3. 動き出したペン
その日のバイト中も、詩織は仕事に集中できなかった。
本の整理をしていても、ふとした瞬間に手の中の本が『月の記憶』に見えてしまい、ビクッと手を離してしまう。
幸い、店主の老人は「最近の若い子は疲れているのかねぇ」と苦笑いするだけで、深くは追及してこなかった。
夜になり、店を閉めてアパートに戻った詩織は、疲れ果ててベッドに倒れ込んだ。
夕食を食べる気力も湧かない。ただ、部屋の隅の机の上に置かれたキャンバスバッグが、妙な存在感を放って詩織を睨みつけているように思えた。
「見ちゃダメ。今日はもう、あの本を開いちゃダメ……」
自分に強く言い聞かせ、電気を消して目を閉じた。
しかし、人間の脳とは天邪鬼なものだ。
考えまいとすればするほど、あのノートの質感、あの美しい筆跡、そして器という不気味な言葉が頭の中で大きく膨れ上がっていく。
窓の外からは、昨日よりもさらに強くなった月光が、カーテンの遮光繊維を突き破るかのようにして部屋に侵入してきていた。
部屋全体が、ぼんやりとした青い水底のような明るさに包まれる。
ざざん。ざざん。
(器は……どこだ……)
「ひっ……!」
頭の中に直接響いてきた声に、詩織は跳ね起き、思わず叫び声を上げそうになった。
今度ははっきりと聞こえた。
それは夢ではない。自分が完全に覚醒している状態で、確かに耳の奥、あるいは脳の髄から響いてきたのだ。
耐えられなくなった詩織は、ライトもつけずに机へと駆け寄り、バッグから『月の記憶』を引っ張り出した。
この恐怖の正体を確かめなければ、今夜は1秒も眠れない。
ノートを開くと、ページは自動的に、昨日読み終えた次のページでピタリと止まった。
月光の下、詩織は狂ったように文字を追いかける。
『大正14年 10月15日。
月が満ちる。私の時間はもう残り少ない。
私の頭の中にある遥としての記憶は、砂の城のように崩れ始めている。代わりに流れ込んでくるのは、果てしない夜の記憶、月の記憶だ。
私は今日、鏡を見て、自分の名前を忘れてしまった。私は誰だ? 私は、この日記を書いている手は、誰のものだ?』
そこまで読んだとき、詩織はページの右下の余白に、これまで気づかなかった何かがあることに目を留めた。
それは、遥の端正な筆跡とは明らかに異なる、殴り書きのような、酷く乱れた走り書きだった。
インクの色も違う。遥の文字がセピア色に変色しているのに対し、その走り書きは、まるで今、書かれたばかりであるかのように、生々しい黒色をしていた。
詩織は顔を近づけ、その言葉を読み取ろうとした。
『器はまだ見つからない』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
(え……? これ、昨日もあったっけ?)
記憶を必死に手繰るが、深夜このページを開いたときには、こんな文字は絶対に無かったはずだ。
いや、それだけではない。
詩織が凝視している目の前で、その黒い文字の少し下に、じわじわと、新しい文字が浮き上がってきたのだ。
まるで、透明なインクで書かれた文字が、月光の熱によって炙り出されるかのように。あるいは、目に見えないペンで、今まさにその場所に書き込んでいるかのように。
『器は、すぐ近くにいる』
「いやあああ!」
詩織は悲鳴を上げ、ノートを床に投げ捨てた。
ノートはパサリと音を立てて床に落ち、開いたまま月光を浴びている。
浮き上がってきた文字。それは、過去の遺物であるはずのノートが、時間を超えて、現在の詩織に向かって語りかけているかのようだった。
器とは何のことなのか。遥が探していた、記憶を保存するための依代。
もし、その器が――。
詩織は自分の両手を見つめた。
小刻みに震える指先。その皮膚のすぐ下を流れる血が、自分のものではない、もっと冷たくて古い何かに置き換わっていくような、強烈な錯覚。
「私が……器……?」
その呟きは、静かな部屋の中にぽつんと落ち、誰にも答えを与えられないまま消えていった。
窓の外では、満月に限りなく近づいた月が、すべてを見通すような冷徹な眼差しで、詩織の部屋を照らし続けていた。




