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隣の部屋にはお姫様が住んでいる  作者: 満月すずめ
第一章・一学期

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「ここで勘違いをしてはいけない」

 朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。


 頭はすっきりして、体もダルくない。ぬるい冷えピタを外してゴミ箱に投げ捨てれば、テーブルの上でスマホが振動を始めた。

 いつもの起床アラームを消したところで、スマホを置いた覚えがないことに気が付いた。ふと部屋を見回せば、制服がきちんとハンガーにかけて干されている。

 そんなことしたっけと頭を捻るも、適当に脱ぎ捨てた記憶しかない。更によくよく考えてみると、ある可能性に思い当たった。


 昨夜、深夜を部屋に上げた後、お粥が出来るまで眠ってしまった。もしかしてその時に。

 羞恥と絶望の喘ぎが漏れる。そんなつもりはなかったが、ものすごい世話になってしまった。いやもうほんとに勘弁してほしい。

 彼女は気にしなくていいと言うかもしれないが、そんな図太い神経を持っていたら直也は隣の県の高校に進学などしていないのだ。


 かといって、直也にできることなど何もないに等しい。生活能力もなければ金もなく、頭も顔も良くない。改めて考えると八方塞がりである。

 せめて小さな親切で返していくしかない。事と次第では迷惑になるが、昨日の別れ際に迷惑ではないと言われたので大丈夫だろう……多分。

 あれをどこまで解釈していいものか、直也には判断がつかなかった。


 ともかく、体調が戻ったのは何よりだ。朝食を作ろうとキッチンにいくと、炊飯器は空で冷蔵庫にメモが貼ってあった。水道屋のマグネットが初めて有効活用されている。

 そこには深夜のものと思しき丁寧で可愛らしい字で、『ご飯は冷凍庫にラップしてあります。レンジで温めて食べて下さい』と書いてあった。

 至れり尽くせりである。これがお世話モードか、と直也は震撼した。


 開けてみれば、2cm程度の厚みで平たい座布団型になったご飯が三つほど並んでいた。すごい、ちゃんとしてる。いつも適当に炊いては炊飯器で保温していたことを思うと少し恥ずかしい。

 いや、だって、一々米を洗うのが面倒なのだ。二日分くらい一気に炊いた方が楽だし水も節約できて経済的だ。男の一人暮らしなんてそんなものだと思う。多分。

 返すべき恩が天井知らずに積みあがっている気がするが、返済の目途も立たないので一旦置いておくことにした。


 しかし、どうしたものか。親切の一つとして忠告すべきか。こんなことをされると健全な男子なら勘違いしてしまいかねないぞ、と。

 そう忠告する自分を想像して、セクハラだな、と冷静に分析して却下する。まぁ、誰でも彼でもやっているわけでもなさそうだし、運が良かったと享受することにしよう。

 自分の中でそう結論付けて、直也はラップご飯を二つほどレンジに入れる。温めている間に卵焼きとインスタント味噌汁を作って、朝食は完成だ。


 頭の中の深夜が胡乱な目で睨んでくるが、これ以上手が込んだものを朝から作るのは直也には不可能である。どうか分かって欲しい。

 舌が昨日のお粥を覚えているせいで贅沢になっている。いつもの味のはずなのに不満を訴える口内を黙殺し、腹に詰める。

 空の食器を水につけて、新しいシャツに袖を通す。干してある制服のズボンをハンガーから外して履こうとすると、妙な恥ずかしさに襲われた。

 何故か昨日の深夜の笑顔を思い出してしまい、直也は必死に想像を振り払って殊更勢いよくズボンに足を通した。


 空の鞄を手に取って、今日の授業を確認する。教室の机に入れっぱなしのものだけで大丈夫そうだ。はぁ、とため息を吐く。

 一昨日のことを思い出してしまった。どうしよう、あの男子と顔を合わせたら謝るべきだろうか。それとも、何もなかったように振舞うのが正解だろうか。

 あの時は一刻も早くあの場を離れたくて、教科書を詰める間すら惜しんで空の鞄を掴んだまま教室を出てしまった。おかげで課題も何もやっていない。いや、どうせ体調悪くてやれなかったら同じなんだけれども。


 今更考えても仕方ない。案外他人の事なんてそこまで気にしないものだ。なんとかなれと願って部屋から出た。

 狙ったように隣の部屋のドアも開く。びくりと直也の肩が震えた。


「いってきまーす! お、直也くん! 元気になったみたいだね~」

「おかげさまで。ありがとうございました」


 素直に頭を下げる直也に、うんうんと朝陽は満足げに頷く。


「いいって! 私はなんにもしてないし。ミヤにきちんと感謝してね?」

「それは、はい。感謝してます」

「本人にも言ってあげるように。ねぇ、ミヤ~?」


 直也の眉が僅かに上がる。部屋の奥に向かって呼びかけている朝陽は気づかなかったようで、心底ほっとした。

 呼ばれて出てきた深夜が、胡乱な目で姉を見上げる。


「直也くん、元気になったって! ミヤの看病が良かったんだね! 私もまた看病してほしいな~?」

「風邪引いたらね。それよりお姉ちゃん、ゴミ当番また忘れてる」


 わざとらしいおねだりポーズのまま、笑顔で凍り付く朝陽。

 つくづく思うが、深夜が来るまでこの人はどうやって一人で生活していたんだろうか。少なくとも、夏場にゴミを放置してコバエを召喚したことは間違いない。

 こっそり深呼吸して、直也は姉妹の会話に入る覚悟を決めた。


「ゴミ、俺が持っていきますよ」


 何気なく言ったつもりなのに、姉妹揃って同じ驚き方で凝視してきた。

 ここで引いたら意味がない。奥歯をぐっと食いしばって耐え、なんでもない風を装う。


「ウチのゴミも出すんで、ついでに。ゴミ袋くらい、一つも二つも変わんないんで」


 心臓がバクバクと激しく動き回る。

 顔に出ないよう努めて平静を装いながら、内心は嵐が荒れ狂っていた。変な奴だと思われてないだろうか。このくらいセーフだと思ったが、世間的に実はアウトとかないか。危ない奴だと思われたら、これからどうやってご近所づきあいしていけばいいか分からない。


 返事が来るまでの数秒間は、判決を待つ罪人の気分だった。


「……ゴミ袋、持ってませんよね? 柏木くん」

「今持ってくる」


 自分でも何を言っているか分からないまま、焦って靴を脱ぎ捨て部屋に入り、半分程しか入ってない45ℓのゴミ袋の口を結ぶ。ふと思い至って折り畳み傘を掴んで鞄の中にいれ、早足で玄関に出た。

 何故か二人並んで待っていたお隣の美人姉妹にゴミ袋を掲げてみせる。


「ほら、これ。一緒に持ってくから。あー……助け合いというか、昨日のお礼ってことで」


 これくらいじゃアレだけど、と呟けば、深夜の表情が柔らかく解けていった。

 横目に見ていた朝陽が、僅かに目を丸くする。


「いいんですか? 結構量ありますよ」

「ダンベルじゃあるまいし、5キロも10キロもないだろ? 平気」

「それじゃ、お願いします。持ってきますね」

「おぅ」


 頷く直也に小さく笑いかけ、深夜が部屋に戻っていく。

 ドアの向こうに消えていくライトブラウンの髪を見ながら、直也はほっと胸を撫でおろした。方向性は間違っていない。返済はコツコツと、だ。


 そんな彼を悪い笑顔で見下ろす朝陽がいたことに、誰も気づかなかった。


「お待たせしました」


 直也の部屋と違い、満杯近く入った30ℓのゴミ袋を持って深夜が出てくる。

 女性のゴミ袋はまじまじと見るものではない。直也は紳士的に視線を逸らしながら、ゴミ袋を受け取った。


「じゃ、持ってくから」

「お願いします。あ、今日は雨が降りますよ」

「そうなん? 曇ってはいるな」

「降水確率80%です」

「折り畳みあるから、大丈夫。姫野さんは?」

「傘持っていきます。お姉ちゃんも忘れないでね?」


 話を振られた朝陽が満面の笑みで頷く。

 それは、実に迷惑なことを思いついた親戚のおばちゃんのものとよく似ていた。


「はいは~い。ところで直也くん、ミヤのこといつまで『姫野さん』呼びなの?」

「は?」


 何を言ってるんだコイツは、という顔で首を傾げれば、何故か朝陽は我が意を得たりとばかりに立派な胸を反らせた。


「私も会社では『姫野さん』なんだよ。だから、たまに私も呼ばれてるかな~? って気になるんだよね。分かりやすくしたほうがよくない?」


 胡乱な目で直也は朝陽を見やる。

 その区別の為に朝陽を名前で呼んでいるのではなかったか。


 年上の女性に失礼ではあるが、記憶力は大丈夫だろうか。深夜も同じようにじっとりとした視線を姉に向けている。「また何を言いだすのか」と呆れているのが良く分かる。二つの心が一つになった瞬間であった。


「ミヤが嫌だったら仕方ないけど、どうかな?」


 ウィンク一つ、8歳も年下の二人を大人げなく追い詰める。

 深夜が喉に何かを詰まらせたような顔をして押し黙る。なんとも卑怯な手段である。これで嫌などといえば少なくとも二人の間に気まずい空気が漂うことは間違いない。


 ただ、受け入れてしまうと今度は直也が困る。

 同級生でクラスメイトの『お姫様』を呼び捨てにするなど、あまりにもハードルが高すぎた。美少女と距離を詰めるのは、命に係わる事案だ。昨日からこっち、勘違いしそうな出来事が頻発しているのだ。これ以上は勘弁してほしい。


「……別にいいですけど」


 呼吸が止まるかと思った。

 小さく呟かれた深夜の一言に、直也は袋小路に追い詰められる。


 視線だけ動かせば、彼女と目が合った。異国の血が混じった瞳は美しくて、心臓が鷲掴みにされる。

 高嶺の花に手を伸ばすのは、柄じゃないのだ。


「あー、じゃあ、『姫野』でいいか?」

「はい」


 頷く深夜に、ほっと胸を撫でおろす。

 妥協の上の苦肉の策はなんとか通ったようだ。


「え~? 私も先輩に『姫野』って呼ばれるよ?」

「そのくらい声で分かりませんか?」

「んー、分からなくはないけどぉ」

「お姉ちゃん、時間いいの? ほら、ちゃんと傘持って」


 淡い桃色の傘を押し付け、深夜が姉の出勤を促す。

 朝の廊下で話し込みすぎたのは事実で、朝陽はちらりと腕時計を見て小さく嘆息した。


「もう行かなくちゃ。傘ありがと、ミヤ。じゃあね、直也くん! ゴミ出しよろしくね~」


 小さく手を振って階段を下りていく朝陽を見送り、直也と深夜はほぼ同時に安堵の息を吐く。思わず顔を見合わせ、小さく微笑む少女に少年は慌てて顔を逸らした。


「じゃ、学校で」

「はい、また後で」


 そう言って別れ、直也はマンションの裏手にあるゴミ置き場に向かう。

 マンションの住民専用の置き場があるということに引っ越し当初は驚いたものだ。公共のゴミ捨て場は町内会の管理とか色々あるらしい。世の中は知らないことだらけだと知れたのは、一人暮らしをしてよかったことだと言える。


 ゴミ袋を片手にまとめて、入居時に渡されたゴミ置き場の鍵を取り出しロックを外す。軽く投げ置いて鍵を締め直してエントランスに向かうと、鞄を持った深夜がいた。

 不審に思って首を傾げると、彼女が苦笑する。


「柏木くん、部屋の鍵かけました?」

「え? ……あ!」


 しまった。朝から色々あって忘れていた。大体、朝陽さんが変な事言うから。

 心の中で文句を投げつけ、ありがと、と言い残して階段を駆け上がる。せっかくのセキュリティも、使う側がこれでは意味がない。

 念の為ドアノブを回せば何の抵抗もなく開いてしまい、自分にため息をつきながら鍵をかける。次からは気を付けよう、と心に刻んだ。


 肩を落として階段を下り、エントランスを出る。

 そこで足が止まった。


 マンションを出てすぐ、壁に寄り添うようにして信じられないくらいの美少女が佇んでいた。

 太陽に照らされてキラキラと輝く髪は銀にも金にも見える。童話の世界から出てきたみたいな小顔に美しいパーツが整然と並び、瞳は黒の中に薄いエメラルド色の光が宿る。服の上からでもわかる線の細さの割に、体のラインは女性的な丸みを帯びている。


 お姫様みたいな女の子が、手に傘と鞄を提げて誰かを待っているようだった。

 気配に気づいたのかぴくりと反応し、彼女の瞳がこちらを映す。

 雪解けを思わせる柔らかな表情に、直也の心臓が音を立てた。


「鍵、大丈夫でした?」

「あ、あぁ。やっぱりかかってなかった」

「お姉ちゃんのせいですよね、ごめんなさい」

「あぁ、いや、教えてくれてありがとう。助かった」

「いえ、気づいて良かったです」


 微笑む深夜に、やっぱり言おうかな、と思う。

 そういうことをされると健全な男子なら勘違いするぞ、と。

 だが、そんなことを言う度胸はどこからも湧いてこず、あぁ、うん、などと口を動かしてどうしたものかと立ち尽くすしか直也にはできなかった。


 それじゃあ、と別れるのも変な気がする。どうせ行く場所は同じなんだし。けど、だからといって「一緒に行こうか」などと言うのは最早蛮勇(ばんゆう)に近い。

 にっちもさっちもいかずに頭を掻いていると、深夜が近づいてきた。

 ふわりと良い香りがする。曇天の空に似合わない香りに、緊張が止まらない。


「時間、ちょっと危ないかもです。もう行かないと遅刻しますよ」

「あぁ、うん、そうだな」


 水飲み鳥のように頷いて歩き出す。深夜が隣に並んだ。

 動揺を押し殺し、冷静に理由を考える。いや、考えるも何も、行く場所が同じなんだからそりゃそうだ。ここであえて離れて歩くのもおかしな話である。彼女の行動に他意はなんらなく、当然のことをしているだけにすぎない。

 ちらりと隣を見やる。頭一つ分低いせいで、小さなつむじが見えた。


 太陽が雲で陰っているせいだろうか、今日は薄っすらと銀色に見える。光の当たり具合で色が変わって見えるなんて珍しいと思う。深夜に似合っている。

 お姫様で、姉に苦労する妹で、お節介焼きで世話焼きのお隣さん。彼女は何も変わっていなくても、光の当たり具合で変わって見える。


 ただ、そのどれもが美しいのも彼女の髪色とよく似ていた。

 視線に気づいた彼女がこちらを見上げ、目が合う。それとなく不自然でないよう心掛けて、そっと視線を外した。


「傘、どうして折り畳みなんですか?」


 急に質問され、何の事か一瞬分からなかった。

 曇天の空を見上げ、ようやっと何を聞かれているか理解する。


「折り畳みなら持ち運び楽だし、鞄に入れてれば忘れないだろ?」

「柏木くんって、意外とズボラですよね」

「いや、まぁ……普通だと思うぞ。傘は持ち歩くの面倒だけど、もう濡れて風邪ひくのは御免だからな」

「そうですね。次はゼリーも買ってきましょうか?」

「……いや、いい。次はないようにする」


 溜息代わりに漏らした返事に、深夜がくすくすと笑った。その愛らしい笑顔に、胸の奥がくすぐったくなる。

 そうではないかと思っていたが、彼女は警戒を解いた相手にはかなり気安くなるらしい。学校での様子と姉への対応を見ていて薄っすらと察してはいたが、我が身にふりかかるとその違いに愕然とする。

 朝陽の言うことを真に受けるなら、彼女は元来世話焼きの性質があるのだろう。距離を詰めることを許された者には、それが発揮されるのだ。


 ただそれだけの、個性のようなものだと自分を戒める。

 ここで勘違いをしてはいけない。それは、警戒を解いてくれた彼女への裏切りのように思えた。


 隣にいる彼女の体温を意識しながら歩く通学路は、いつもより短く感じた。

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