「昨日のことは、話さなかった」
家に帰るまでが遠足なら、後片付けまでがパーティーだろう。
二人で協力すれば片付けはすぐに終わったし、朝陽もなんとか起こして自分の部屋に戻した。部屋の前まで直也が肩を貸し、そこから先は深夜に頼んだ。
彼女達を見送ってから、直也は自分の部屋に戻ってベッドに寝転ぼうとして止まる。
さっきまで朝陽が寝ていたベッド。
寝相は悪くなかったが、よれたシーツが人の体温を感じさせた。
急いで隣の部屋に行ってコロコロを引っ掴み、ベッド全体に満遍なく転がしてからシーツを綺麗に張る。
人の痕跡を消し去ってから、深呼吸を一回。隣の部屋にコロコロを投げ入れて、ベッドに寝転がった。
料理とお酒と甘いケーキの匂い。
パーティーの余韻が充満した部屋で、茫然と天井を見上げる。
薄く細い呼吸だけが部屋に響く。だが、直也の耳に聞こえているのは自分の呼吸音ではなく、降り積もる雪のように繊細で柔らかな声だけだ。
しばらく天井を見続けた後、掌をかざす。
手の甲を走る血管が浮き出て見えた。体中に血を流す器官。生物の証。青緑っぽく見える理由はなんだったか、光の波長の問題だったか。
ぐっと握りこめば、血管の色はさらに濃く見えた。
そのまま眠るまで、直也はじっと掌越しに天井を見つめ続けた。
※ ※ ※
翌日、いつも通りに二人一緒にバイトに向かう。
今日と明日で夏休みのバイトも終わりだ。二人の足取りにもどこか名残惜しさが漂う。
「バイト、もうすぐ終わりだね」
「あぁ。週末の前に終わりでいいのかな」
「千弥子さんの夏休みボケを直すんだってチーフも店長も張り切ってたよ」
「……それは、まぁ、ご愁傷様……でいいか?」
くすりと笑う深夜に、直也も微笑み返す。
ほんの少し驚いて目を丸くする深夜に特に反応せず、直也は前に向き直る。
そこからバイト先まで、他愛のない話をした。
昨日の事は、一言も話さなかった。
※ ※ ※
『パンの庭』はいつも通り盛況で、忙しなく動き回りながらも最後の時間を全員で惜しんでいた。
お客さんですら「もう終わり?」「まだバイトしなよ」「今度は来年? 長期休みのたびにやらない?」などと声をかけてくる始末だ。
チーフや店長は「二人次第」だと返答を濁してくれたが、かなり乗り気なようだった。バイトの継続を頼めば、二つ返事で頷くだろう。
深夜は考えたこともなかったが、冬休みや春休みにも手伝うのはいいかもしれない。
夏にしか手伝わなかったのは姉を習ってと、なんだかんだやることがあって冬も春も時間がそうないだろうと見越しての事だった。
が、高校生にもなったし環境も変わった。それもアリだろう。保護者である姉と相談してみようか。
そう思って直也を見れば、笑って話を受け流しながらも、どこか思い悩むような色が瞳の奥に滲んでいた。
なんだろうかと思いながらも、結局聞けないままにバイトの時間が終わりを迎えてしまう。昨日のことがあってから、どう接すればいいのか深夜にはいまいちわからない。
あんな真剣な話を誰かとしたことなんてなかった。生まれて初めての重い告白に、とにかく思ったことをそのまま口にした。
改めて冷静になるとそのことがやたらと恥ずかしく、口走った台詞が頭の中でぐるぐると回って責め立ててきて、考えないようにすることしかできない。
ちらりと覗き見た直也は、普段と変わりなく見える。
バイト中も、いつもと同じように少し困りながらお客さんに接し、あちこち早足で歩きまわって仕事をしていた。もうミスすることもなく、今日は少しだけ余裕すら感じた気がする。
チーフと店長に挨拶して、いつものように二人で帰る。
その横顔が昨日より大人びて見えたのは、どうしてだろうか。
「柏木くん」
「ん?」
呼びかければ、すぐに振り向いてくれる。
相川さん曰く、『普通の顔』。でも、男の子らしくてカッコいい顔。
何を言いたいのか自分でもわからなくて、必死に言葉を探した。
「……明日も、頑張ろうね」
「あぁ」
小さく頷く仕草が大人っぽい。
きっと苦労して沢山考えて傷ついてきたからだ。大人になるには理不尽を飲み込み、それでも笑うことだって誰かが言っていた。
だから、彼はきっともう大人なのだと思う。
「夏休み、終わっちゃうね」
「そうだな」
何を言っても受け入れてくれる彼の態度に安心する。
少しだけ素っ気なくて、でも暖かいカイロみたいな声。ちょっと重さのある響きが、ずんと体の中に落ちていく。
隣を歩く彼の足音を、もう覚えてしまった。
とん、とん、と地面をノックするような音。
ゆっくりゆったりと、こちらが二歩歩くとあちらが一歩歩くような。歩幅の大きさがなんとなく分かるのは、殆ど毎日一緒に買い物しているからだろう。
バイトが終われば、もうこの道を一緒に歩くこともない。そう思うと、明日が来るのが惜しくなった。
最後のバイトはいいものにしよう。心の中でそう誓って、深夜は分厚い熱気に揺らめく道を直也と歩いた。
夏の日差しに押し負けて流れた汗が、彼の横顔を伝って顎から滴り、地面に落ちる。
なんだか見てはいけないものを見てしまった気分で、深夜は軽く目を伏せた。




