4. 灰色の街と銀の草
翌日、詩織は自分がどのようにして大学へ行き、どのようにして時間を過ごしたのか、ほとんど覚えていなかった。
世界全体の彩度が落ちたように感じられた。街を行き交う人々の服の色も、信号の赤も、すべてが灰色がかって見える。
代わりに、頭の中に浮かぶ知らない情景だけが、恐ろしいほどの鮮やかさを持って自己主張していた。
(あの白い砂浜には、草が生えている。銀色の、細長い葉を持つ草だ)
(海には波があるけれど、音はしない。いや、音はあるけれど、それは耳で聞くものではなく、胸で感じるものだ)
そんな、ありもしない世界のルールが、詩織の頭の中に常識として定着し始めていた。
友人に「詩織、最近元気ないね? 大丈夫?」と声をかけられたが、詩織は彼女の名前がどうしても思い出せなかった。
入学以来、ずっと一緒にいる一番親しい友人のはずなのに、彼女の顔を見ても、頭に浮かぶのは見知らぬ大正時代の外套を着た男の背中だった。
「ごめん、ちょっと寝不足で……」
そう言って取り繕うのが精一杯だった。
このままでは、自分が自分でなくなってしまう。
詩織は、自分が19年間積み上げてきた詩織という人間の記憶のピースが、1枚、また1枚と、パズルの枠から外れて失われていくのを感じていた。
そして、失われたピースの代わりに嵌め込まれていくのは、あのノートの筆者、遥の記憶だった。
夕方、アルバイトのために『三日月堂』へ向かう道すがら、詩織は激しい恐怖に襲われていた。
今夜の月は、おそらく満月だ。
あのノートに書かれていた、すべての変質が最高潮に達する夜。
店に入ると、いつものようにランプの温かい光が迎えてくれたが、今の詩織にとって、その光さえも自分を現実にとどめておくには弱すぎるように感じられた。
カウンターの奥では、店主の老人が古いラジオに耳を傾けていた。
ラジオからは、雑音混じりのクラシック音楽が流れている。その曲を聴いた瞬間、詩織の胸に、またあの鋭い痛みが走った。
(あぁ、この曲は……ショパンの『ノクターン』。遥が、蓄音機でよく聴いていた曲だ)
気づけば、また遥の視点で物事を考えている。
詩織は自分の髪を強く引っ張り、痛む頭を抱えてカウンターに突っ伏した。
「おいおい、詩織ちゃん。本当に大丈夫かい?」
老人が心配そうに声をかけてくる。その声すらも、どこか遠くの水底から聞こえてくるかのように、歪んで届いた。
「店長……私、なんだか、変なんです。自分の知っているはずのことが思い出せなくて、知らないはずのことが、たくさん頭に入ってきて……」
涙混じりに訴える詩織に対し、老人は驚く風でもなく、ただその深い皺の刻まれた顔に、酷く悲しげな、そしてどこかあきらめたような、寂しげな表情を浮かべた。
老人は静かにラジオのスイッチを切り、店内に完全な静寂が戻ってきた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「詩織ちゃん。君は、月を、見すぎているんじゃないかい?」
老人のその言葉に、詩織は息を呑んだ。
なぜ、店長が月のことを言うのだろう。私はまだ、あのノートのことも、月光のことも、誰にも話していないはずなのに。
「店長……どうして、それを……」
詩織の問いに、老人は答えず、ただ店の窓の外、まだ昇り始めたばかりの、不気味なほど巨大な東の空の月をじっと見つめていた。
その瞳には、かつて彼自身も同じ恐怖を味わったかのような、深い怯えの色が混じっていた。
日常が完全に崩壊し、幻想の海へと沈んでいくカウントダウンが、静かに始まろうとしていた。




