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第2章 満ちゆく月のゆりかご  作者: 都桜ゆう


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1. 月光が紡ぐ文字

 その夜、詩織は浅い眠りの中で、何度も同じ音を聞いていた。

 ざざん、ざざん、と規則正しく繰り返される、低く重たい音。それは波の音だった。


 生まれたときから内陸の退屈な住宅街で育ち、海には片手で数えるほどしか行ったことがないはずなのに、その音は驚くほど生々しく耳の奥に響いていた。


「……ん……」


 喉の渇きを覚えて目を覚ましたとき、時計の針は午前2時を回っていた。

 カーテンの隙間から、信じられないほど鮮烈な青白い光が差し込み、ワンルームの狭い部屋を冷たく照らし出している。


 今夜の月は、昨夜よりもさらに丸みを帯び、まるで冴え冴えとした光を放っていた。


 詩織はベッドから起き上がると、何かに引き寄せられるようにして、床のキャンバスバッグへと手を伸ばした。


 中から取り出したのは、昨日、古書店の倉庫で見つけた濃紺の布張りノート――『月の記憶』だ。


 机の上にノートを置き、小さな読書灯をつけようとして、詩織は手を止めた。


「あ……」


 読書灯をつける必要はなかった。


 窓から差し込む月光が、ピンポイントでノートの表紙を照らし出していたからだ。


 それだけではない。


 驚いたことに、経年で茶褐色に変色していたはずの『月の記憶』という手書きのタイトルが、月光を浴びた瞬間、まるで夜光塗料でも塗ってあるかのように、微かに銀色に発光したように見えたのだ。


 詩織はゴクリと唾を飲み込み、椅子に腰掛けた。

 ゆっくりと表紙をめくる。古い紙の、あのバニラに似た甘く頽廃的な匂いが、昼間よりもずっと強く部屋の中に広がっていく。


 ページをめくる指が、自然と昨日読んだ破られた断面の直前で止まる。

 これ以上先は根元から引きちぎられ、白紙のギザギザした断面が残るだけのはずだった。


 ――だが、詩織は息を呑んだ。


 昨日、何度も確認したはずのそのページの余白に、青白い月光に炙り出されるようにして、前夜には絶対に存在しなかった新たな文字がくっきりと浮かび上がっていたのだ。


 筆者である(はるか)という人物の、あの端正で、どこか狂気を孕んだ美しい筆跡。

 まるで詩織が読むのを待っていたかのように、インクは瑞々しい光を放っている。


『大正十四年 10月3日。

 月光変質の実験は、第2段階へと移行した。



 最近、私は目覚めている時間と、眠っている時間の境界が曖昧になりつつある。

 鏡を見るたび、そこに映る自分の顔が、果たして本当に私という連続性を持った存在なのか、疑わしくなるのだ。


 脳の奥深くに、私のものではない記憶が、まるで潮が満ちるように染み込んできている。

 ――それは、どこまでも続く白い砂浜と、生命の気配がない静かな海。そして、風に揺れる銀色の草の風景だ』


 詩織は、息をすることさえ忘れてその一行を凝視した。


「……嘘」


 思わず声が漏れた。


 今、自分が夢の中で聞いていた波の音。そして、頭の片隅にぼんやりと浮かんでいた光景が、そのまま大正時代のノートに文字となって刻まれている。


 偶然の一致、という言葉では到底片付けられない不気味さが、冷たい、はうような感覚となって詩織の背筋を駆け上がっていった。


 さらに読み進めると、遥の記述はより具体的、かつ独白のような性質を帯びていく。


『この現象は、月が満ちるにつれて加速する。


 月光は人の記憶を書き換えるのではない。

 月という巨大な記憶の貯蔵庫から、かつて地上に存在した誰かの思念を、現世の肉体へと逆流させ、注ぎ込んでいるのだ。


 私は今、100年前、あるいは1000年前の誰かが愛した人の名前を知っている。

 その名を呼ぶとき、私の胸は引き裂かれるように痛む。

 だが、私の脳という器はあまりにも小さく、そして脆い。このままでは、新しい記憶が満ちる前に、私自身の自己が崩壊してしまうだろう。


 強固な、すべてを受け止めるための器が必要だ。月光のすべてを反射し、かつ内側に秘めることのできる、完璧な器が――』


 詩織は、「器……」という言葉を口の中で繰り返した。

 その瞬間、昨日バッグに仕舞ったあの紙の切れ端のことが頭をよぎる。


 詩織は震える手で、バッグからその紙を取り出した。

 折りたたまれたその切れ端をノートの余白に広げて並べてみる。


『――私を呼ぶ声がする。月光の落ちる、あの場所で。』


 ノートの余白に書かれた遥の言葉と、切れ端に記された言葉。


 2つの紙片は、破られた断面こそ合わないものの、そこに記された言葉が、ノートの余白にある完璧な器が――という独白とあまりに奇妙に呼応していることに、詩織は戦慄した。


 まるで、この日記の続きが、遥の意思によってこの切れ端の中に隔離されていたかのように。


 詩織は、その紙を再び丁寧に折りたたみ、ノートのページの間に挟み込んだ。

 まるで、いつか来るべきその時まで、この隠された結末を封印しておくかのように。


 遥は、自分の記憶、あるいは月から降ってくる記憶を保存するために、何かを、あるいは誰かを作ろうとしていたのだろうか。


 気がつけば、詩織の視界はノートの文字から外れ、窓の外の月へと向いていた。

 じっと月を見つめていると、頭の芯がジーンと痺れるような感覚がしてくる。


 そして、耳の奥で、またあの音が聞こえ始めた。


ざざん。ざざん。


(……おいで……)


 また、あの声だ。

 白い砂の上で、誰かが自分を呼んでいる。銀色の草が風に揺れ、サワサワと音を立てている。


 詩織は激しい眩暈を覚え、たまらずノートをバタンと閉じ、カーテンを乱暴に閉め切った。

 部屋が暗闇に包まれると、ようやく呼吸が戻ってきた。心臓が痛いほどに脈打っている。


「私はおかしくなってしまったの? ただの本に、どうしてこんなに振り回されているの……」


詩織は膝を抱え、夜が明けるのをただじっと待つことしかできなかった。


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