第20話 もう一つの箱
その夜、エレノアはなかなか眠れなかった。
寝台に横になって目を閉じても、父の言葉が頭から離れない。
『これ以上、王妃のことを調べるな』
なぜ、父はそこまで言うのか。
リーアの死について調べているだけなら、王妃のことを調べる必要はない。
けれど実際には、リーアの死を追えば追うほど、セレーネの秘密へ近づいていく。
そして、その秘密を知っていた人間の中に父がいる。
エレノアは寝返りを打った。
窓の外は暗い。
王宮の夜は静かだった。
昼間なら人の声や足音が絶えない廊下も、今はほとんど物音がしない。
それでも、眠ることはできなかった。
父を疑っている。
その事実を、エレノアは認めなければならなかった。
父だから疑いたくない。
けれど、父だからこそ知っていることが多すぎる。
王妃の秘密。
リーアが過去にしていたこと。
薬品庫への立ち入り。
そして、リーアが死ぬ前から彼女を危険な存在として見ていたこと。
そこまで考えたところで、エレノアは起き上がった。
もう一度、確認しなければならない。
リーアが本当に父にとって、どれほど危険な存在だったのか。
翌朝。
エレノアは朝食を早々に済ませると、王宮の記録室へ向かった。
古い記録を調べるためだった。
リーア本人の記録ではない。
王妃の身辺記録。
侍女の交代記録。
王宮内で起きた小さな騒動の報告。
そうした記録の中に、リーアとセレーネの間に何があったのか、残っているかもしれない。
記録室には、古い紙の匂いが染みついていた。
高い棚がいくつも並び、その間を細い通路が走っている。
窓は小さく、朝の光も薄い。
エレノアは係の者に必要な記録を頼み、机に積み上げられた書類を一つずつ開いていった。
最初に出てきたのは、どうでもいいような記録だった。
王妃の衣装の注文。
侍女の休暇。
食事の変更。
来客の予定。
どれも事件とは関係がない。
それでもエレノアは、一枚ずつ目を通した。
王宮で起きたことは、すべてが大きな出来事として記録されるわけではない。
むしろ重要なことほど、何気ない一行に紛れていることがある。
しばらくして、エレノアの手が止まった。
古い報告書だった。
リーアが王宮に滞在するようになってから、しばらく経った頃のものだ。
そこには、王妃付きの侍女からの報告が残されていた。
『王妃殿下とリーア様の面会について、予定外の時間が増えている』
それだけなら、何もおかしくない。
姉妹なのだから、二人が会うことは珍しくない。
しかし、その次の記録にはこうあった。
『面会後、王妃殿下より金庫内の書類を確認したいとの申し出あり』
エレノアは眉を寄せた。
さらに数枚めくる。
別の日。
『リーア様より王妃殿下への贈答品について、王妃殿下が受け取りを拒否』
その次。
『リーア様と王妃殿下の間に口論があったとの報告。ただし、詳細不明』
さらにその次。
『王妃殿下より、リーア様との面会について記録を残す必要はないとの指示』
エレノアは紙から目を離した。
記録が途切れている。
そこから先は、リーアが王妃を脅していた時期と重なる。
おそらく、王宮側も二人の間に何かあることを知っていた。
だが、詳細までは書かれていない。
エレノアは別の記録を探した。
しばらくして、一枚の紙を見つける。
王宮警備に関する古い報告だった。
『王妃殿下の私室周辺について、警備を一時的に増員』
理由は記載されていない。
ただ、増員を指示した人物の欄には、父の名前があった。
ローレンス。
エレノアは紙を持ったまま、じっと見つめた。
父は、リーアとセレーネの間に問題があることを知っていた。
それどころか、かなり早い段階から王妃の周囲を警戒していた。
それは王妃を守るためだったのか。
それとも。
エレノアは考えを止めた。
ここで想像を膨らませても仕方がない。
必要なのは、事実だった。
彼女はさらに記録を探した。
昼を過ぎても、記録室から出なかった。
紙をめくる音だけが、静かな室内に続いていた。
そして、夕方近く。
一つの報告書を見つけた。
リーアが王妃の私室から出た直後に作成されたものだった。
内容は簡潔だった。
『王妃殿下のご様子に変化なし』
その下に、別の筆跡で短い追記がある。
『今後、リーア様と王妃殿下が二人きりになることを避けるべき』
エレノアは、その一文を何度も読んだ。
誰が書いたのか。
署名はなかった。
だが、その報告書が提出された先は、父の管轄だった。
エレノアは椅子の背にもたれた。
父は、かなり前からリーアを警戒していた。
リーアがセレーネを脅していたことを知っていた。
王妃の秘密も知っていた。
だからこそ、リーアが危険だと思った。
ここまでは繋がる。
問題は、その先だった。
危険だと思ったからといって、殺すだろうか。
そこには大きな隔たりがある。
エレノアは立ち上がった。
記録を元の場所へ戻し、記録室を出る。
父に直接聞くしかない。
そう思った。
王宮の中庭を抜け、父の執務室へ向かう。
廊下の途中で、エレノアは一度立ち止まった。
父に聞けば、またはぐらかされるかもしれない。
それでも、聞かなければ何も分からない。
扉の前に立ち、ノックする。
「入れ」
エレノアは扉を開けた。
ローレンスは机に向かっていた。
書類から顔を上げる。
「何だ」
「聞きたいことがあるの」
「リーアのことか」
エレノアは少し驚いた。
「……そうよ」
「なら、やめておけ」
「その言葉はもう聞いたわ」
父は黙った。
エレノアは部屋の中へ入った。
「昔の記録を見た」
「そうか」
「父さんは、ずっとリーアを警戒していたのね」
ローレンスの表情は変わらなかった。
「王妃を守るのが私の役目だからな」
「それだけ?」
「それ以外に何がある」
エレノアは父の顔を見た。
「リーアが王妃を脅していたことも知っていた?」
少しの沈黙。
「知っていた」
父は否定しなかった。
「どこまで?」
「詳しくは知らない」
「嘘じゃない?」
「なぜ私がお前に嘘をつく必要がある」
「リーアが何を要求していたかも?」
「金や物を要求していたことは知っていた」
エレノアは黙って父を見る。
父の声には迷いがなかった。
「でも、それだけじゃないでしょう」
ローレンスの眉がわずかに動いた。
「何の話だ」
「王妃の秘密」
空気が変わった。
ほんの一瞬だった。
それでも、エレノアには分かった。
父は、その言葉を恐れている。
「リーアは、その秘密を使って王妃を脅していた」
ローレンスは答えない。
「違う?」
「……違わない」
低い声だった。
「父さんは、リーアがその秘密を外へ漏らすと思っていたのね」
「可能性はあった」
「だから危険だと思った?」
「そうだ」
「どのくらい?」
父は目を伏せた。
「非常に危険だと思っていた」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの胸が冷えた。
やはりそうだった。
父は、リーアを単なる王妃の妹として見ていなかった。
王妃の秘密を握る人間として見ていた。
「それで?」
エレノアは尋ねた。
「危険だから、どうするつもりだったの?」
ローレンスは顔を上げた。
「何もしない」
「本当に?」
「私は王妃を守る。それが私の役目だ」
「それは答えになっていない」
エレノアの声が強くなる。
「リーアが秘密を漏らしたら、どうするつもりだったの?」
長い沈黙が続いた。
やがて父は言った。
「その前に、止める必要があると思っていた」
「どうやって?」
「分からない」
「父さん」
「本当に分からない」
ローレンスは静かに答えた。
「ただ、何かが起きる前に、王妃を守らなければならないと思っていた」
エレノアは父の言葉を聞きながら、別の疑問を覚えた。
「……父さんは、リーアが変わったことを知らなかった?」
父の顔がわずかに曇った。
「何のことだ」
「リーアは、最後の一か月くらい、王妃への要求をやめていた」
「……知らない」
「本当に?」
「ああ」
「本人から何も聞かなかった?」
「聞いていない」
エレノアは目を伏せた。
やはり、父は知らなかった。
リーアが変わろうとしていたことを。
姉に謝ろうとしていたことを。
明日、ちゃんと話そうとしていたことを。
父の中では、リーアは最後まで危険な存在だった。
そこに、ひどく大きな食い違いがある。
「父さん」
「何だ」
「もしリーアが、本当に変わっていたとしたら?」
ローレンスは答えなかった。
「もし、もう王妃を脅すつもりがなくて、全部話して、姉とやり直そうとしていたとしたら?」
「……」
「それでも、父さんはリーアを危険だと思う?」
しばらくして、ローレンスは低く言った。
「人は、そう簡単には変わらない」
エレノアは息を呑んだ。
その言葉には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、固い確信だけがあった。
父はリーアを信じていない。
最後まで。
「それは、父さんの考えでしょう」
「ああ」
「リーアの考えじゃない」
「……そうだな」
それ以上、父は何も言わなかった。
エレノアは部屋を出た。
廊下へ出ても、しばらく足が動かなかった。
父には動機がある。
そして、その動機はエレノアが思っていたよりも深かった。
王妃の秘密を守るため。
国を守るため。
父は本気で、そう信じている。
だからこそ、怖かった。
悪意から人を殺す人間なら、まだ理解できる。
憎しみや欲望なら、どこかに歪みがある。
けれど、正しいことをしていると思っている人間は。
自分の行いを罪だと認めない。
エレノアはゆっくりと歩き出した。
リーアが最後に残した言葉を思い出す。
『今度こそ、ちゃんと話す』
あの言葉を、父は知らなかった。
知らなかったからこそ、最後までリーアを危険な人間だと思っていた。
そしてエレノアには、まだ一つだけ分からないことがある。
父が本当にリーアを殺したのなら。
なぜ、リーアが変わったことを知る前に、あれほど早く動けたのか。
そして、なぜ遺書まで用意できたのか。
エレノアは足を止めた。
父には動機がある。
機会もあった。
だが、それだけではまだ足りない。
殺したという証拠がない。
だからこそ、エレノアは決めた。
父を疑うのではなく。
父が何をしたのかを、確かめる。
それができなければ、リーアの死を終わらせることはできない。




