第19話 父親の嘘
父が部屋を出ていったあとも、エレノアはしばらく動かなかった。
閉じた扉を見つめたまま、先ほどのやり取りを頭の中で繰り返していた。
遺書を見たのかと尋ねた。
父は、何度も聞かされた、と答えた。
その答え自体はおかしくない。
リーアが亡くなってから、遺書は何度も確認されている。父が目にしていたとしても、不思議ではなかった。
けれど、あのとき。
父の視線は、机の引き出しへ向いた。
そこには今、遺書が入っている。
偶然だったのかもしれない。
エレノアはそう考えようとした。
父を疑いたいわけではない。
疑う理由がある。
ただ、それだけだった。
毒。
薬瓶。
薬品庫への立ち入り。
王妃の秘密。
リーアが過去にセレーネを脅していたこと。
そして、リーアが死んだ翌朝、父が口にした言葉。
ひとつひとつを並べれば、父には動機がある。
けれど、動機だけなら誰にでも作れる。
疑わしいというだけで、人を犯人にはできない。
エレノアは机に向き直った。
引き出しを開ける。
中には遺書が一枚、静かに収まっていた。
エレノアはそれを取り出した。
紙を両手で持ち、もう一度、文章を読む。
『私は姉を殺そうとした。だから死んで償います』
何度読んでも短い。
あまりにも短い。
リーアが本当に自分の意思で書いたのなら、そこにもう少し何かがあってもいいはずだった。
謝罪。
恨み。
恐怖。
あるいは、最後まで誰にも言えなかった本音。
何もない。
自分が罪を犯したから死ぬ。
それだけだった。
エレノアは遺書を机に置き、椅子に腰を下ろした。
リーアの部屋には、静かな午後の光が差し込んでいる。
窓の外では風に揺れた木々の葉が、淡い影を床へ落としていた。
こんなにも穏やかな景色の中で、妹は死んだ。
それが、まだ現実とは思えなかった。
エレノアは目を閉じる。
すると、昨夜のリーアが浮かんだ。
少しだけ困ったように笑っていた。
『明日、姉と話すの』
あのときの声は、静かだった。
けれど、迷ってはいなかった。
『今度こそ、ちゃんと話す』
あれが嘘だったとは思えない。
ならば、リーアは少なくとも昨夜の時点では、生きるつもりだった。
そして、その直後に誰かが薬瓶を開けた。
毒を入れた。
さらに、リーアが自殺したように見せるために遺書まで用意した。
そこまで考えたところで、エレノアは目を開けた。
「……誰が?」
部屋には誰もいない。
当然、答えも返ってこない。
エレノアは立ち上がった。
筆跡の違和感を調べるだけでは足りない。
もっと別の証拠が必要だった。
遺書が偽物だと証明できたとしても、それだけでは犯人を特定できない。
誰かがリーアを殺した。
それを証明するには、その誰かがリーアに毒を飲ませることができたと示さなければならない。
エレノアは薬品庫の記録を取り出した。
何度も見返した記録だった。
そこには、父の名前がある。
リーアが死ぬ前日。
王妃用の薬を確認するために、内側の薬品庫へ入った。
だが、実際に王妃の薬を受け取ったのはマリアだった。
父が薬を取りに行く必要はなかった。
では、なぜ父はそこへ入ったのか。
エレノアは記録を机に広げた。
指で一行ずつ追っていく。
入室時刻。
退室時刻。
確認された薬。
担当者の名前。
どこにも、父が毒を持ち出したとは書かれていない。
当然だった。
薬品庫から毒がなくなったという記録はない。
だからこそ、エレノアはそこで止まっていた。
父が薬品庫に入った。
父には王妃の秘密を守る理由がある。
父はリーアを危険な存在だと思っていた。
だが、それだけだ。
毒を取った証拠がない。
薬瓶を開けた証拠もない。
遺書を書いた証拠もない。
すべてが状況証拠だった。
エレノアは記録を閉じた。
「……まだ足りない」
呟いた声が、部屋の中で小さく響いた。
その日の夕方、エレノアは医務室へ向かった。
医師は薬瓶を確認したあと、遺書についても話を聞いた。
「筆跡が似ているのに、本人が書いたように感じない?」
「はい」
医師は少し考えた。
「それなら、筆跡鑑定を専門にしている者に見せるのが一番でしょう。ただ……」
「ただ?」
「王宮の中で、そこまで細かく調べられる者は限られます」
エレノアは黙った。
それは分かっていた。
筆跡だけで犯人を追い詰めることはできない。
そもそも、誰かがリーアの筆跡を真似たのだとすれば、犯人はリーアの文字を知っている人間である可能性が高い。
身近な人間。
侍女。
家族。
あるいは――。
「先生」
「はい」
「毒が入った薬瓶について、もう一つ確認したいことがあります」
医師は顔を上げた。
「何でしょう」
「薬瓶を開けたあと、誰かが触ったことは分かりますか?」
「指紋のようなものを調べる技術はありません」
「そうではなくて。瓶の中身についてです」
エレノアは薬瓶を見た。
「毒が底に残っていた」
「ええ」
「なら、毒を入れた人間は、毒がすぐには薬全体に混ざらないことを知っていたのでしょうか」
医師は少し考えてから首を振った。
「そこまでは分かりません。ただ、瓶を開けて粉を入れ、そのまま閉じたのであれば、時間が経って底に沈んでいた可能性はあります」
「つまり」
「毒を入れた者が、薬を飲ませる直前に瓶を触る必要はありません」
エレノアは息を止めた。
その言葉は、彼女が考えていた以上に重要だった。
毒を入れた人物は、リーアが薬を飲む瞬間に立ち会う必要がない。
前日に薬瓶を開け、毒を入れておけばいい。
その後は何もせず、リーアがいつものように薬を飲むのを待てばいい。
犯人にとって重要なのは、薬瓶に触れることができる時間だった。
エレノアの頭に、薬品庫の記録が浮かぶ。
父の名前。
前日。
そして、王妃の薬を確認するという理由。
「……父さん」
エレノアは小さく呟いた。
医師が不思議そうに見る。
「何か?」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「まだ、何もありません」
医務室を出る。
廊下を歩きながら、エレノアは考え続けた。
父が薬品庫に入った。
その時間は、リーアの薬瓶に毒を入れることが可能だった。
だが、薬品庫に入っただけでは毒を入れたことにはならない。
毒を持ち出した証拠がない以上、そこから先へ進めない。
エレノアは足を止めた。
廊下の窓から、夕暮れの庭が見える。
赤く染まった空の下、王宮の建物は静かに佇んでいた。
この中のどこかで、誰かがリーアを殺した。
その誰かは、リーアの死を自殺に見せかけた。
そして、そのためにリーアの文字を真似た。
ならば犯人は、リーアのことをよく知っていた。
エレノアはふと気づいた。
リーアのことを知っていたのは、誰だっただろう。
姉。
侍女。
家族。
そして、父。
父はリーアを嫌っていたわけではない。
むしろ、危険だと思っていた。
王妃を守るためには、排除する必要があると考えていた。
もし、それが殺す理由になったのだとしたら。
父は自分のしたことを正しいと思っているのかもしれない。
その考えに、エレノアの胸が重くなる。
けれど、すぐに首を振った。
違う。
まだ決めつけてはいけない。
父が犯人なら、必ずどこかに証拠がある。
毒を手に入れた痕跡。
薬瓶に触れた痕跡。
遺書を用意した痕跡。
そのどれか一つでも見つければいい。
エレノアは再び歩き出した。
そのとき、背後から声がした。
「エレノア」
振り返る。
廊下の先に、ローレンスが立っていた。
夕暮れの光を背にしているせいで、表情がよく見えない。
「父さん」
「医務室へ行っていたのか」
「ええ」
「何を聞いた?」
エレノアは答えなかった。
父の目を見つめる。
ローレンスも、娘から視線を逸らさなかった。
静かな沈黙が二人の間に落ちる。
「リーアのことを調べている」
「まだ続けるのか」
「続けるわ」
エレノアははっきりと言った。
「リーアが自殺したと証明されていないもの」
父の顔から、わずかに表情が消えた。
「死んだ者を、いつまでも掘り返すものではない」
「どうして?」
「何?」
「どうして父さんは、そこまで私にやめろと言うの?」
ローレンスは黙った。
「リーアが死んだことを悲しんでいるなら、犯人を見つけたいと思わない?」
「犯人などいない」
その言葉が、エレノアの胸に突き刺さった。
「……どうして、そう言い切れるの?」
ローレンスは答えなかった。
ただ、静かに娘を見つめていた。
やがて彼は視線を外し、低い声で言った。
「お前には、関係のないことだ」
そのまま、エレノアの横を通り過ぎていく。
数歩進んだところで、父は立ち止まった。
「エレノア」
「何?」
「これ以上、王妃のことを調べるな」
エレノアは父の背中を見つめた。
「どうして?」
返事はなかった。
父はそのまま歩き去っていった。
エレノアは一人、廊下に残された。
夕暮れの光が、少しずつ薄くなっていく。
王妃のことを調べるな。
その言葉は、以前にも聞いた。
だが、今は違って聞こえた。
リーアの死と王妃の秘密。
その二つは、やはり繋がっている。
そして父は、その繋がりを知っている。
エレノアは拳を握った。
父を犯人だと決めるには、まだ早い。
それでも。
もう、父を無関係な人間として扱うことはできなかった。




