2. 解(ほつ)れる現実の糸
翌朝、眩しいほどの太陽の光が部屋に差し込んできても、詩織の心にまとわりつく霧は晴れなかった。
それどころか、現実の世界そのものが、まるで薄いレースのカーテン越しに眺めているかのように、どこか現実味を失い始めていた。
違和感は、朝の支度をしているときから始まった。
「あれ……? 私のスマホ、どこに置いたっけ」
確かにお気に入りのマグカップの横に置いたはずのスマートフォンが、なぜか全く違う、クローゼットの中のハンガーの隙間に落ちていた。自分が無意識にそんな場所に置くはずがない。
さらに、大学の講義に向かう途中の駅でのことだった。
自動改札機に定期券をかざそうとした瞬間、自分のポケットの中に、見覚えのない古い真鍮製の鍵が入っていることに気づいた。
精巧な細工が施された、今時どこの扉にも使われていないような鍵だ。
「何これ……私、こんなの買ったっけ?」
鍵の表面に指を触れると、なぜかずっと昔からこれを知っていたという奇妙な確信が胸に湧き上がってきた。
それは、古書店『三日月堂』の鍵でもなければ、自分のアパートの鍵でもない。もっと別の、例えば……。
重いナラ材で作られた、天体望遠鏡のある部屋の扉の鍵。
(天体望遠鏡? そんなもの、見たこともないのに)
詩織は自分の頭を軽く叩いた。
自分の記憶の引き出しに、身に覚えのないカードが勝手に紛れ込んでいるような、気味の悪い感覚。
大学の講義中も、教授の声は右から左へと通り抜けていった。
ノートをとろうとシャーペンを握り、ふと気がつくと、ルーズリーフの余白に、自分でも驚くような達筆な崩し字で、びっしりと何かの名前を書き殴っていた。
『遥』
『遥』
『遥』
「っ……!」
詩織は慌てて消しゴムでそれを消した。
自分の手が、自分の意思とは無関係に動いたかのような恐怖。
周りの学生たちは、楽しそうに週末の予定を話し合ったり、スマートフォンの画面を見せ合って笑ったりしている。
彼らの生きる瑞々しい現実と、自分の足元からじわじわと崩れ落ちていく現実の、そのギャップに目眩がした。
「私、どうかしちゃったのかな……」
放課後、詩織は逃げ込むようにしてバイト先である『三日月堂』へと向かった。
あの静かで、時間が止まった空間に身を置けば、この奇妙な動揺も収まるかもしれないと思ったのだ。
だが、店に1歩足を踏み入れた瞬間、詩織はさらなる違和感に襲われた。
「あ、詩織ちゃん。お疲れ様」
カウンターの奥から、店主の老人が穏やかな声をかけてくる。
詩織は挨拶を返しながら、棚の配置に目をやった。
(おかしい……)
昨日まで、入り口のすぐ近くの棚には、日本の近代文学の文庫本が並んでいたはずだった。詩織が数日かけて丁寧にアイウエオ順に並べ替えたのだから、間違いない。
しかし今、そこにあるのは、すべて海外の古い天文学や自然科学の洋書だった。革表紙の背表紙には、金文字で読めない外国語が刻まれている。
「あの、店長。ここの棚、模様替えしたんですか?」
詩織が尋ねると、老人は怪訝そうに白い眉をひそめた。
「ん? 何言ってるんだい、詩織ちゃん。そこの棚は、私がこの店を開いた30年前からずっと天文学の専門書エリアだよ。文学ものは、奥の突き当たりの棚じゃないか」
「え……? でも、私、昨日ここに夏目漱石や太宰治の本を並べましたよね?」
「ははは、夢でも見ていたんじゃないかい? ほら、奥を見てごらんよ」
老人が指差した先、店の最奥にある薄暗い棚には、確かに詩織が見覚えのある、自分が並べ替えたはずの文庫本たちが整然と並んでいた。
詩織は足の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。
(私が間違っているの? それとも、店長の記憶が違っているの?
いや、それとも世界の方が、私の知らないうちに書き換わっているの?)
日常のあちこちに、小さな、けれど決定的な綻びが生まれ始めていた。
それはまるで、静かな水面に落とされた一滴のインクが、波紋を広げながらすべてを自分の色に染めていくかのような、不可避の浸食だった。




