第16話 なぜ知っていたの?
翌朝、エレノアはまだ空が白み始めたばかりの時間に目を覚ました。
眠りは浅かった。
何度目を閉じても、父の顔が浮かんだ。
――そんなことを言ったか?
――覚えていない。
昨日の会話が、頭の中に残っている。
父は、リーアの死亡時刻を知らなかったと言った。
だが、本当にそうなのだろうか。
エレノアはベッドから起き上がり、窓辺へ歩いた。
冷たい空気が隙間から入り込んでいる。
窓の外には、まだ朝霧が残っていた。
王宮の庭も、建物の屋根も、薄い白に覆われている。
あの日も、こんな朝だった。
リーアが死んだ朝。
あの日の出来事を、エレノアは何度も思い返してきた。
けれど、思い返すたびに一つの疑問が大きくなっていく。
父は、いつリーアの死を知ったのか。
そして。
いつ、リーアが死んだ時間を知ったのか。
エレノアは身支度を整えると、すぐに部屋を出た。
向かった先は医務室だった。
昨日会った医師は、まだ来ていなかった。
代わりに、別の医師が準備をしているところだった。
「先生、少し伺いたいことがあります」
「リーア様の件ですか?」
「はい」
医師は少し困った顔をした。
「まだ何か?」
「死亡推定時刻についてです」
「昨日もお聞きになったのでは?」
「はい。でも、確認したいことがあります」
エレノアは医師の前に立った。
「リーアの遺体が発見された直後、死亡推定時刻について誰かに伝えましたか?」
「発見した者には、死亡していることを伝えました」
「時刻については?」
「その時点では、まだ何も」
「どうしてですか?」
「詳しく確認していませんでしたから」
エレノアの胸が、小さく高鳴った。
「では、最初に死亡推定時刻を伝えたのは、いつですか?」
医師は記憶を辿るように目を伏せた。
「遺体を医務室へ運んでからです」
「誰に?」
「王妃陛下付きの侍女と、警備を担当していた者、それから……」
医師は少し考えた。
「エレノア様にもお伝えしたと思います」
「父には?」
「ローレンス様ですか?」
「はい」
「直接は……どうだったでしょう」
「父が医務室に来たのは?」
「遺体が運ばれたあとだったと思います」
エレノアはすぐに尋ねた。
「そのとき、父に死亡推定時刻を伝えましたか?」
「いえ」
「なぜです?」
「ローレンス様がいらしたときには、まだ正式な記録をまとめていませんでした」
エレノアは黙った。
胸の奥で、昨日から引っかかっていたものが形を持ちはじめていた。
「先生」
「はい」
「死亡推定時刻を九時半前後と判断したのは、いつですか?」
「遺体の状態を詳しく確認したあとです」
「それは、リーアが発見された日のいつ頃ですか?」
「昼前だったと思います」
「昼前……」
エレノアは小さく呟いた。
リーアが発見されたのは朝だった。
父がエレノアと話したのは、その直後だった。
つまり。
父が「その時間なら、もう手遅れだった」と言った時には。
まだ医師は死亡推定時刻を九時半頃だと判断していなかった。
そもそも、その時間を誰かに伝えてすらいなかった。
「先生」
「何でしょう」
「父が医務室へ来る前に、誰かが死亡時刻について尋ねたことはありませんでしたか?」
「いいえ」
医師は首を横に振った。
「少なくとも、私が答えたことはありません」
「分かりました」
エレノアは礼を言って医務室を出た。
廊下に出ると、足が止まった。
胸の鼓動が、妙に大きく聞こえる。
これで、父が嘘をついていたことが証明されたわけではない。
父が別の誰かから聞いていた可能性は残っている。
だが。
父が知っていたはずのないことを知っていた。
その可能性は、確かに高くなった。
エレノアは次に、リーアの遺体が発見された場所へ向かった。
王宮の温室。
あの朝から、そこへ足を運ぶのは何度目だろう。
扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
花々はいつもと変わらない。
誰かが死んだことなど知らないように、静かにそこに咲いている。
エレノアはゆっくりと中へ入った。
リーアが倒れていた場所。
侍女たちが騒ぎ、警備兵が駆けつけ、エレノア自身が立ち尽くしていた場所。
あの日の光景を思い出す。
リーアは、温室の奥にある椅子のそばで倒れていた。
その場で発見されたのは、遺書と薬瓶。
そして、誰もがそれを自殺だと思った。
だが。
薬瓶には毒が入っていた。
誰かが入れたのだとしたら。
その人物は、リーアが薬を飲むことを知っていなければならない。
エレノアは周囲を見回した。
温室の扉。
庭へ続く出入口。
管理用の小さな通路。
そして、窓。
ふと、管理人の言葉を思い出した。
前日の午後七時。
リーアが温室を訪れている。
つまり、リーアは死ぬ前夜にここへ来ていた。
何のために?
姉と話す前に、何かを確認しに来たのか。
それとも、別の用事だったのか。
エレノアは温室の奥へ歩いた。
そこには小さな机が置かれている。
管理記録や園芸用具が並んでいる。
以前見た記録をもう一度確認する。
昨日のものと同じだった。
午後七時。
リーア来訪。
それ以外には、特に何も書かれていない。
エレノアは記録を閉じた。
そして、ふと気づいた。
リーアがここへ来た時間と、父が薬品庫へ入った時間。
どちらも、前日の夜だった。
偶然なのだろうか。
エレノアは考え込んだ。
もし父がリーアを殺すつもりだったのなら。
リーアが温室へ来ることを知っていた可能性はある。
だが、それを示す証拠はない。
そもそも、リーアは薬を飲んでから死んだ。
毒を入れたのが父だとしても、いつ薬瓶に触れたのかは分からない。
エレノアはもう一度、温室を見渡した。
何も変わらない。
花。
椅子。
机。
窓。
そして、リーアが最後に立っていた場所。
彼女はここで何を思っていたのだろう。
明日になれば、姉と話す。
そう決めていた。
これまでのことを全部話す。
その言葉を思い出すと、胸が痛んだ。
リーアは死ぬつもりだったのだろうか。
もしそうなら、なぜ姉と話すと言ったのか。
なぜ、あれほど穏やかな顔をしていたのか。
エレノアは目を閉じた。
違う。
やはり、リーアは死ぬつもりではなかった。
そう思う。
けれど、それを証明するには、まだ足りない。
エレノアは温室を出た。
そして、王宮の廊下を歩きながら、頭の中で一つずつ整理していった。
父は王妃の秘密を知っていた。
リーアがその秘密を使って王妃を脅していたことも知っていた。
リーアを危険だと考えていた。
リーアが死ぬ前日、父は薬品庫に入っている。
そこには毒が保管されていた。
そして父は、誰からも正式には知らされていないはずの死亡時刻について、知っていたような言葉を口にした。
まだ足りない。
それでも。
もう、偶然では片づけられなくなってきている。
エレノアはその日の午後、父の執務室へは行かなかった。
代わりに、警備記録を調べた。
リーアが発見された朝。
誰が温室へ入り、誰が出たのか。
そして、父がその場へ来た時間。
記録には、いくつもの名前が並んでいた。
侍女。
庭師。
警備兵。
医師。
王妃付きの侍女。
その中に、ローレンスの名前もある。
だが、時間は遺体が発見されたあとだった。
父は、リーアの遺体が発見されたあとに来ている。
それ自体は不自然ではない。
むしろ当然だった。
けれど、エレノアは記録を見つめながら、あることに気づいた。
父が温室へ来たのは、医師が死亡時刻を判断するより前だった。
やはり。
父が知る方法は限られている。
エレノアは記録を書き写し、帳簿を閉じた。
そのときだった。
「エレノア様」
背後から声をかけられた。
振り返ると、警備兵の一人が立っている。
「少し、お尋ねしてもいいでしょうか」
「何ですか?」
「リーア様の件ですが」
警備兵は周囲を気にするように視線を動かした。
「実は、あの日、少し気になることがありまして」
エレノアは顔を上げた。
「何があったのですか?」
警備兵はしばらく迷ったあと、低い声で言った。
「リーア様が亡くなったと分かった直後、ローレンス様が温室へ来られました」
「はい。それは記録にもあります」
「ええ」
警備兵は頷いた。
「ですが、私が気になったのは、そのときのローレンス様の言葉です」
「何と言ったのですか?」
警備兵は記憶を辿るように目を細めた。
「確か……」
そして、ゆっくりと言った。
「『もう遅い』と」
エレノアの胸が強く鳴った。
「……もう遅い?」
「はい」
警備兵は頷いた。
「私には、何のことか分かりませんでした。ただ、ローレンス様は遺体を見たあとではなく、温室へ入る前にそうおっしゃったように思います」
エレノアは言葉を失った。
父は知っていた。
リーアが死んだことを。
それだけではない。
まだ誰も死因も死亡時刻も確定していなかった段階で。
父は、何かを知っていた。
エレノアは警備兵に礼を言った。
去っていく背中を見送りながら、胸の中に冷たいものが広がっていく。
父がリーアを殺した。
まだ、そう決めることはできない。
けれど。
父が何かを知っていたことだけは、もう無視できなかった。
エレノアはゆっくりと拳を握った。
ならば、確かめなければならない。
父が、何を知っていたのか。
そして。
なぜ、知っていたのかを。




