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王妃の妹、偽りの遺書  作者: フミえるる
第三部「父親」
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第14話 父親の正義

 父の執務室を出たあと、エレノアはしばらく廊下を歩き続けた。


 どこへ向かうのか、自分でも決めていなかった。


 ただ、あの部屋にこれ以上いることができなかった。


 父の声が、何度も頭の中で繰り返されている。


 ――王妃を守る必要がある。


 ――王妃の秘密は、一人の女の秘密ではない。


 ――お前が知れば、お前まで危険になる。


 どの言葉も、リーアを殺した証拠にはならない。


 けれど、父が王妃の秘密をどれほど重く考えていたのかは、十分すぎるほど伝わってきた。


 エレノアは窓辺で足を止めた。


 外には王宮の庭が広がっている。


 秋の終わりに近づいた庭では、花の数が少なくなり、木々の葉もところどころ色を失っていた。


 風が吹くたび、乾いた葉が地面を転がっていく。


 リーアが死んでから、まだそれほど時間は経っていない。


 それなのに、エレノアにはずいぶん遠い出来事のように感じられた。


 最初は、ただの自殺だと思われていた。


 姉を恨んでいた妹が、最後には罪を悔いて自ら命を絶った。


 そういう話なら、誰も深く調べようとはしなかっただろう。


 だが、薬瓶に毒が入っていた。


 そして、その毒は誰かが後から入れた可能性がある。


 さらに、その前日に父が薬品庫へ入っていた。


 偶然と言うには、重なりすぎている。


 それでも、エレノアはまだ父を犯人だと決められなかった。


 決めたくない、という気持ちもあった。


 けれど、それだけではない。


 犯人を決めるには、疑いだけでは足りない。


 リーアを殺したのが誰なのか。


 どうやって毒を入れたのか。


 なぜ殺したのか。


 そして、なぜ自殺に見せかけたのか。


 そのすべてがつながらなければならない。


 エレノアは窓から離れた。


 向かったのは、王妃の居室だった。


 セレーネに会うためではない。


 その部屋の近くにある小さな応接室へ入る。


 ここなら人の出入りも少ない。


 エレノアは椅子に腰を下ろし、父の言葉を一つずつ思い返した。


 父はリーアを危険だと言った。


 それは、単なる好き嫌いではなかった。


 リーアが王妃を脅していたことを知っていたからだ。


 王妃の秘密が外へ漏れれば、何が起こるか。


 父は、それを恐れていた。


 エレノアにも、その気持ちは理解できた。


 セレーネの出生は、ただの家族の秘密ではない。


 彼女が隣国の王族の血を引いているという事実は、国同士の関係に関わる。


 かつて敵国だった王家の血。


 それを持つ女性が、この国の王妃になっている。


 もしそれを利用する者が現れれば、王妃個人を傷つけるだけでは済まないかもしれない。


 父がその秘密を守ろうとしたこと自体は、間違いとは言い切れなかった。


 問題は、その先だった。


 秘密を守るためなら、何をしても許されるのか。


 エレノアは両手を膝の上で組んだ。


 ふと、リーアの顔が浮かんだ。


 最後に会った夜。


 あのときのリーアは、以前とは違っていた。


 どこか落ち着いていて、妙に静かだった。


 姉と話す。


 今までのことを全部そのまま話す。


 そう言っていた。


 あの言葉を、エレノアは何度も思い出していた。


 もし父がそれを知らなかったのだとしたら。


 父にとってリーアは、最後まで「王妃を脅す危険な妹」のままだったのではないか。


 そう考えると、胸が苦しくなった。


「……お父様」


 誰もいない部屋で、エレノアは小さく呟いた。


 父は何を知っていたのだろう。


 そして、何を知らなかったのだろう。


 その違いを確かめる必要があった。


 エレノアは立ち上がった。


 今度は王妃の部屋へ向かう。


 扉の前には侍女が立っていた。


「王妃陛下にお会いしたいのですが」


「お通ししてよいとのことです」


 どうやらセレーネは、エレノアが来ることを予想していたらしい。


 扉が開く。


 部屋の中は静かだった。


 窓際にはセレーネが座っている。


 手には刺繍の途中らしい布があったが、針は止まっていた。


「いらっしゃい、エレノア」


「突然、申し訳ありません」


「いいのです」


 セレーネは布を脇へ置いた。


「リーアのことですね」


「はい」


 エレノアは向かいの椅子に腰を下ろした。


 少し迷ったあと、口を開く。


「王妃陛下は、父がどれほどリーアを警戒していたか、ご存じでしたか?」


 セレーネはすぐには答えなかった。


 視線を落とし、指先をゆっくりと重ねる。


「……知っていました」


「父は、リーアが陛下を脅していたことも知っていました」


「ええ」


「それだけではありません。父は、その秘密が国に関わることだと考えていました」


 セレーネは静かに頷いた。


「ローレンスは、私を守ろうとしてくれていました」


 その言葉に、エレノアは顔を上げた。


「父を信頼しているのですか?」


「ええ」


 迷いのない答えだった。


「長い間、私の秘密を守ってくれました。陛下にも話せないことを、あの人には話していました」


 セレーネは窓の外へ視線を向けた。


「私がこの国へ来た頃から、ローレンスは私の立場を理解していました。私が何者なのか。それを知れば、どれほど多くの人間が私を利用しようとするのかも」


「だから、リーアを危険だと思った?」


「……そうです」


 セレーネの声が少しだけ沈んだ。


「リーアは、私の弱いところを知っていました」


 エレノアは黙って聞いた。


「最初の頃は、何度も怖い思いをしました。あの子が秘密を口にするたび、いつか誰かに聞かれるのではないかと思っていました」


「それでも、リーアは途中で変わった」


「はい」


 セレーネは目を伏せた。


「私も、そう感じていました」


「王妃陛下も?」


「ええ」


 意外な答えだった。


「一月ほど前から、あの子は何も要求しなくなりました。以前なら、私に何かを求めるために必ず秘密を持ち出していたのに、それがなくなったのです」


「理由は聞かなかったのですか?」


「聞きました」


 セレーネの指が、膝の上で小さく動いた。


「でも、リーアは答えませんでした」


「それは……」


「ただ、一度だけ言いました」


 セレーネは顔を上げた。


「もう、あんなことを続けるのは嫌なのだ、と」


 エレノアは息を止めた。


 それは、リーアが最後の夜に言った言葉と同じだった。


「では、陛下はリーアが変わったことを知っていたんですね」


「ええ」


「父は?」


「……どうでしょう」


 セレーネは首を横に振った。


「ローレンスには、私から話していません」


 エレノアは考え込んだ。


「なぜですか?」


「ローレンスは、リーアを警戒していましたから」


「だから?」


「余計な期待を持たせたくなかったのです」


 セレーネは少し寂しそうに笑った。


「それに、私自身がまだ迷っていました。リーアが本当に変わったのか、それとも別の目的があるのか。私には分からなかった」


「でも、最後には信じた」


「ええ」


 セレーネの声が小さくなる。


「だから、あの子が死んだと聞いたとき……私は、間に合わなかったのだと思いました」


 部屋に沈黙が落ちた。


 エレノアは、目の前の王妃を見つめた。


 セレーネはリーアを許していたわけではない。


 リーアも、姉を完全に許したわけではない。


 それでも、二人はもう一度話そうとしていた。


 その機会が、突然奪われた。


「王妃陛下」


「はい」


「もし父が、リーアを殺したのだとしたら」


 セレーネの顔が強張った。


「……そのときは、どうしますか?」


 しばらく、答えはなかった。


 やがてセレーネは静かに言った。


「真実を明らかにしてください」


「父を、裁くことになっても?」


「はい」


 その返事は穏やかだった。


 けれど、揺らいでいなかった。


「私は、ローレンスに守ってもらいました」


 セレーネは続けた。


「だからこそ、彼が何をしたのかを、私が勝手に決めてはいけないと思っています」


 エレノアは目を伏せた。


 父が王妃を守ろうとしていたこと。


 王妃自身も、そのことを知っていたこと。


 そしてリーアが変わったことを、父だけが知らなかった可能性。


 それらが少しずつ一本の線になり始めている。


 けれど、その線の先にはまだ届かない。


 父が薬品庫に入った。


 毒を扱える場所にいた。


 リーアには、殺される理由があった。


 だが、それだけだ。


 エレノアは立ち上がった。


「ありがとうございます」


「エレノア」


 扉へ向かおうとした彼女を、セレーネが呼び止めた。


「父上を疑うことが、つらいのでしょう?」


 エレノアは振り返った。


 答えようとして、言葉が出なかった。


「……はい」


 ようやく、それだけを口にする。


 セレーネは静かに頷いた。


「それでいいのです」


「え?」


「つらいと思えるなら、まだ大丈夫です」


 セレーネの表情には、悲しみがあった。


「犯人を見つけることだけを考えてしまえば、人は簡単に誰かを裁けます。けれど、あなたはローレンスを父親として知っている」


 エレノアは黙って聞いていた。


「だから、最後まで確かめてください」


 その言葉を胸に残し、エレノアは王妃の部屋を出た。


 廊下を歩きながら、彼女は一つのことを考えていた。


 父には、リーアを殺す理由があった。


 王妃を守るため。


 国を守るため。


 そう信じていたのなら、父が何かをしたとしても不思議ではない。


 だが、それでも。


 理由だけでは、人を殺したことにはならない。


 必要なのは、父が実際に何をしたのかを示す証拠だった。


 薬品庫へ入った。


 それだけではない。


 毒を手にしたこと。


 薬瓶を開けたこと。


 そしてリーアの死に直接つながる何か。


 エレノアは歩みを止めた。


 父が王妃を守ろうとしたことは、もう疑う必要がない。


 だからこそ、その先を確かめなければならない。


 父は本当に、守るために一線を越えたのか。


 それとも。


 誰かを疑っているうちに、自分が最も疑いたくない人間を犯人にしてしまおうとしているだけなのか。


 エレノアは静かに息を吐いた。


 リーアの死の真相を知るためには、父を疑うことから逃げてはいけない。


 けれど同時に、父を疑うことだけで終わってもいけない。


 必要なのは、事実だった。


 エレノアは再び歩き出した。


 今度は、薬品庫へ戻るために。


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