「喧嘩両成敗」
――去年まで、柏木直也は隣の県の中学生だった。
成績は悪くなく、運動もできないわけではない。友人も少ないがいないわけじゃなく、融通が利く方ではないが頑固というほどでもない。
要するに、少し背が高い以外は普通だった。その辺にいる中学生だったはずだ。
それが変わったのは、中学二年生の二学期になってからだった。
クラスの上位カーストグループに目をつけられたのだ。勉強はほどほどで、でも運動はしっかりできて喧嘩も強い。部活にも入っていて活躍している。そういう人達が所属しているグループだった。
きっかけが何だったのかは分からない。そのグループは獲物を探すようにクラスのカースト下位の生徒を対象にちょっかいをかけていた。
その中で、ターゲットが直也に決まった。おそらく、反応が面白かったのだろう。へらへら笑ってやりすごす、というのが下手だったから。
世に言うイジメより、酷くはなかったと思う。
挨拶と一緒にグループの男子から強く背中や腕を叩かれたり、ノートを破って紙飛行機を作られたり、ぼーっとしていると急にビンタされたり。そのどれもが、大した悪意もなく行われていた。
彼らはいつだって半笑いだったし、物を隠すときは「今から宝さがしゲームをやります!」と宣言してきた。
まるで直也が彼らのグループの末端であるように振舞い、『仲間内でからかってます』という空気を作ることに余念がなかった。
最初は気の毒そうに見ていたクラスメイトも、段々と慣れてしまっていた。
それほど酷いことにはなっていない。だったら、そのままの方が都合がいい。教室中からそう言われているようで、時間と共に直也は息をするのが苦しくなっていった。
「筆箱って、マジで逆さにすると全部落ちるんかな? やってみようぜ!」
突然そう言ったかと思うと、複数人で直也の席を取り囲んで筆箱を奪い、躊躇なく中を開いて逆さまにした。
ぼどぼどぼど、とシャーペンや消しゴムが落ちていく。一本のシャーペンがどこかに引っかかって中々落ちず、その男子は軽く筆箱を振って無理やり落とした。
「綺麗に落ちねぇな?」
「そりゃそーだろ、マンガと一緒にすんなよ」
「現実ってそんなもんだよなー。あ、柏木、筆箱貸してくれてありがとな!」
ひょいっと机の上に筆箱を投げ捨て、礼は言ったからいいだろうと彼らはそのまま自分達の席へと戻っていった。
「……貸してないけど。落としたものは拾えよ」
「あ? あー、大丈夫大丈夫。もう授業始まるぞー」
グループでもリーダー格の男子生徒がニヤケた顔で軽く手を振る。彼らが直也を省みることはなく、唇を噛み締めて落ちた筆箱の中身を拾い集めた。
そんなことが、幾度となく繰り広げられた。
我慢がならなくなって、担任に相談したこともある。
その日の放課後に彼らは呼び出しを受け、翌日の朝に直也は取り囲まれた。
「柏木く~ん、ちょっと俺らとの間に誤解があるんじゃない?」
気色悪い声色で言われ、馴れ馴れしく肩を組まれる。
逃げ場はなかった。
「イジメとか、俺らしてないよね? ちょっとふざけてただけだよね? お前も俺らの遊びに付き合ってくれただけ、だろ?」
ニヤニヤした顔の奥に怒りが見える。
ぐっと顎に力を入れて、リーダーの男子を睨みつけた。
「あのさぁ、俺らが本気でイジメをやるなら、だよ? この場でお前をボコボコにしてパンツまで剥ぎ取って窓から投げ捨てたりとかできるわけ。スマホ割ったり、ゴミとして捨てたりさ。でも、そんなこと一度もしてないっしょ? そんなさぁ、マンガみたいなことやってないよね?」
「だから?」
「だから、これはあくまでおふざけなの。友達同士の悪ふざけ。な、そうだろ? 俺達友達だよな、柏木?」
一向に力の緩まない直也にリーダーはニヤケ顔に苦笑を滲ませ、肩を組んだ腕に力を込めてそっと耳元で呟いた。
「あんまり頑固だと、ホントにイジメちゃうぞ?」
背筋がぞくりとした。
こいつらはやる。良心の呵責も何もなく、お前が悪いのだと責任転嫁して平気な顔で今までよりひどい所業をストレス発散代わりにやるだろう。
この程度で収まっているうちに我慢すべきなのかと、直也は頭の隅で思ってしまった。
思ってしまったが最後、もう何を言い返すこともできなくなる。目を伏せる直也を見てリーダー格の男は満足そうに頷き、いつもより弱めの力で背中を叩いてきた。
「ま、誰にだって誤解はあるって! これからもよろしくな!」
今より酷い事態にならなそうだという安堵と、これからも続くのかという絶望が同時に胸中を襲う。
周りを見れば、誰もこちらを見ていない。いつもの光景だと、誰もが意識してすらいなかった。
昼休みに担任から呼び出しを受け、先日相談された件で彼らを注意したと言われた。「ただの悪ふざけだ」と言われ、クラスメイトに確認したところそうだと肯定した生徒が複数いたらしい。
「しっかり注意はしたが、何かあればまた言ってくれ。無理はするなよ」
優しい言葉の無責任な響きに、この方法は無意味だと悟った。
誰に何を言っても解決はしない。親に相談しようかとも思ったが、そんなことをしてどうすると思い直す。担任ですらどうしようもないのだ、親だってそんなこと言われてもどうしたらいいか困るだろう。
学校に乗り込んで騒いだって、「そんなことしてません」でやったやってないの水掛け論が始まるだけだ。
歯を食いしばって耐えるしかないのだと、直也は拳を握りしめた。
結局彼らの『イジリ』は終わることなく中学二年生が終わり、三年生が始まった。
新しい学年になればクラス替えがある。そこに希望を見いだして登校し、絶望した。
新しい教室の新しい席は窓際の真ん中、柱の隣に寄り添う場所にあって。そこから三列ほど離れたところに去年の上位カーストグループリーダーの席があった。
三年生になっても、我慢の日々が続く。
息をするのも苦しい毎日に限界がきたのは、一学期の学期末試験が終わりテストが返却された日のことだった。
教室中がどこか解放された空気で騒がしく、明るい雰囲気が真綿で首を絞めるように直也を追い詰める。
早く夏休みが来てほしい。学校に来なくていい時間が今はどうしても必要だった。
「いーち、にーい、さーん!」
突然の大声が教室中に響き、
吹っ飛ばされた。
左肩が思い切り柱にぶつかり、ごっ、と嫌な音がする。体の右側も左側も、どっちも痛い。何が起こったのか分からず反射的に周囲を見渡せば、床を転がるリーダーの男子がいた。
「ってぇ~~~!! コンクリートの床、マジいってぇ!!」
「当たり前だろ! ドロップキックとかマジでやる奴がいるかよ!」
「いやでもさぁ、めっちゃかっこよかったんだって! どうよ? カッコよかったろ?」
「バカだこいつぅ。そういうのはマット敷いてからやるもんだぞ!」
「マットなんかどこにもねぇだろ!」
そういうことじゃねぇよ、と返す上位カーストグループの男子。リーダーの男子も痛そうに体をさすりながら、ゲラゲラと笑ってグループに戻っていこうとしていた。
誰一人として、直也の事など気にしていなかった。
日常の光景として、気にも止められていなかった。
一体、いつまで。
そう思ったら、頭の中が真っ白になった。
呼吸が苦しくて、全身が痛い。震える指に力を込める。熱が頭の先まで支配する。
気が付くと、机を掴んでリーダーの男子に向かってぶん投げていた。
「がっ」
悲鳴にもならない声を上げてもんどりうって倒れる。
驚いたグループの男子が腰を浮かせ、遅れて直也に怒りの籠った視線を向ける。
「てめぇっ!」
それ以上は何を言ったのか、言われたのか、覚えていない。
手近なものを掴んで、近づく奴らをとにかくぶん殴った。容赦も躊躇もしなかった。そんな頭が働かなかった。
とにかく手を動かし物を振り回して、自分を害そうとする敵と戦った。
教師に羽交い絞めにされてようやく止まり、それまで出なかった涙があふれた。
どうしてこんなことになったのか。
自分の何が悪かったのか。
何も分からず、声を上げて泣いた。
この件は学校と保護者を巻き込んだ大騒動になり、当事者である直也とリーダーの男子は何度も何度も事情を聞かれ、説明させられた。
直也にとって幸いだったのは、両親が完全に味方になってくれたことだ。
息子は悪くない、という姿勢を一切崩さず、学校と他の保護者に迫った。イジメの事実は認められ、直也の心は少し軽くなった。
だが、問題はここからだった。
リーダーの男子が目に見えて分かる怪我をしたのだ。縫うことはなかったものの、頭から血も出た。直也は単純な被害者になることができなかったのだ。
学校側も相手の保護者もそこを突いてきた。直也だけが一方的な被害者ではない。その言い分に直也も両親も頭にきたが、だからといって事実は変わらない。
両親は夜中に話し合うことが増え、事態の決着は先延ばしにされ続けた。
そして、直也は自分が間違っていたのではないかと思うようになった。
あのまま我慢していれば、何事もなく卒業できたのではないか。両親を煩わせることもなく、クラスで腫れもののように扱われることもなかったのでは。
あの一件以降、学校での直也は触れてはいけないものとして扱われている。誰もが遠巻きに見やり、近づこうとしない。
反対に、リーダーの男子はすぐに輪の中に戻っていった。同じグループの連中以外とも話すところをよく見る。学校内のカーストでは、まだ彼は上位に居続けている。
だからか、数少ない友人にもこう言われた。
「気持ちは分かるけど、あのくらいで暴れたのはまずかったよ」
それは、きっと、第三者から見ればその通りなのだろう。
直也の心は、ゆっくりと捻じ曲がっていった。
自分が悪かったんじゃないか。両親の言うように本当に何も悪くないのだとすれば、なんで今こうなっているんだろう。
どうして両親は難しい顔をして、あいつは笑っているんだろう。
答えの出ない問いがぐるぐると回って、停滞した日常の空気を重くしていく。
結局、事態が決着を見たのは中学三年生の二学期の半ば頃だった。
校長室に呼び出され、リーダーの男子に謝罪される。担任からも相手の保護者からも謝られ、受け入れざるを得なかった。
そして、直也も頭を下げた。
そうするしかなかった。
学校側は、この件を『喧嘩両成敗』で収めたいようだったから。
受験に向けて動き出しているこの時期に、大事にはしたくないのだろう。
これ以上長引いて両親に心労をかけるのを直也は望まなかった。その為なら、自分をイジめた相手に頭を下げるくらいできた。
どうしてこっちが謝らなくちゃいけないんだろう、と思いながら。
その後、両親と話し合い、高校は隣の県の公立を受験することにした。
例え僅かでも連中と同じ高校になる可能性は潰したかったし、同じところに住んでいれば顔を合わせる機会もあるかもしれない。
それは、我慢がならなかった。
それでなくとも、表沙汰にはなっていないものの学校を巻き込んだ事件なのだ。同じ学校の生徒にはある程度知られているだろうし、その状態で高校生活を送れる気がしなかった。
誰も自分を知らない場所で、新しく始めたかった。
嫌な思い出を過去に捨てて、未来を信じてみたかった。
そんな器用な真似ができるくらいならもっと穏便になんとかできたんじゃないかという冷めた自分が頭の中で囁いた言葉は、無視することにした――




