「本当に彼がいなくなって」
バイト最終日は何事もなく――というわけにはいかなかった。
深夜との別れを惜しむお客さんが長蛇の列を作り、ついでに直也との別れも惜しんでくれた。更についでにパンも買っていくので、チーフは朝から作業場にこもりきりで店長もレジに張り付きっぱなしだ。
客に完全に捕まっている深夜はどうしようもなく、まだ自由の利く直也があれこれと雑用をこなした。普段の倍は忙しかったかもしれない。
良かったこととしては、深夜を知る客からの評判だ。
「去年より柔らかくなったよね?」
「すごーく話しやすくなった! 気がする!」
「あーお友達になりたーい! どこ住み? SNS何やってる?」
「やめなさいって。でも、確かに妹ちゃんの印象変わったわ」
「まぁねぇ、カレシくんのおかげかな?」
そう言って笑うお客さん達に、深夜も直也も微妙な笑いを返すしかなかった。
からかわれることには深夜は元から慣れているし、直也もひと夏で随分と慣れたものだが、こうしてセンチメンタルな時に言われると普段と違う威力がある。
別れを惜しみつつ、しんみりしないように言っているところがあるので、普段と同じ返しが中々し辛いのだ。
そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ去り、二人の勤務時間が終わる。
二人に挨拶をして着替えると、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
深夜の返事に、ドアを開けてチーフ夫妻が入ってくる。
二人の手には、それぞれパンが詰められた袋が握られていた。
「二人とも、今日までありがとう。できれば来年もお願いしたい」
「本当にありがとう、助かりました。ふふ、これは来年に期待を込めての賄賂ね」
店長がおどけながら深夜に袋を手渡す。
どうもこれはバイトが終わる時の恒例行事らしく、深夜も微笑んで受け取っていた。
直也にはチーフから袋が渡され、有難く受け取る。
「すみません、ありがとうございます。あんまりお役に立てなくてすみません」
「そんなことはないよ。柏木くんには助けられた。できればずっと居て欲しいくらいだ」
半ば本気でチーフが言い募ると、店長が軽く肘を小突いた。
「ダメよ、あなた。二人ともまだ学生だもの、平日は無理だし、休みはやりたいこともあるし勉強もしなきゃいけないでしょう。うちの子じゃないんだから」
「……うちの子だったらいいのになぁ」
本当に残念そうにぼやくチーフに、直也は苦笑いを返す。
その様子を見ていた深夜は心からの微笑みを浮かべた。
無理に誘ったバイトだったが、これほど仲良くなってくれて嬉しい。終わりを惜しむ気持ちが直也にもあるのだと見て取れて、寂しい気持ちと踊りだしたい気持ちが同時に溢れる。
「あの、チーフと店長にお話があるんです」
「何かな?」
チーフが気を取り直して顔を上げ、店長もにこりと微笑んで先を促した。
そして直也が口にした言葉に、しばらく深夜は放心することになる。
「二学期から、休日だけでもバイトさせてもらえませんか?」
「えっ?」
三人がそれぞれ、三者三葉の「えっ?」を漏らした。
あまりにも意外な直也の発言に、深夜は軽く意識を飛ばしてしまう。
どういうことだろうか。そんなにバイトが気に入ったのだろうか。
それとも、やはり一昨日の、誕生日のことが何か影響しているのだろうか。
直也くんは分かりやすい、と姉は言っていた。
それは絶対違う、と妹は思う。
何故なら、今の直也が何を考えているかさっぱりわからないからだ。
それとも、姉なら分かるのだろうか。
そんなことを考えてしまうと、胸の奥にちくりとした痛みが走る。
もちろん歓迎だよ、色々決めようか、などと喋るチーフや店長の声が遠く聞こえる。直也達と同じ場所にいるはずなのに、何故か自分だけが遠い場所にいるような気がする。
深夜の意識が戻ってきたのは、「帰ろうか」と直也に声をかけられてからだった。
※ ※ ※
帰り道、日差しの鮮烈さはいつもと変わらない。
違うのは、その下を呆然と歩く人間ばかりだった。
歩幅は合わないが、二人の距離が離れることはない。いつも通りに直也が歩調を合わせてくれているからだ。
ただ、深夜の心の中だけがいつも通りではなかった。
どうしてバイトを続けようと思ったのだろうか。それ自体は何も悪いことでもおかしなことでもないのに、深夜の胸を妙にざわつかせる。
バイトが気に入ったのならいいし、『パンの庭』に愛着が湧いてくれたのならなおさら嬉しい。そのはずなのに。
どこか、何かが変わってしまったような気がして、ぞわぞわする。
何が、と聞かれても分からない。ちらちらと覗き見る彼の横顔はいつもと変わらないし、歩幅も変わらない。二歩歩けば、彼が一歩歩く。
いや、嘘を吐いた。彼の横顔はいつもと少しだけ違う。
あの誕生日の翌日から、どんどん大人になっていってる気がする。
すぐ隣にいるのに、どこか遠くにいるような気もして、胸の奥でざわりとした感覚が沁みついて取れない。
彼の隣は家族といるような安心感さえあったのに、今はもう落ち着かない。それが不快でもない自分が居て、もう自分の事も良く分からなくなってくる。
さっきのことを聞きたいのに。
バイト続けることにしたんだね、って。ただ、それだけ言いたいのに。
聞いて良いのか悪いのか、分からない。
少し前までは、もう少し分別がついた気がするのに。
「これ、食うか?」
「え?」
袋を丁寧に開けて、中に入っていた白パンを半分に割って差し出された。
既視感に困惑しているのを遠慮していると思ったのか、直也は指を一本立てて深夜の持つ袋を指した。
「そっち、半分くれるか? 今回は俺達がもらったもんだから、それでいいだろ」
「あ……うん、そうだね」
思い出した。誕生日の前日も、こうしてパンを二人で分け合ったのだ。
クロワッサンが本当に美味しかったのと引き換えに、ブリオッシュの味はあんまり覚えていない。ちゃんと甘くて美味しかったはずだけど、直也の様子に気を取られていたから。
半分になった白パンからは小麦の香りが立ち上り、柔らかな断面が食欲をそそる。そっと齧ると、もっちりした食感と優しい味に口の中が支配された。
主張の強い味が何もない『パンの庭』の白パンは、いつまでも食べ続けられてしまう。菓子パンを避けても量を食べちゃ意味がない、とお客さんが嘆いていたのを思い出す。
話しかけづらいのもあって、黙々と食べる。
直也が食べきってからも深夜はハムスターのように口を動かしていたが、それでも帰り道の半分程度しか持たなかった。
だが、まだ手はある。袋を破かないように開けて、中のブリオッシュを半分に割って隣に差し出す。
「はい」
「ん」
直也の手の大きさに比してブリオッシュがあまりにも小さく見えるが、それでも残り半分の帰り道は持つはずだ。
最低でも、マンション近くまではなんとかなるはず。
ガバガバな目算を立ててブリオッシュを口に含む。じんわりとした甘さと濃い香りに包まれ、炎天下であることも忘れて酔いしれた。
やっぱりおじさんの腕は凄い。あまり知らない人と接するのが得意じゃない深夜が接客をやれているのは、『パンの庭』だからという理由も大きいのだ。
「あっま……」
隣で漏れた呟きに思わず顔を向ければ、直也が目を見開いて半分から更に欠けたブリオッシュをじっと見つめていた。
まるで生まれて初めて食べたみたいな反応。
ついこの前、一緒に分けて食べたのに。
「そんなに甘かった?」
バターと卵をたっぷり使ってはいるが、砂糖は少し控えめなのが『パンの庭』のレシピだ。
女性のお客さんが多いからこその配分で、牛乳などの自然な甘さで主張は弱め。それでもしっかりと甘味を感じるから凄い。そのことに驚いたのだろうか。
もう一口食べてみるが、やはり甘さはそこまで強くない。
首をかしげていると、直也が小さく噴き出した。
「いや、そうだよな。こんくらい甘いんだよな、これ」
そう言って笑いだす彼に、深夜が更に首を傾げる。
「こういう甘さ、苦手?」
「いや、美味しいよ」
首を振って、実に美味しそうに食べ始める直也。
何の事か分からず首を捻りながらも、深夜はブリオッシュをせっせと口に運んだ。
誕生日の翌日からずっと直也の事が良く分からないが、今日は更に良くわからない。それでも、彼が少し嬉しそうな顔をしているせいで、深夜も少し気分が上を向いた。
単純なメンタルに自分でも少し呆れるが、暗くなるよりはいいはずだ。
「美味いよな、チーフのパン」
ぽつりと呟くように漏れた言葉に、深夜はそっと頷く。
それは疑いようのない事実であり、朝陽がいたらヘッドバンキングかってくらいに首を縦に振っていただろう。
「ああいう人になりたいな」
その声に籠る切実さに、息が詰まった。
どういう意味だろうか。パン職人になりたいのだろうか。それとも、
「……筋肉つけたいの?」
真剣に問うたのだが、キョトンとした顔をされた後に思いっきり笑われた。
その笑顔があまりに無邪気で屈託がなくて、不服に思う気持ちと嬉しい気持ちが混ざって変な顔になってしまう。
「あったらいいよな、そりゃ。筋肉ってかっこいいもんな」
「……柏木くんには似合わないと思う」
「そうか? マッチョなのもいいと思うけどな」
言われてマッチョになった直也を想像して、あまりの似合わなさに首をぶんぶんと横に振った。
また小さく笑って、直也はブリオッシュの最後の欠片を飲み込んだ。
「ならやめとく。まぁ、ほどほどに鍛えるさ」
「うん」
頷いて、深夜も自分の分のブリオッシュを食べきった。
ちょうどマンションが見えてくる距離で、適当に立てた目算があってしまった。そのこと自体は何も悪くないのに、もう少し歩いていたい自分もいる。
直也だけではない。自分の事すら、本当に良く分からない。
「あぁ、そうだ。一応言っとく」
「なに?」
隣の彼を仰ぎ見れば、何でもない顔をしていて、
「明日から二日くらい、実家に帰るから」
頭の中が真っ白になって、その日は何を言われたのか理解できなかった。
翌日、本当に彼がいなくなって、ようやく飲み込めたのだった。




