第13話 父は何を知っていたのか
薬品庫を出たあとも、エレノアの足はすぐには動かなかった。
廊下の窓から差し込む午後の光が、磨かれた床の上に細長く伸びている。その上を侍女たちが行き交い、遠くでは使用人たちの話し声も聞こえていた。
いつもと変わらない王宮だった。
けれど、エレノアには何もかもが違って見えた。
父の名前が、薬品庫の記録に残っている。
リーアが死ぬ前日。
しかも、王妃の薬を確認するという理由で。
だが、その薬を実際に運んだのはマリアだった。
理由としては、あまりにも不自然だった。
エレノアは一度、目を閉じた。
父がリーアを殺した。
そう考えれば、いくつものことがつながる。
父は王妃の秘密を知っていた。
リーアがその秘密を使って、セレーネを脅していたことも知っていた。
そして、リーアが死んだあと、エレノアが何を調べているのかを気にしている。
薬品庫にも入ることができた。
毒を手にする機会もあった。
けれど。
それだけでは足りない。
疑うことと、犯人だと証明することは違う。
父を犯人だと決めつけるには、まだ何かが欠けていた。
エレノアはゆっくりと歩き出した。
向かった先は、父の執務室だった。
扉の前で立ち止まる。
以前なら、ここへ来ることに何のためらいもなかった。
父の仕事が終わるまで待って、一緒に食事をすることもあった。幼い頃には、書類の山の向こうから顔を出してくれる父を見て安心した記憶もある。
今は、その扉一枚がひどく重く感じられた。
「入れ」
扉の向こうから声がした。
エレノアは一瞬、息を止めた。
まだノックすらしていない。
それに気づいて、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
「……私です」
「分かっている」
短い返事だった。
エレノアは扉を開けた。
父、ローレンスは机に向かっていた。
いつもと同じ姿だった。
書類を整理し、羽根ペンを手にしている。表情にも大きな変化はない。
それがかえって不気味だった。
娘が、妻ではなく王妃の秘密に触れ、さらに自分の名前が薬品庫の記録に残っていることを知っている。
それでも父は、普段と何も変わらない。
「何の用だ」
「薬品庫の記録を見ました」
父の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、エレノアは見逃さなかった。
「そうか」
「昨日、父上は薬品庫へ入っていますね」
「入った」
「王妃陛下の薬を確認するために?」
「ああ」
「その薬を運んだのはマリアです」
「そうだったな」
「では、なぜ父上が確認する必要があったのですか?」
ローレンスは答えなかった。
羽根ペンを机の上へ置く。
「王妃の薬に問題がないか確認する。それだけだ」
「マリアは、薬に問題がないと言っています」
「だから何だ」
「父上が薬品庫へ入る必要がなかったということです」
沈黙が落ちた。
窓の外で、鳥が一度だけ鳴いた。
ローレンスはエレノアを見た。
その目に怒りはなかった。
ただ、疲れたような色が浮かんでいる。
「お前は、まだリーアの死を調べているのか」
「はい」
「もう十分だろう」
「十分ではありません」
「自殺だという証拠はある」
「遺書だけです」
「遺書がある」
「毒が入っていました」
「自分で飲んだ可能性もある」
「誰かが薬瓶を開けた可能性もあります」
父の眉が、わずかに動いた。
「……誰か、か」
「はい」
「その誰かが父上かもしれない、と?」
言葉にした瞬間、部屋の空気が変わった。
エレノア自身、口にするまでは分からなかった。
父を疑うということが、これほど苦しいものだとは。
ローレンスはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
「お前は、私を疑っているのだな」
「疑っています」
エレノアは視線を逸らさなかった。
「ですが、犯人だとは思っていません」
「同じことだ」
「違います」
父の目が細くなる。
「疑うだけなら、誰でもできます。でも私は、リーアを殺した人を見つけたい」
その言葉を聞いて、ローレンスは目を伏せた。
「……リーアは、危険なことをしていた」
唐突な言葉だった。
エレノアは眉を寄せる。
「何の話ですか」
「お前は知っているだろう」
「何を?」
「王妃のことだ」
その瞬間、エレノアの背中に冷たいものが走った。
父は知っている。
それは以前から分かっていた。
けれど、今の言葉には、これまでとは違う重さがあった。
「リーアが王妃陛下を脅していたことも?」
「ああ」
「どこまで知っていたんですか?」
「十分なほどだ」
「何を要求していたのかも?」
「知っている」
エレノアは息を呑んだ。
金銭。
宝石。
王宮での待遇。
それらをリーアがセレーネに求めていたことは、すでに聞いている。
だが、それだけではない。
リーアは、姉の秘密そのものを握っていた。
それを利用して、姉を脅していた。
「父上は、リーアを危険な人間だと思っていたんですね」
「そうだ」
「だから?」
ローレンスは答えなかった。
「だから、何ですか?」
「王妃を守る必要がある」
「それは、リーアを殺してもいいという意味ですか?」
父の表情が初めて崩れた。
怒りではない。
悲しみに近かった。
「そんなことを言っているわけではない」
「では、何を言っているんですか」
「王妃の秘密は、一人の女の秘密ではない」
低い声だった。
「国に関わることだ」
エレノアは黙った。
セレーネが隣国の王族の血を引いている。
その事実が明るみに出れば、王妃の立場だけでなく、国同士の関係にも影響する。
父は、その秘密を守ることを自分の役目だと考えている。
それは分かっていた。
だが。
「リーアは、もう脅していなかった」
エレノアが言うと、父の目が動いた。
「……何?」
「リーアは、死ぬ少し前から王妃陛下への要求をやめていました」
「そういうふりをしていただけかもしれない」
「違います」
「なぜ分かる」
「本人から聞いたからです」
父は黙った。
「リーアは、姉と話すつもりでした」
「……」
「今までのことを全部話す、と言っていました。もう、あんなことを続けるのは嫌だとも言っていました」
エレノアは一つずつ言葉を重ねた。
「父上は、それを知っていましたか?」
「……知らない」
返事は早かった。
だが、その声には確信がなかった。
「本当に?」
「ああ」
「最後まで?」
ローレンスは目を逸らした。
「私は、あの子を信用していなかった」
その言葉だけが、静かに部屋へ落ちた。
エレノアは父を見つめた。
そこには、これまで何度も見た父の顔があった。
国を守ることを第一に考える人。
王妃を守ることを使命だと思っている人。
危険を遠ざけるためなら、自分が嫌われることさえためらわない人。
そして。
死んだリーアが、本当に最後まで危険な人間だったのかを確かめようともしなかった人。
「父上」
「何だ」
「もし、リーアが本当に変わっていたとしたら?」
ローレンスは答えなかった。
「もし、王妃陛下を脅すつもりがなくなっていたとしたら?」
「……仮定の話だ」
「そうです」
エレノアはうなずいた。
「でも、私はその仮定を調べます」
父の顔から、わずかに血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。
けれど、今度もエレノアは見逃さなかった。
「やめろ」
「なぜですか?」
「それ以上、掘り返すな」
「理由を教えてください」
「知らないほうがいいこともある」
「リーアが死んだ理由を知ることが?」
「そうだ」
ローレンスの声が低くなる。
「お前が知れば、お前まで危険になる」
エレノアはその言葉を聞き、静かに息を吐いた。
父は恐れている。
何かを。
王妃の秘密なのか。
リーアが握っていたものなのか。
それとも、自分自身のことなのか。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
父は、リーアが何をしていたのかを知っていた。
リーアが王妃を脅していたことも。
その秘密がどれほど重大なものなのかも。
そして、リーアが危険な存在だと考えていたことも。
だからこそ、エレノアは思った。
もし父がリーアを殺したのなら。
父には、理由がある。
だが、それはまだ証拠ではない。
疑いを確信に変えるには、父が何をしたのかを示すものが必要だった。
エレノアは踵を返した。
「どこへ行く」
「調べに行きます」
「エレノア」
「リーアが最後に何をしようとしていたのかを」
扉へ手をかける。
「それが分からない限り、私は父上を犯人だとは決めません」
ローレンスは何も答えなかった。
エレノアが部屋を出て、扉が閉まる。
一人残されたローレンスは、しばらく動かなかった。
やがて机の上へ置かれた羽根ペンを見つめる。
その指先が、わずかに震えていた。
廊下を歩きながら、エレノアは父の最後の表情を思い出していた。
あれは、疑われた父親の顔だったのか。
それとも。
何かを恐れている男の顔だったのか。
まだ、答えは出ない。
ただ、リーアの死の前日に薬品庫へ入った父の名前だけが、頭から離れなかった。




