「だからといって、それが何だというんだ」
「父は、リーアが変わったことを知っていましたか?」
ローレンスの目が止まった。
「……何を言いたい」
「質問しています」
「知らない」
答えは早かった。
エレノアは、その一言を聞き逃さなかった。
「知らなかった?」
「そうだ」
「本当に?」
「私はリーアと親しく話していたわけではない」
「でも、リーアが姉を脅していたことは知っていましたよね」
ローレンスの表情が硬くなる。
「それは知っていた」
「どのくらい前から?」
「……かなり前からだ」
「だから、リーアは危険な人間だと思っていた」
「危険だった」
即答だった。
その声には、迷いがなかった。
「王妃の秘密を知り、それを使って王妃を追い詰めていた。あのまま続けば、いずれ取り返しのつかないことになっていた」
「でも、リーアはやめようとしていた」
「それを私は知らなかった」
「ええ」
エレノアは父を見つめた。
「そこが問題なんです」
ローレンスは眉を寄せた。
「何がだ」
「父は、リーアが変わったことを知らなかった」
「……そうだ」
「なのに、リーアが死んだ」
ローレンスの顔から、わずかに血の気が引いたように見えた。
だが、それ以上の変化はなかった。
「偶然だ」
「本当に?」
「エレノア」
低い声だった。
「何を疑っている」
「まだ、何も断定していません」
「ならば、なぜそんな目で私を見る」
「父だからです」
エレノアは答えた。
「父だから、知りたいんです」
ローレンスはしばらく黙っていた。
やがて、椅子の背に身体を預けた。
「お前は、私がリーアを殺したと思っているのか」
直接的な言葉だった。
エレノアの胸が強く締めつけられる。
それでも、目を逸らさなかった。
「分かりません」
「分からない?」
「父が犯人だと、まだ言えるだけの証拠はありません」
ローレンスは何も言わない。
「でも、疑う理由はあります」
「私がリーアを嫌っていたからか」
「違います」
エレノアは首を振った。
「父は、リーアが姉を脅していたことを知っていた。王妃の秘密も知っていた。そして、リーアが死ぬ前の日に薬品庫へ入っています」
ローレンスの指が机の上でわずかに動いた。
「それだけだ」
「それだけではありません」
エレノアは続けた。
「リーアの薬瓶から毒が見つかりました」
「……知っている」
「その毒は、薬に混ぜられていたわけではない」
「何?」
「薬瓶の中に仕込まれていました」
ローレンスは黙った。
「薬瓶は、封が一度外されています」
エレノアは父の顔を見た。
「誰かが意図的に触った可能性があります」
「可能性、だろう」
「はい」
「では、私ではない」
「まだ、そうとも言っていません」
「ならば何を求めている」
「本当のことです」
エレノアは静かに言った。
「リーアが何をしようとしていたのか。そして、誰がそれを奪ったのか」
ローレンスは答えなかった。
父の沈黙が、部屋の中に重く残る。
エレノアは、その沈黙を聞きながら思った。
父は、リーアを殺したことを認めていない。
けれど、何かを恐れている。
それが自分の疑いなのか。
王妃の秘密なのか。
それとも――リーアが最後に何をしようとしていたのか。
まだ分からない。
だからこそ、エレノアはここで引くことができなかった。
「お父様」
「なんだ」
「リーアは、最後に姉と話すつもりでした」
「……」
「そのことを、父は知っていましたか?」
ローレンスは目を伏せた。
「知らない」
今度の答えは、少しだけ遅かった。
エレノアはそれを聞き、父の顔を見た。
知らなかった。
本当に知らなかったのか。
それとも――。
エレノアはそれ以上、追及しなかった。
今ここで父を問い詰めても、答えは出ない。
必要なのは、疑いではない。
父がリーアを殺したと証明できるものだ。
そのためには、もう一度、最初から見直す必要がある。
薬瓶。
薬品庫。
封。
そして、リーアが死んだ夜。
エレノアは父に背を向けた。
「もう行くのか」
「はい」
「どこへ行く」
扉の前で、エレノアは足を止めた。
「調べに行きます」
「何を」
エレノアは振り返らなかった。
「父が嘘をついているのかどうかを」
扉を閉める。
廊下に出たエレノアは、深く息を吐いた。
胸の奥が重い。
それでも、迷いはなかった。
リーアは変わった。
そして、その変化を知らない誰かによって、未来を奪われた。
ならば、その誰かが誰なのか。
今度こそ、証拠で確かめなければならない。
父を疑うためではない。
リーアが最後に選ぼうとしていたものを、誰かに勝手に終わらせられたままにしないために。




