第18話 偽の遺書
リーアの部屋には、彼女が生きていた痕跡が、まだいくつも残されていた。
机の上には読みかけの本があり、窓辺には使いかけの香水瓶が置かれている。衣装棚には整然と並べられた服があり、寝台の脇には、昨夜まで使っていた小さな手鏡が伏せられていた。
死んだ人間の部屋というものは、不思議だった。
本人だけが、そこから消えている。
物は何も知らない顔で残されているのに、その持ち主だけが二度と戻ってこない。
エレノアは机の前に立ち、しばらく動かなかった。
昨夜、リーアは明日の予定を話していた。
姉と話す。
今までのことを、全部そのまま話す。
そう言っていた。
そして、翌日になれば着るつもりだった服まで決めていた。
少なくとも、リーアは自分が死ぬつもりで一日を終えたわけではない。
もちろん、それだけで自殺ではないと断定することはできない。
人は最後まで何も残さず死ぬとは限らない。
死ぬつもりでいながら、明日の服を用意することだってある。
だからエレノアは、感情ではなく別のところを見ることにした。
遺書。
リーアが残したという、あの紙。
エレノアはそれを机の引き出しから取り出した。
何度も読んだ紙だった。
『私は姉を殺そうとした。だから死んで償います』
短い文章だった。
余計なことは何も書かれていない。
だからこそ、エレノアは今になって違和感を覚えていた。
リーアなら、こんなふうに書くだろうか。
紙を机の上に置く。
その横に、別の紙を並べた。
リーアが生前に書いたものだ。
侍女のマリアに頼んで探してもらった。
買い物の覚え書き。
衣装の注文。
姉への贈り物について書いた短いメモ。
どれも事件とは関係のない、何気ない文章だった。
だが、エレノアが見たかったのは内容ではない。
文字だった。
筆の運び。
文字の大きさ。
句読点の置き方。
そして、言葉の選び方。
エレノアは二枚の紙を見比べた。
「……似ている」
文字そのものは、確かに似ていた。
筆跡を大きく変えたわけではない。
リーアの文字を知っている人間が見れば、本人が書いたと思うかもしれない。
しかし。
エレノアは眉を寄せた。
似ているからこそ、引っかかった。
普段のリーアの文字には、妙な癖があった。
急いで書くと、最後の文字が少しだけ右上がりになる。
文章の途中で考え込むと、句点を打つ位置がわずかに下がる。
それは本人にしか分からないほど小さな違いだった。
遺書には、それがなかった。
丁寧に書かれている。
丁寧すぎるのだ。
まるで、リーアの文字を知っている誰かが、それらしく見えるように書いたような――。
エレノアはそこで考えを止めた。
まだ決めつけるわけにはいかない。
筆跡だけでは証拠にならない。
問題は、そこではなかった。
エレノアはもう一度、遺書の文章を読んだ。
『私は姉を殺そうとした。だから死んで償います』
短い文章。
だが、リーアなら本当にこう書くだろうか。
エレノアは生前の妹の声を思い出そうとした。
リーアは姉を「王妃陛下」と呼ばない。
少なくとも、姉妹だけで話しているときは。
「お姉様」
いつも、そう呼んでいた。
怒っているときも。
皮肉を言うときも。
過去に姉を脅していたときでさえ。
「お姉様も困るでしょう」
そう言っていた。
王妃としてではなく、姉として扱っていた。
それなのに、遺書には違和感のある言葉が並んでいる。
エレノアは紙を裏返した。
何もない。
再び表に戻す。
たった一枚の紙だった。
そこには、リーアが姉を殺そうとしたこと。
そして、それを償うために死ぬこと。
それだけしか書かれていない。
だが、本当にリーアが自分で死ぬことを選んだのなら。
なぜ、姉に何も残さなかったのだろう。
昨夜のリーアは、姉と話すと言っていた。
謝るつもりだったのかもしれない。
言い訳をするつもりだったのかもしれない。
あるいは、過去のことをすべて打ち明けるつもりだったのかもしれない。
それなのに、自分が死ぬときには、たった一行の罪の告白だけを残す。
エレノアには、それがどうしても繋がらなかった。
扉が控えめに叩かれた。
「エレノア様」
マリアだった。
「入って」
扉が開く。
マリアは部屋に入ると、エレノアが机に並べた紙を見た。
「それは……」
「リーアの遺書よ」
マリアの顔が曇った。
「何か、分かったのですか?」
「まだ何も。ただ、確認したいことがあるの」
エレノアは生前のリーアが書いた紙を指した。
「リーアは、普段からこんな文字を書いていた?」
「はい」
「急いでいるときは?」
「少し崩れます。特に最後のほうが」
「この遺書みたいに、最初から最後まで丁寧に書くことは?」
マリアは遺書をじっと見た。
しばらくして、首を横に振った。
「……あまり、なかったと思います」
「やっぱり」
「ですが、遺書なのですから……丁寧に書いたのでは?」
「そうかもしれない」
エレノアは否定しなかった。
「だから、筆跡だけでは何も言えない」
そう言って、遺書を手に取る。
「でも、もう一つ気になることがあるの」
「何でしょう?」
「この文章」
エレノアは紙を見つめた。
「リーアが、こんなふうに自分のことを書くと思う?」
マリアは意味が分からないように瞬きをした。
「自分のこと……ですか?」
「ええ。『私は姉を殺そうとした』と書いているでしょう」
「はい」
「リーアは、姉を殺そうとしていたことを認めたくなかったわけではない。実際、過去には何度も王妃様を脅していた」
「……はい」
「それなのに、どうして最後だけ、こんなに他人事みたいな文章になるの?」
マリアは答えなかった。
エレノアも、すぐには言葉を続けなかった。
頭の中で、昨夜のリーアの声をもう一度思い出す。
『明日、姉と話すの』
あのときの顔には、諦めた人間の表情はなかった。
怖がっていた。
緊張していた。
それでも、逃げるつもりはなかった。
『今度こそ、ちゃんと話す』
リーアは、そう言った。
自分の言葉で話そうとしていた。
ならば。
死ぬ直前になって、自分の言葉を捨てるだろうか。
「……この遺書は、リーアの言葉じゃない」
気づけば、エレノアはそう口にしていた。
マリアが息を呑む。
「では……」
「まだ分からない」
エレノアはすぐに否定した。
「誰が書いたのかも、どうして書いたのかも」
遺書を机に戻す。
「でも、少なくとも私は、これをリーア本人が書いたものだとは思えなくなった」
その瞬間だった。
廊下から足音が聞こえた。
ゆっくりとした、重い足音。
エレノアは顔を上げた。
扉の向こうで足音が止まる。
「……誰?」
返事はなかった。
マリアが不安そうに扉を見る。
やがて、扉が二度、軽く叩かれた。
「私だ」
父の声だった。
エレノアの指が止まる。
ローレンス。
なぜ、この部屋に来たのか。
エレノアは遺書を手に取った。
そして、それを机の引き出しへ戻した。
「どうぞ」
扉が開く。
ローレンスが入ってきた。
いつもと変わらない顔だった。
静かで、疲れていて、何かを堪えているようにも見える。
彼は部屋の中を一度見回した。
「まだ調べているのか」
「ええ」
「もう十分だろう」
「そうは思わない」
エレノアは父を見た。
「リーアは、自殺したとは限らないから」
ローレンスの表情は変わらなかった。
だが、ほんの一瞬だけ。
目が、机の引き出しへ向いた。
エレノアは見逃さなかった。
「父さん」
「何だ」
「遺書を見た?」
沈黙が落ちた。
「……何度も聞かされた」
「そう」
「それがどうした」
「別に」
エレノアは首を振った。
「ただ、聞いてみただけ」
ローレンスは何も答えなかった。
その沈黙が、以前より重く感じられた。
エレノアは父を見つめながら思う。
遺書だけでは足りない。
筆跡も、文章も、それだけならただの違和感に過ぎない。
リーアが自殺したのではないと証明するには、もっと確かなものが必要だった。
誰が薬瓶を開けたのか。
誰が毒を手に入れられたのか。
そして。
誰が、リーアが自分から死んだように見せる必要があったのか。
そこまで辿り着かなければならない。
エレノアは静かに息を吐いた。
父の視線が、再び机へ向かう。
ほんの一瞬だった。
それでもエレノアには、もう十分だった。
遺書は、リーアの言葉ではない。
そして、それを書いた誰かは。
リーアの死を、最初から別の意味に見せようとしていた。




